第六百一話 決別
ミオンを巡る情勢は、緊張に包まれている。
ミオンが国内を逃亡中だった宰相マルス=バールの身柄を確保したという情報が、ガンディアに飛び込んできたのが、大陸暦五百一年十二月二十一日である。ガンディアの国王レオンガンド・レイ=ガンディアは、その報せを受け、ミオン征討を決意するに至る。
ミオンがマルス=バールを確保したのは十二月十七日のことであり、ミオンがマルス=バールの身柄を確保しながら、ガンディアに対してなんの報告もしてこなかったという事実が、レオンガンドを突き動かした。
宰相マルス=バールの命さえ差し出せば、ミオンがクルセルクに通じ、レオンガンドたちの暗殺を謀ったという事実を水に流すといった側からこの仕打である。レオンガンドが激昂するのもの無理はなかった。
ミオンは、ガンディアとの同盟関係の継続よりも、ミオンの安寧よりも、宰相の命を取ったのだ。理解し難いことだが、ミオンがマルス=バールの首を寄越さない以上、そういうことなのだろう。
レオンガンドは軍議を開き、一部戦力をミオン方面に集中させるように指示した。クルセルクとの決戦が控えているいま、大戦力をミオンに差し向けることはできない。全軍を投入するなどありえないし、そんなことをすれば、がら空きになったザルワーン方面にクルセルクの別働隊が雪崩れ込んでくる可能性がある。
ミオンは、それを狙っているのかもしれない。
軍師や将軍の懸念は、そこにあった。
ミオンが未だにクルセルクと繋がっており、クルセルクからの援軍を期待できるからこそ、ガンディアを見限ったのではないか。クルセルクの総兵力は、現状、ガンディアを大きく上回っていると見る向きが強く、その見方を否定する根拠はなかった。反魔王連合との戦いに決着を着ける傍ら、ミオンに援軍を差し向けるだけの戦力的余裕が、クルセルクにはあるようなのだ。
とはいえ、ミオンに潜入中の諜報員からは、ミオン国内にクルセルク軍の皇魔が潜伏しているという報告はなく、クルセルクとの繋がりは強いものではないのではないか、という声もあった。しかし、クルセルクなどの協力者が背後にいなければ、イシウスの決断は不可解極まるものだった。
ミオン一国の戦力では、ガンディアには勝てない。勝てるはずがない。局地的な戦いでは勝利を得ることができるかもしれないが、最終的にガンディアが勝利を得るのは、火を見るより明らかだ。兵力差は圧倒的であり、戦力の質でも、ガンディアが大いに上回っている。
イシウス王は気でも狂ったのか、という声も上がったほどだった。
マルス=バール一個人のために、ガンディアを敵に回すなどありえない判断だった。確かに、マルス=バールは、ミオンの再建に尽力した人物であり、その手腕は、レオンガンドが喉から手が出るほど欲するほどのものだ。他国人を滅多に褒めないナーレス=ラグナホルンでさえ、マルスのミオン再興には脱帽したほどだった。
そして、マルスは、イシウス・レイ=ミオンを国王の座に押し上げた人物でもある。イシウスが彼を頼りにし、国政を彼ひとりに任せたのも、それが最大の要因だった。イシウスは、マルスこそ、ミオンに必要不可欠な存在だと思っていたのかもしれない。だから、殺すに殺せなかったのではないか。
しかし、その結果ミオンが滅びては、本末転倒以外のなにものでもない。
「なんであれ、マルス=バールの首を差し出せばよい。それだけで、わたしは矛を振り上げずに済む」
レオンガンドは、ハルベルクとの話した直後、ミオンに使者を出している。ハルベルクには、ミオンなど取るに足らないもののようにいったものの、この情勢下で戦争を起こすのは、ガンディアとしても得策ではなかった。しかも、相手が長年ガンディアに助力を惜しまなかった同盟国となれば、周辺国への聞こえが悪い。
クルセルクとの一大決戦を控えている。
ガンディアは、反クルセルク連合軍の盟主なのだ。その盟主が、同盟国を滅ぼすとなれば、連合軍に参加している国々にも、決していい影響を与えることはないだろう。ミオンがガンディアを裏切ったという事実を知っていたとしても、だ。
できれば、ミオンとの間で戦争を起こしたくはない。
いや、どんな国とも、戦争などしたくはなかった。
戦わず勝利を得ることができれば、それに越したことはない。ナーレスが血を流すことなくベレルを支配下に置いたことがあるが、あれこそが最上であり、あれ以上の勝利はなかった。ザルワーン戦争にせよ、ログナー戦争にせよ、大量に血が流れている。
最高の勝利とは、いえない。
「なにごとも起きなければ良いのですが」
ナージュの悲しそうな顔は、彼女がイシウスを気に入ったからにほかならなかった。ミオンと戦争になれば、イシウスは殺さなければならなくなるかもしれない。
ログナーのように降伏するならばまだしも、マルス=バールさえ差し出さないようなものが、自分の命惜しさに降伏するものだろうか。
ナージュの願いも虚しく、ガンディアとミオンは、戦争に向かって突き進むことになる。
十二月二十四日、レオンガンドの使者がミオンの首都ミオン・リオンにて、イシウス・レイ=ミオンと対面。レオンガンドがマルス=バールの身柄を所望していることを伝えている。イシウスが殺せないというのならば、ガンディア側で処分するということを、暗に伝えたのだが、イシウスはこれを一蹴。
マルス=バールは国の宝であり、国の宝を、同盟国とはいえ他の国に渡すなどありえないと言い放ち、さらには、マルス=バールの命が欲しければ、みずからの手で取りに来られよ、といったという。
「イシウス陛下の言葉とは思えぬが……まことか?」
レオンガンドが使者の報告に眉根を寄せた。眉間にしわが刻まれるのを認識しながらも、それを止めることはできない。
十二月二十七日。
「はい。一言一句、しかとこの耳で聞き届けております故」
「……わかった。下がって良いぞ」
レオンガンドは、使者を下がらせると、歯噛みして怒りを押さえ込んだ。イシウスの若さゆえの暴走とでもいうべき言動には、可愛げなど毛ほどもなかった。レオンガンドを煽り、挑発しているのだろう。ガンディアとの戦いを待ち望んでいるとでも言いたげな言葉は、彼の本心なのか、どうか。
「イシウスはもっと聡明な人物だと思っていのだがな」
「聡明ではありますが、まだ幼くもあります」
「幼さ、か」
「幼さで国を滅ぼすなど、あってはならぬことですが」
ナーレスの評価は、妥当ではあるのだろう。もちろん、レオンガンドも理解していたことではある。イシウスはまだ十代の半ばにも至っていないのだ。幼くして王となったものの、その役割を宰相に任せきりだったのが彼だ。王座についてからの年数でいえば、レオンガンドよりもイシウスのほうが長いものの、くぐり抜けてきた修羅場の数も質もレオンガンドのほうが上だろう。
「マルス=バールも、国を想うならば、みずから命を断つべきだったな」
国内を逃げ回っていたという男に、愚直なまでの潔さを求めるのは酷というものだということも、レオンガンドはわかっている。わかっていてもなお、そう思わざるを得ないのは、イシウスが哀れだと思うからだろう。
イシウスに落ち度があるとすれば、マルスを信用しすぎたことであり、ミオンの実権を握らせてしまったことだが、それもイシウスひとりが悪いわけではなかった。彼を補佐するものたちが、マルス=バールの専横を止めなければならなかったのだ。だが、ミオンという国が置かれていた状況は、マルス=バールが国政の一切を任されたから打開できたのであり、そういう前例が、マルスの独裁を加速させた。
ガンディアは、ミオンの内情を知っていながら、見て見ぬふりをした。というよりも、他国の内政には干渉しないのが、この世の習いでもあった。特にミオンは同盟国なのだ。友好的な関係を崩すようなことなど、できるわけがなかった。
「国への想いとイシウス陛下への想いで、板挟みになっているのかもしれません」
「マルスがみずから死を選べば、イシウスも目が覚めただろうに」
そもそも、マルス=バールがガンディアを裏切らなければ、ラインスと手を結んだりしなければ、このような事態にはならなかったのだ。マルス=バールがなぜ、勝ち目のない賭けに出たのかは、想像するしかないが、いずれにせよ、イシウスは被害者としか言い様がない。死ぬべきはマルスであり、イシウスではないのだ。
(が、もはや迷うまい)
レオンガンドは、軍師の涼やかなまなざしを一瞥して、玉座から立ち上がった。
「ミオンを討つ。何か問題はあるか?」
「いえ」
ナーレスは、言葉少なに頷いただけだった。