第六百二話 小休止
大陸暦五百一年十二月三十日。
セツナは、領地であるエンジュールにきていた。
ガンディア王国ログナー地方エンジュール。温泉地として発展しつつある小さな街は、大きな山々に抱かれるようにして存在している。小さな街だが、今後の発展の可能性は、セツナには想像しきれないほどにあるらしい。ザルワーン戦争の疲れを癒やすために訪れたときよりも、活気づいているように思えたのは、気のせいではなかった。
堅牢な城壁の改築、増築が始まっており、市街地には新たな道路が整備されていた。いくつもの温泉が新たに発見されており、温泉宿と温泉宿を結ぶ定期馬車や、エンジュール内を案内するための観光馬車も走っていた。温泉地として繁栄するバッハリアの余波が、エンジュールにまで届いているといったところだろう。
「ここがご主人様の領地……」
「そうよ、セツナは領伯様なのよ。そしてあたしが未来の領伯夫人……!」
窓の外の景色に驚嘆の声を上げるレムに対し、ミリュウはなぜか胸を張った。青く澄み渡る空の下、流れる景色は冬の色合いを帯びつつも、美しいものだった。
冬であっても温泉は温泉だ。むしろ夏場よりも客の入りは多いのではなかろうか。温泉宿を探す観光客の姿が散見された。
ガンディアがミオンとの戦争を控えているという情報は、エンジュールにまで届いているのだろうか。
「なにいってるんだか」
ファリアが、ミリュウの隣で肩を竦めた。ちなみに、セツナの隣の席は、レムが独占している。セツナの護衛を任務として与えられた彼女は、セツナの隣を他の人間に譲ろうとはしないのだ。これにはミリュウも激怒するかと思ったのだが、久々のエンジュールにわくわくしていた彼女には、どうでもいいことだったようだ。
「第二夫人でも構わないわよ?」
「そういうことをいってるんじゃなくて!」
女三人が集まれば姦しいとはこのことだろう、とセツナが痛感したのは、一度や二度ではなかった。そして、ガンディオンからエンジュールまでの道中、常に騒がしくなにかを言い合う三人のおかげで、騒がしさにもなれてしまっていた。いまでは、三人が沈黙していることのほうが不思議でしょうがないと思うようになっている。
セツナたちを乗せた馬車がエンジュールの市街地を駆け抜け、役所に辿り着くと、エンジュール司政官ゴードン=フェネックと、彼の秘書ジョン=ランカームが待ち受けていた。ゴードンは相変わらずひとの良さそうな顔だったが、以前会ったときよりも痩せているように見えた。
「お待ちしておりましたよ! 領伯様!」
セツナが馬車から降りた途端、ゴードンが息を切らせながら駆け寄ってきたので、セツナは苦笑を浮かべるしかなかった。
「いや、まあ、ゴードンさんならそういう風に来るだろうとは思っていたけどね」
「はい?」
「こっちの話。それはそれとして、出迎え、ご苦労様。年明けまでは滞在するつもりなんだけど、宿は用意してあるんだよね?」
「もちろんです! ですが……実に申し訳にくいことなのですが、領伯様のお屋敷はまだ完成しているとは言い難く、休むにも不適切な状態ですので、今回は仮宿として《炎の月》亭を貸し切らせて頂くことになっております」
ゴードンが申し訳なさそうにすると、こちらまで申し訳ない気分になるのは、彼の人徳のなせる技なのだろう。が、気になったのは、彼の表情や仮宿のことではない。
「俺の?」
「セツナの?」
「ご主人様の?」
「屋敷?」
四者四様に反応するなか、ミリュウに抱えられた子犬のニーウェだけは不思議そうな顔をしていた。黒い毛玉は、日に日に膨張している。ポメラニアンに似た犬種のようだが、正確にはわからない。
「えーと、はい、そうです、領伯様のお屋敷でございます。現在建設中でして、来年の二月にはお披露目できるかと」
「屋敷……ねえ」
セツナは、ゴードンの不安げなまなざしを見やりながら、感慨を覚えた。かつて、王都に家を持てと勧められたことがあったが、そのときは、隊舎だけで十分だと答えた記憶がある。実際、ガンディオンにいる限りは、隊舎だけで十分だった。ルウファの拡張計画によって、隊舎には生活に必要不可欠な機能が完備されてもいる。別に屋敷を持つ必要性は感じられなかった。
しかし、エンジュールでの、領伯としての屋敷となると、別の話だ。エンジュールの領伯に任じられた以上、その土地にそれ相応の屋敷を持つのは、当然のことなのかもしれない。いままで考えたこともなかったが、考えて見れば、納得のできることだ。
「へー! セツナの屋敷ねえ! つまりあたしたちの新居ってわけね!」
「だから、なんでそうなるのよ!」
「だって、あたしってもうセツナの家族みたいなもんじゃない?」
「じゃない? じゃないわよ! 全然違うでしょ!」
「むー……セツナはいつまでも一緒にいてあげるよ、っていってくれたもん!」
「本当なのですか? ご主人様」
ミリュウが半分涙目になりながら訴える様子が引っかかったのか、レムが耳打ちで尋ねてきた。セツナは、額を抑えながら、頭を左右に振った。
「そこまではいってないよ」
もはや家族みたいなものかもしれないけどね、と付け足して、セツナはレムを見た。死神壱号の闇色の目は、いつも通りの絶望を湛えているだけだが、表情そのものは、この状況を楽しんでいるようにも見えた。
彼女が一体何を考えて使用人を演じているのかはわからないが、楽しんでいるのならば、それもいいのかもしれない。
そのように考えられるのは、エンジュールを訪れたからなのだろうか。
(領地か)
エンジュールの地を踏むのは、これで二度目だ。一度目は療養のために訪れ、今回は、年末年始を領地で過ごせというレオンガンドの計らいによるものだった。
その際、レオンガンドは、ミオンを征討すると宣言し、セツナたち《獅子の尾》も参戦する旨が伝えられた。が、すぐさまミオンに攻めこむつもりはなく、年が明け、情勢が落ち着いた頃合いを見計って攻撃を開始するということだ。
ガンディアにとっても、周辺諸国にとっても激動の一年だったのだ。年末年始ぐらい、戦いから離れ、家族や親族と過ごすべきだ、というレオンガンドの想いが、開戦を先延ばしにしたという。
『ミオン征討が成れば、つぎはクルセルクが控えている。休んでいる暇はないかもしれぬ。いまのうちに英気を養っておいてほしい』
レオンガンドはそういって、セツナを労ってくれた。セツナは、臣下想いの主君に巡り会えたことを感謝するとともに、王都を離れたのだ。
「しかし、領伯様おひとりで来られるものだとばかり思っていたのですが」
ジョン=ランカームが困惑気味の笑顔を浮かべたので、セツナも素直に頷いた。年末年始の休暇は、当然、セツナだけに与えられたものではない。《獅子の尾》の隊士は皆、セツナと同程度の休暇を与えられていた。《獅子の尾》だけではなく、《獅子の牙》も《獅子の爪》も年末年始は王宮務めから解放されるらしい。
とはいえ、王宮警護も都市警備隊も休むことなく働いているため、警護の不備を案ずる必要はなかった。最悪、レオンガンドに暗殺者が忍び寄ったとしても、最終防衛線にはアーリアがいる。皇魔が送り込まれたとしても、カインがいる。ふたり以外にも戦力はあるのだ。その戦力で対処できないようなことなど、セツナの有無でどうにかなるようなものでもあるまい。
「俺だってそうさ。まさか三人ともついてくるなんて思ってもみなかったよ」
「ニーウェのこと、忘れちゃやーよ」
「あ、ああ、ニーウェもいれて三人と一匹か」
セツナは、ミリュウのどすの利いた声に、慌てて訂正した。
とはいったものの、セツナはたったひとりでエンジュールに来るつもりはなかった。一人旅ほど心細いものはない。領地とはいえ、住み慣れた王都とは勝手が違うのだ。孤独を感じるに決まっている。だから、《獅子の尾》の皆を誘うつもりでいたのだが、ルウファはエミルとともにバルガザール家の本邸で年末年始を過ごすといい、マリアは王宮の医務室で年を越すということで、婉曲に断られた。
ミリュウは、なにもいわなくてもついてくるつもりだったようだ。それはファリアも同じだったが。ファリアは、《大陸召喚師協会》との関わりが本格的になくなってしまったことを理由にあげていた。《協会》との繋がりがあれば、ガンディオンの支局にでも出向くつもりだったのかもしれないが、それも叶わぬものとなってしまっていた。
レムは、当然のように同行を申し出てきた。断る理由はなかったし、断ったとしても、彼女はついてきたに違いない。レムは与えられた任務をこなしているだけなのだ。
「セツナってばニーウェのこと嫌いなのかしら。こんなに愛らしいのに、ねえ」
「ニーウェ様は可愛らしいのですが、飼い主は小憎たらしくて、困りモノでございます」
「はっ、ニーウェの飼い主はあたしでも、あたしの飼い主はセツナだからね!」
「どういう張り合い方なのよ」
「ま、賑やかなのは、悪くないでしょ」
「わたくしどもとしては、なんら不満はございませんよ」
ジョン=ランカームが浮かべる笑顔に、セツナは心底ほっとした。領伯に任命されたときはどうなるものかと思ったものだが、司政官や役所のひとたちが上手くやってくれているようなのだ。セツナの屋敷まで手配してくれていたのだから、驚くばかりだ。
セツナは、領地についてなにも心配する必要はなかった。
心配事があるとすれば、年が明けてから始まる戦いの日々についてだ。ミオンはともかく、その後のクルセルクとの戦いはどうなるのか、セツナにも見当がつかなかった。