第五百九十九話 ミオンについて(四)
「さすがは獅子姫だな。いい運動になったぜ」
「獣姫こそ、その二つ名に相応しい実力よ」
「へへっ、そうかな?」
「ええ」
リノンクレア・レーヴェ=ルシオンは、シーラ・レーウェ=アバードの照れくさそうな表情を見て、相好を崩さざるを得なかった。屈託がなく、快活極まる性格のシーラは、リノンクレアの周囲にはいない種類の人間であり、彼女との触れ合いは、リノンクレアに新鮮な驚きを与えるのだ。
ガンディアにも、ルシオンにも、彼女のような性格の人物はいなかった、といっていいだろう。いたとしても、リノンクレアの視界には入ってこない、ということだ。王子妃である彼女に対し、無作法とも取れるような態度で接する人間など、そうそういるものではない。
シーラは、曲がりなりにもアバードの姫君であり、極めて近い立場にある。彼女もいずれ、他国の王侯貴族に嫁ぐことになるに違いない。十中八九、政略結婚であろうが、嘆くことではない。王位継承権を持っていない王族が政略の道具に使われるのは、乱世の習いだ。
それに、政略結婚だからといって幸せになれないわけではない。リノンクレアのように幸福に満ちた日々を送っているものも少なくはないはずだ。もちろん、リノンクレアは自分の置かれている立場が特別だということも理解している。夫でありルシオンの王子であるハルベルクとは、幼少の頃からの知り合いであり、気心の知れた仲でもあったのだ。互いに、レオンガンドを支えようと誓った間柄でもあり、ガンディアとルシオンの紐帯を強くするために結婚することに否やはなかった。
「それにしても、宮殿内に訓練施設があるとはなあ」
「アバードにはないの?」
「いや、あるけどさ、ここまで本格的なものじゃねえんだ。それが、俺には物足りなくて」
「シーラ基準で考えると、そうなるのね」
「そういうこと」
シーラは、タオルで汗を拭いながら、にかっと笑った。
ガンディア王都ガンディオンの中心、獅子王宮とも呼ばれる宮殿の一角に、リノンクレアたちはいる。宮殿一階東側の広間で、練武の間と通称で知られる一室は、ガンディア王家や貴族たちが室内で訓練するための施設であり、リノンクレアは幼い頃からよく出入りしていた。
半球形の空間には、肉体を鍛えあげるための様々な器具が用意されおり、剣術や槍術、弓術など、様々な戦闘技術を訓練することができた。王族、貴族以外にも、宮殿を訪れた軍人が遊び半分で訓練していくこともあり、子供の頃のリノンクレアは、そういうときを狙ってここを訪れ、軍人相手に訓練を願い出たりもしたものだった。
自己を鍛えあげることでしかレオンガンドの力にはなれないのだ、と思い込んでいた。
訓練用の木剣や木槍、木の弓があちこちに置かれているが、手入れされていないわけではない。ここのところ、練武の間は盛況を極めていた。それもこれも、獅子王宮にはアバードの姫君を始めとする様々な国の王や王子が滞在中だからであり、登殿資格を与えられた護衛も含めれば、かなりの数の異国人がガンディア王宮に寝泊まりしているからだ。練武の間に留まり続けていれば、ジベルの王やメレドの王が部下たちとともに汗を流す姿を見ることができるだろう。
普段から運動や訓練を好まないものでさえ、この情勢下では、そうもいっていられないのだ。じきに戦争が起こる。クルセルクとの大戦争。王が前線に立つことなどありえない、とは言い切れなかった。もちろん、そのような状況に陥るのは、反クルセルク連合軍が押し負けているときであり、そうならないようにしなければならないのだが。
「なんにしてもさ、リノンと知り合えてよかったぜ」
「そう?」
「なんつーか、戦えるお姫様っていねえからさ」
「ふふ、そうね」
シーラの自嘲的な笑みに、リノンクレアは笑って同意した。実際、その通りだ。姫は、戦場に立つものではない。この乱世においても、戦場に立つ王女というのは珍しかった。女が王位を継ぐことはあっても、戦士として戦場に出る姫など、数えるほどもいまい。
「ま、俺はお姫様なんてがらじゃねえんだけど」
「服装と化粧で、お姫様になれるわよ、シーラならね」
「だからさ、無理なんだって、そういうの」
「似合うのに」
「似合わねえよ」
シーラは慌てた様子で首を左右に振ったが、リノンクレアには、彼女がなぜ否定するのかわからなかった。シーラは美人であり、体型も男性好みではないのか、と思うのだが。同性から見ても十分に魅力的だった。リノンクレアとの稽古のために着込んだ衣服が汗を吸い込んで肌に張り付いている様など、男が見れば放っておかないのではなかろうか。
(なにを考えているのかしら)
リノンクレアは、自分が男目線になってシーラを観察していることに気づいて、はっとした。汗を拭う素振りをしながら、思考を切り替える。
シーラと手合わせするようになって数日が経過しており、いまでは、日課のようになりつつあった。互いに王女の身でありながら前線に立つもの同士、気があったのだろう。打ち解けるまでに要した時間は、皆無といってよかった。
彼女とふたりきりでいるとき、リノンクレアは、素のリノンクレアに戻ることができるのかもしれない。
ふと、そんなことを考えてしまったのは、ここが自分の生まれ育った宮殿でありながら、他国の宮殿であるという現実を突きつけられることが多いからかもしれない。
リノンクレア・レーウェ=ガンディアではなく、リノンクレア・レーヴェ=ルシオン。
それがいまの彼女のすべて。
実の兄であるはずのレオンガンドとは、婚儀以来、まともに言葉を交わすこともできていなかった。
レオンガンド・レイ=ガンディアは、ナージュとの結婚式からというもの、追い立てられるように政務に勤しんでいるのだ。他国の王子妃のために時間を取るだけの余裕はない。少し寂しいが、致し方のないことだ。ガンディアは巨大化した。昔のように、ふたりきりで話し合うことなどできるはずがなかった。
なにもかもが変わった。
これからも変わり続けるだろう。
そして、その変化を止めることはだれにもできないのだ。時の流れを止めることができないのと同じように。
リノンクレアは、漠然とした喪失感を抱きながら、シーラとともに練武の間を出た。
「じゃあ、また明日な!」
「また明日」
まるで子供の約束のようだ、と思ったりもしたが、リノンクレアは、シーラの満面の笑みに笑顔を返すしかなかった。彼女の子供のような無邪気さはどこから来るのだろう。彼女のようになりたいと思った。彼女のようになれれば、このような苦しさから解き放たれることができるのではないか。
シーラへの憧れは、日に日に強くなっている。
(あれは……)
シーラと別れ、自分用の部屋に向かって宮殿内を歩いていると、前方に見慣れた男を発見して、彼女は足を止めた。廊下の角を曲がってきたところだった。遠目にも、ひと目で分かる。ハルベルク・レウス=ルシオン。つまりは、リノンクレアの夫であり、彼女は手を挙げて声をかけようとした。
が、さすがにはしたないと思い直したところ、ハルベルクがだれかと並んで歩いていることに気づいた。長身痩躯の男は、ハルベルクと親しげに話し込んでいるように見える。
(叔父様?)
リノンクレアが怪訝に思ったのは、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールが宮殿内にいることではない。ジゼルコートは元より登殿資格を持つ領伯なのだ。むしろ、王宮で活動することに問題はなく、そのほうがレオンガンドとしても嬉しいはずだった。ジゼルコートは、もうひとりの伯父であるラインス=アンスリウスとは異なり、レオンガンドの後見人として、彼の政治を支えてくれた偉大な人物だったからだ。
不思議なのは、ジゼルコートがハルベルクと話し込んでいるということだ。ハルベルクとジゼルコートになんらかの接点があるとは思えなかったし、ガンディアの領伯が、ルシオンの王子と政治的な繋がりを持とうとするとは考えにくい。
リノンクレアが見守っていると、ジゼルコートはハルベルクに会釈して、その場を辞した。彼は来た道を引き返したため、ついぞリノンクレアに気づくことはなかったようだった。
やがて、ハルベルクがリノンクレアの目の前まで来て、足を止めた。どこか憔悴したような顔つきは、ハルベルクらしからぬものだった。
「リノンクレアか」
「殿下? どうかなされましたか? お顔が優れないようですが」
「……義兄上と話をしなければならない」
ハルベルクが青ざめた顔のまま、決然たる口調でいってきた。
「ミオン征討など、馬鹿げている」