第五十九話 義の所在
義とは、一体なんなのか。
アスタル=ラナディースの魂を揺さぶるのは、いつだってその問題だった。
「キリル様はどうなされている?」
「陛下は自室に篭もったまま出てこられないそうです。食事もほとんど取られていないようで、このままでは健康を損ねられる怖れがあると、ミルヒナ様が心配なされておりました」
「報告ご苦労。だが、キリル様は陛下ではない。この国の王は、エリウス陛下であらせられる。以降気をつけるように」
「し、失礼しました」
部下を下がらせると、彼女は、ひとりになったことを確認するでもなく、頭上を仰いだ。天井一面に、大いなる神とその御使いたちが降臨する様が幻想的な筆遣いで描かれており、この部屋を独特な雰囲気で包むことに成功していた。
神は、ヴァシュタラと呼ばれる。そのヴァシュタラの教えといわれるものこそが、大陸北部を支配するヴァシュタリアの教義である。ヴァシュタラはこの大陸でもっとも有名な神であり、ヴァシュタラ信仰は古くからこの大地に根付いていた。そして、ヴァシュタラの教えを根本とするヴァシュタリアは、大陸最大の宗教団体であり、大陸三大勢力の一角を成した。
ヴァシュタラとは世界の中心たる存在であり、万物は神の偉大なる御心から生まれたものだというのが教義のひとつである。そして、万物の根本は愛であり、愛こそがこの世を動かす大いなる力だというのだが。
アスタルがその教えを信じているわけではない。現在彼女が執務室代わりに使っているこの部屋は、本来、王宮に訪れた王侯貴族が様々な用途で使うための空間だった。天井一面の宗教画は彼女の趣味ではなく、王宮を建築する際、設計を支持した王家の人間が欲したものなのだろう。ヴァシュタラ信仰は大地に根付いたものであり、なにもヴァシュタリア独特の教えではなかった。ヴァシュタラを信仰しているからといって、ヴァシュタリアに属するわけではないのだ。
彼女がこの部屋を使っているのは、王宮の中で指示を下すに当たって都合のいい場所にあったからだ。二階にあり、部屋のすぐ手前には一階に下る階段と三階へ上る階段があるのだ。それだけでも機能的に思われた。
部屋の趣味で言えば、もっと質素で大人しい空間のほうが彼女には合っているのだが、だからといって天井の絵を塗り潰そうなどとは想わなかった。
(……当然だな)
彼女が脳裏に浮かべたのは、キリル=ログナーのことだ。いまや過去の王となった彼は、籠の中の鳥のように大人しくならざるを得まい。いや、飼われている小鳥よりも酷いものかもしれない。彼は、裏切りに遭ったのだ。
忠臣と信じていたであろう将軍に。
アスタル=ラナディースに。
(義など、わたしのどこにある?)
彼女は、胸を締め付けるものの正体もわからず、その疼くような痛みに、心の中でうめいた。
主君に反旗を翻すなど、不義の極みであろう。
だが、行動を起こさなければならなかった。いま行動を起こさなければ、座して滅びを待つようなものに違いなかったのだ。
滅びは、北と南から迫ってきていた。ザルワーンという恐るべき大勢力と、ガンディアというログナーと同程度の小さな国が、滅びを引き連れてこの国に押し寄せてくるのは時間の問題だった。
ログナーはかつてザルワーンの強大な武力に圧倒され、平伏し、許しを請うた。結果、ログナーはザルワーンの属国になったが、当時のログナーの軍事力を考えれば仕方のない決断だった。英断という声も上がるかもしれない。抗すれば、徹底的に蹴散らされたのち、ログナーという国そのものが大陸の歴史から消滅していたかもしれない。
が、だからとってログナーに安穏たる平和が訪れることはなかった。
ザルワーンが、ログナーの国政に口を出すようになったのだ。属国の内政に干渉するなど、ザルワーンにしてみれば当然の権利と考えていたのかもしれない。外敵から庇護してあげるのだから我々の言うことを聞け、というのも無理からぬことだ。
ログナーがザルワーンの色に染まっていくのを、だれも止めることができなかった。
その結果として歪みが生まれ、軍と王家の間に大きな溝が生まれてしまった。これまで多大な戦功を上げてきたはずのアスタル=ラナディースを僻地へと追い遣り、失態続きのジオ=ギルバースを戦線に復帰させたのがその好例であろう。だれもが唖然とするような人事は、ザルワーンから出向いてきていたヒース=レルガという男が王に嘆願した成果だと言うが、その嘆願がザルワーンの代官という権力を背景にしている以上、それは半ば脅迫であり、王には逆らいようがないのも事実であった。
そして、復帰させたばかりのジオ=ギルバースを総大将とし、バルサー要塞の指揮をも任せたのだ。
アスタルは、王に向かって叫びたかった。ガンディア侵攻軍の指揮がなぜジオ=ギルバースなのか。この際、自分でなくてもいい。ほかに適任のものがいれば、それでもよかったのだ。例えば、第一王子エリウスを総大将とするならば、多くの将士が全力を上げて王子の戦いを勝利に導こうとしただろう。王子に足りない部分を補おうと、いつになく力を合わせただろう。
しかし、彼女が叫び声をあげることはなかった。むしろ閉口せざるを得ない。
自尊心が、彼女に叫ぶことを許さなかった。
彼女はこれまで、だれよりも強い忠誠心を持ち、だれよりも多くの戦果を積み上げてきた。アスタル=ラナディースこそが、名実ともにログナーを代表する将であるとだれもが認めることだろう。
バルサー要塞を陥落したという自負もある。無論、それにはクオン=カミヤの出現という要素も多分に含まれているのだが、もしジオ=ギルバースが指揮を取っていたならば、要塞を陥落せしめることはできなかったというのが大方の見解であり、彼女も同様の見方をしていた。
それほどまでに、ジオ=ギルバースという男は拙かった。
ジオ=ギルバースは、ログナーでも有数の名門ギルバース家の一員として、鳴り物入りで軍に入ってきた男である。そして彼は、周囲の思惑と期待に応えるような活躍を続け、若くして将軍に抜擢された。それこそログナー国民全員の羨望と期待のまなざしを一身に浴び、栄光と名誉に満ちた燦然たる未来を約束されていたのだ。
だが、ジオ=ギルバースは、それらの期待を裏切り続けることになった。些細な失策から重大な失態まで、幾度とない失敗を繰り返した彼は、いつしか無能将軍などという陰口を叩かれるまでになっていた。将軍の重圧に耐えられなくなったのか、それとも、その姿こそが本来のジオ=ギルバースだったのか。あるいはその両方という可能性も考えられる。
ともかくも、国民や将兵からの信望を失い、陰口を叩かれるまでに落ちたジオ=ギルバースは、前線から外され、王都の防衛責任者などに任じられ、そのまま惨めな末路を辿っていくだろうとだれもが予想していた。
だれもが、彼が将軍として前線に返り咲くなどとは思っても見なかったし、ましてや酒色に溺れていたとはいえ、一国の王として頂点に立つべきものが、ジオのような愚物をガンディア侵攻軍の司令官に任命するとは考えられるはずもなかった。
ログナー国内にいただれもが、王のその判断に唖然とし、同時に失意を絶望を抱いたことだろう。英断などではない。考えうる限り最悪の決断であり、暴挙であり、愚行の極みであった。
それでも、アスタル=ラナディースは諦めていなかった。司令官としての権限を奪われようとも、バルサー要塞から王都マイラムへの帰還を余儀なくされようとも、決して王を恨まなかったし、侮蔑もしなかった。鉄の忠誠心が、彼女に動揺を許さなかった。もちろん、多少は想うこともあったし、部下たちの王への非難や抗議に対して、納得させるだけの答えも用意できなかった。ただ、王の決めたことだ、と繰り返すことしかできなかった。
そんな彼女にも、我慢の限度はある。
アスタル=ラナディースがその二つ名の示すがままに戦場を飛翔するための両翼が、捥ぎ取られてしまったのだ。
ジオ=ギルバースによって。
そのときばかりは、彼女も声を荒げて、王を罵倒したくなった。彼女が手塩にかけて育て上げたふたりの騎士の命が、無能な愚物によって危機に曝される――そう考えるだけで、彼女の胸は強く締め付けられた。
無論、ふたりの騎士以外の将兵がどうなってもいいわけではない。が、それでも、自分が手ずから育て上げ、いまや彼女の戦場を彩るに相応しい騎士へと成長し、両翼とまで呼ばれる彼らが、無能将軍の描く無様な戦いの中で果てるなどあってはならないことだった。
そして、バルサー平原での戦いにログナー陣営が敗れ、要塞が奪還されたという報が届いたとき、彼女の心を辛くも抑えつけていた忠誠心という名の縛鎖が音を立てて崩れ去った。
敗報がアスタル=ラナディースの耳に届いたのは、七月一日の明朝、まだ日も昇るか昇らないかの頃合だった。彼女は、王に謁見し私心を述べるため、その報の届く数日前から手勢五百を連れて王都マイラムに滞在しており、敗報に触れたのはちょうど謁見を予定していた日であった。
アスタル=ラナディースは、夢の淵でまどろんでいるところを叩き起こされたものの、安眠を妨げられたことよりも、ジオ=ギルバース率いる軍勢が大方の予想通り敗北しただけではなく、壊滅的な打撃を受け、散り散りになりながら撤退してきたのだという事実に憤りを覚えたのだった。
時が立つに連れて報告も増え、敗北の全容が明らかになっていったが、彼女はウェイン・ベルセイン=テウロスとグラード=クライドの生存が確認されるまで生きた心地がしなかった。もっとも、ふたりの生存が確認されたところで、喜ぶこともできなかったが。
六月二十九日、迫り来るガンディア軍を迎え撃つため、バルサー要塞を背後に展開したログナー軍の兵数は六千。総兵力が七千ということを考えると、ほぼ全力であり、総力戦と考えてもいいだろう。対するガンディア軍は凡そ五千であり、しかもルシオンとミオンの旗があったという報告から、同盟国からの援軍を合わせてその程度ということは、総力ではなかったに違いない。
ベレルやアザーク方面への警戒に兵数を割かざるを得ないのが、ガンディアの弱みといえるだろう。もっとも、ルシオンとミオンの二国と同盟を結んでいる限り、三方のみに集中できるという考え方もあるにはあるが。
ザルワーンの武力を背景に総力戦に打って出ることができるログナーにとって、ガンディアがこちらのみに注力することができないというのは、圧倒的な有利以外のなにものでもなかった。
兵数の差は、千。
勝てるはずの戦だった。
相手は、ガンディアの〝うつけ〟レオンガンド・レイ=ガンディアなのだ。いままで実戦の経験はなく、指揮を取ったこともないという話だ。〝白翁将軍〟アルガザード=バルガザールが控えていようと、司令官が無能ならば負けようがなかった。
が、こちらの指揮官が無能ならば、どうだろう。
彼は、野外での決戦に挑んだ。
兵力の差で圧倒しようとしたのか、なにか秘めたる策でもあったのか。どちらにせよ、愚行と断じざるを得ない。難攻不落と名高い――事実、ログナーは長年攻めあぐねていた――バルサー要塞が手中にあるのに、それを利用せずに戦うなど、彼女には考えられないことだった。
結果、千名以上に及ぶ兵士たちが戦場にその命を散らし、残る五千人弱の兵士たちも命からがら逃げ帰るといった有様だったという。
歴史的大敗といってもいいだろう。
敗因のひとつはガンディアの用意した武装召喚師の驚異的な火力だったというが、だとしても、その武装召喚師に活躍の場を与えたのはジオ=ギルバースの采配であり、彼の愚かな指揮こそが大敗の最大の要因に違いなかった。そして、彼はその大敗の責任によって断罪されるべきであったが、彼が国境を越えたという報告はなかった。
ジオ=ギルバースの最後の姿を見たものによれば、ほとんど人員の残っていないバルサー要塞に向かって馬を走らせていたということであり、そのことから、彼は一旦要塞に戻り、戦線を立て直そうとしたのかもしれなかった。しかし、彼の後に続いてバルサー要塞に向かうものはだれひとりおらず、だれもが帰還するために国境を目指したという。
それには理由があった。
ジオ=ギルバースが要塞に向かっていた頃、要塞にはログナーではなくガンディアの旗が翻っていたというのだ。要するに、戦闘中に要塞が奪還されたということだ。そして生還した兵士たちには、要塞に戻ったところで要塞を奪還した部隊と平原に展開する部隊に挟撃され、撃滅されるのが見えていたということに相違ない。
野外での決戦を挑んだが故の大敗。
その決断を下したのはジオ=ギルバースであり、彼を指揮官に任じたのはキリル・レイ=ログナーだった。
七月一日。
その日の正午過ぎ、アスタル=ラナディースは、予定通りキリル王に謁見した。
王宮大広間には、キリル・レイ=ログナーとアスタル=ラナディースの他にはだれもいなかった。内密の話がある、と彼女が人払いを望み、王がそれに応じたのだ。
ヴァシュタリア様式とも呼ばれる、繊細な色使いと大胆で巧緻な造りが特徴的な宗教画のような空間の中で、アスタル=ラナディースは、まじまじと玉座に座る主君の顔を見ていた。顔色を窺うというものではない。凝視に等しい。
かつて、英気溌剌という言葉がこれほど似合う人間がいるのかと思われるほど涼やかだった男も、いまやその面影を見出せぬほどに変わり果てていた。ザルワーンの圧倒的な力の前に頭を垂れて降伏してからというもの、彼は、酒色に溺れるようになっていた。王としての権限のほとんどをザルワーンの代官に奪われたことが原因だったのだろうし、その代行官が酒や女を与えてくるというのもあるだろう。
日に日に肥大していく王の姿を見るたびに、アスタルの胸は張り裂けそうになった。ザルワーンに隷属せざるを得なかったのは、兵力差を覆す見込みが立たなかったからであり、それは即ち、彼女ら将士の実力の無さの証明でもあった。もっと力があれば。寡兵で大軍を打ち破れるだけの采配を振るうことができたならば――。
「話とはなんだ?」
キリルの問いに、アスタルは思索を打ち切ると、静かに口を開こうとした。その刹那に脳裏を渦巻いたのは、いくつもの情景だった。幻想的な光輝に満ちた数多の記憶。彼女の歴史であり、それはログナーにとっても栄光に満ちた日々であったはずだ。
それも今や昔。
「陛下。ギルバース将軍が敗れ、バルサー要塞が取り戻されたと」
「聞き及んでいる」
「ならば、すぐにでも対策をなさるべきです。要塞を奪還し自信をつけたガンディアの軍勢が、いつ攻め寄せてくるとも限りません。我が方は、千人もの兵を失ったのです。座して、情勢を見守っている余裕などはありません」
「ザルワーンに援軍を要請するべきか」
「それもいいでしょう。ですが、ザルワーンの内情を鑑みるに、彼の国が援軍として差し向けることのできる兵力もたかが知れております」
「だが、失った兵力を補うには十分であろう?」
アスタルは、熱に浮かされたような王の顔を見据えたまま、その声音になんの感情も篭もっていない事実に衝撃を受けていた。いや、苦心しているのはわかる。しかしそれは、ザルワーンに対してどのような態度で援軍を求めればいいのかといった苦悩であり、失策により数多の兵士を失ったことへの哀悼や後悔などではなかった。
これでは、ジオ=ギルバースの指揮の元死んでいったものたちがあまりにも哀れではないか――彼女は叫びたかった。しかし、叫んだところでどうしようもないのだろう。悲痛な魂の叫びを心に届けるには、王の脂肪は分厚くなりすぎている。
彼女は、目を細めた。疼く激情を抑え、冷徹に告げる。
「それならば、そもそもザルワーンの手を煩わせる必要はありません」
「手があるのか?」
「陛下の御決断次第でございます」
「わたしの決断……?」
キリルは、アスタルの考えが理解できないといった顔をしていた。アスタルは、その瞬間の王の表情のなんとも言えない愛嬌に過去の幻影を見出し、我を忘れかけた。キリルは、いつだってそうだった。相手の意見に真意が見えないとき、決まってそのような顔になった。そうすると、相手は、自分の意見をすべて明らかにせざるを得なくなる。放っておけなくなるのだ。
しかし、今回は、心を動かされている場合ではなかった。冷ややかに。極めて冷徹に振舞わなければならない。感情は不要。
アスタルは、キリルの目を見据えた。
「エリウス王子に譲位を。さすれば兵の士気は上がり、数倍の敵にも当たれましょう」
「な……!」
想像だにしなかったであろう言葉に、キリルは、声さえも失っていた。当然の反応。数秒は思考さえままならなかったかもしれない。だれであれ、そうなるだろう。一番に信を置くと公言していた将軍に譲位を迫られたのだ。相当な衝撃を受けたはずだ。キリルの心情は、察するに余りある。
だが、アスタルは、冷厳に続けるだけだった。
「民は貧困と圧政に苦しみ、兵は不満と不信に悶え、我らは苦悩と失意に苛まれております。それもこれも、すべては陛下の存在故」
「乱心したか! アスタル=ラナディース!」
蒼白になりながら憤怒に声を荒げるキリルの様子に、アスタルは、王としての威厳や光輝がとっくに失われていたのだという事実を再認識しただけだった。同情も、それに類する数多の感情も、告げるべき言葉の前には霧散する。
「陛下が、我らの声に耳を傾けず、ザルワーンの代官如きの甘言に身も心も委ねられた以上、人心が王家より離れるは必定。されど、我らは王家のために命を尽くして戦ってまいりました。国が荒れ、民が嘆き、絶望の聲がログナーの大地に荒れ狂おうとも、我らは王家の剣と盾として戦線に立ち続けてまいりました。しかし、それだけではどうしようもないのです。我々が血を流し、命を散らせるだけでは……!」
「貴様! 言うに事欠いてわたしが原因だというのか! わたしがなにを間違ったというのだ……! これまで、わたしは一度足りとも間違った選択をしたことはない! ザルワーンに頭を垂れたのも、この国を、民を護るためだ! そして、頭を垂れた以上、這い蹲ってでも関係を維持しなければならぬ。なぜそれがわからんのだ!」
「五年前の降伏。それは問題ではありません。だれもがあの決断に喝采を送るでしょう」
王宮大広間に反響するほどの大声を上げてまで激昂するキリルを冷ややかに見つめながら、アスタルは、言葉を続けた。
「ですが、時は流れ、状況は変わったのです」
「なっ……なんだおまえたちは!?」
キリルが喚いたのは、王宮大広間にアスタル配下の兵士が続々と侵入してきたからに他ならない。アスタルの予定とは少し違うが、誤差に過ぎなかった。さきほどのキリルの怒声に、兵士たちがアスタルの危機を感じて突入してきたのだろう。アスタルは部下たちに、大広間でなにかあったときには突入せよ、と言い含めてあった。
「だれか! だれかおらんのか!」
「残るは陛下おひとりでございます」
「――!」
アスタルの言葉は、死の宣告にも似ていた。既に王宮はアスタル側が制圧しているということであり、彼女が王に言って人払いさせたことにより、キリルは完全な孤立に陥ったのだ。外からの助けを求めるのは不可能であり、また、キリルは己の力でこの状況を切り抜けられるような個人的武芸に優れた人間ではなかった。そもそも、戦うには肥大しすぎていた。
「――アスタル……アスタル=ラナディースよ」
事態を把握したのだろう――キリルは、放心したように彼女の名を口にした。その巨体からは力が抜け、今にも崩れ落ちそうな危うさがあった。その目は、どこを見ているのか。
「おまえの本当の望みはなんだ……? エリウスが即位したのち、実権を握ることか?」
「……!」
アスタルは、予想だにしない問いに全身から血の気が引くのを認めた。それは彼女に対する侮辱以外のなにものでもなかった。私心などなかった。私利私欲があれば、ザルワーンの代官にでも取り入り、自分の立場をより強固にしていったはずだ。そうして、いつの日かこの国をも見限ってザルワーンの元へ走っただろう。だが、彼女をこの大地に存在させている根本がログナーへの忠誠心である以上、ザルワーンの代官如きに媚び諂うなどありえなかった。そして、己のために謀叛を起こすのならば、もっと地盤を固めてから行っただろう。
この謀叛は、衝動といっても過言ではなかった。
急激に冷えていく心が、キリルへのあらゆる感情から熱を奪い去っていく。手が震える。怒りではない。激情ではない。もっと暗く重くおぞましいなにかが、彼女の心の奥底で声を上げている。
不意に、ひとりの兵がアスタルの前に出た。エレニア=ディフォン。ログナーの騎士であり、アスタルの配下の中で頭角を現しつつある逸材だった。
「陛下はなにもわかっておられません! アスタル様は権力など望んでいないのです! 我々と同じように、この国のためを想って……!」
「面白い冗談だ。国のため? 民のため? 兵のため? すべては自分のためであろう? 綺麗事ばかり言いよって……! 貴様らは謀叛を起こしたのだぞ! 大逆を! 正義もなにもあったものではないわ!」
最後の力を振り絞って発したかのような叫び声は、アスタルの耳にはもはや雑音にしか聞こえなかった。もはや熱は奪い去られた。栄光に満ちた日々は幻想の彼方へと追い遣られ、目の前には取るに足らぬ愚物と成り果てたひとりの王がいるだけだった。
アスタルは、告げた。
「それが、どうしたのです」
「貴様……!」
「陛下はただ、王位をエリウス王子に譲ってくださればそれだけで良いのです。後のことは、新たな王と我々にお任せください」
その言葉が決め手となったわけでもないのだろうが、これ以降キリル・レイ=ログナーが抵抗することはなかった。抗ったところでどうしようもないことがわかったのもあるだろう。そのころにはキリルは憔悴しきっていたが、多少の理性は残っていたはずであり、その理性が彼に教えたはずだった。
アスタルが王都に連れてきた五百人の手勢だけでは、王宮を制圧するのは難しい、と。それはつまり、アスタル側の王宮制圧に協力した人間がいるということに他ならない。そして、アスタルの人望の凄まじさを考えれば、王宮に勤める人間のほとんどが彼女に協力的であったとしてもなんら不思議ではないという事実が、キリルに諦めを突きつけたのかもしれなかった。
果たして、アスタル=ラナディースの謀叛は成功した。
キリルを退位させ、第一王子エリウスがログナーの新たなる王となったのだ。
この報は、即座に国内各地に飛んだ。
新王エリウス・レイ=ログナーの名は、多くの国民に吉報として受け取られた。これで国政が安定し、民が苦しまなくなるのではないか、という期待が民衆の間に生まれていた。ザルワーンに尻尾を振るのは仕方がないと諦めてはいたが、それでも、その負担が国民に重く圧し掛かってくるのでは話が違うのだ。
国民を蔑ろにしてザルワーンに骨抜きにされたキリル王よりは、ザルワーンとの関わりが薄い王子の方が希望を持てた。
そして、アスタル=ラナディース将軍ほどの人物が。みずから動かなければならなかったという事実に多くの国民は衝撃を受け、アスタルに対して同情的だった。いや、彼女に対して同情的だったのは、以前からのことである。彼女ほどログナーのために働いているものはいないというのが世間一般の評価であったにも拘らず、ジオ=ギルバースの台頭によって中央から遠ざけられているという事実と、その無能将軍にガンディア侵攻軍司令官の座を奪われたということが、国民が彼女を応援する動機になっていた。
無論、それはアスタル=ラナディースの長年に渡る功績によるところが大きく、彼女が大した結果も残していなければ、ここまで同情を得られることはなかっただろう。
もちろん、反発もあった。
いくら国民的人気のある将軍だからといって、すべての兵士、すべての国民を掌握できるはずがなかった。
アスタル=ラナディースに反発したのは、ザルワーンとの繋がりの深いものたちであり、それらの多くがジオ=ギルバースの側近として振舞い、彼とともに栄光の将来を手にしようとした連中であった。彼らが、ザルワーンを良く思わないアスタル=ラナディースに反発するのは当然だった。
そして、反ラナディース派とでも言うべき彼らが、アスタル=ラナディースを討伐するために推戴したのが、第二王子アーレス・レウス=ログナーである。
アーレスは、ザルワーンにいた。第二王子である彼は、エリウスが健在である以上は王位を継ぐことはできず、故に勉学に励みたいとログナーを離れたのだ。ザルワーンの首都・龍府には、大国に相応しく大きな学校があり、ログナーがザルワーンの属国になったのを期にその学校に通うようになっていた。
国政にはまったく関与していないアーレスではあったが、無論、ログナーのことを考えない日はなかった。父が心労で倒れたりはしないか、母が寂しがってはいないか、兄は今日もにこにこしているのだろうかと毎日のように考え、ログナー王家に仕えるオゼオン=ダナーに王宮の毎日の出来事を手紙にして寄越すよう頼んでいた。
アーレスが行動を起こしたのは、七月三日オゼオン=ダナーから届いた手紙にアスタル=ラナディースが謀叛を起こしたという衝撃的な情報と、それにより敬愛する父が退位を迫られたという事実が書き記されていたからだ。それだけではない。圧倒的な武力を背景に退位を迫ったアスタル=ラナディース将軍は、愛すべき兄エリウスを即位させると、エリウスを担ぎ上げて国政を支配したのだという。
彼の行動は迅速だった。龍府の中心たる五龍殿にてミレルバス=ライバーンに面会、ログナーの現状を伝え、謀叛人アスタル=ラナディースとその一派を討伐するための軍を貸し与えて欲しいと直訴した。
ミレルバスは承諾すると、即刻グレイ=バルゼルグ将軍と三千人の兵士を用意した。こうしてアーレスを総大将とする大軍がザルワーンの首都・龍府を発ったのは七月四日のことである。翌五日にはログナー国境に至っているのだから、凄まじい行軍速度だといわざるを得ない。
アーレス軍がレコンダールに入ったのは、七月六日。
その朝には、アーレス率いるザルワーンの大部隊がログナー国内に侵入してきたという情報は、アスタル=ラナディースの元に届いていた。
(やはりか……)
アスタルがその報告を聞いたとき、最初につぶやいたのがそれだった。予想できたことだ。家族への情が深く、王族としての誇りを片時も忘れないアーレスが、将軍の謀叛という事態になにも行動を起こさないということはありえない。
ザルワーンの軍勢を引き連れてくるのも想定の範囲内だ。ザルワーンの猛将グレイ=バルゼルグが出てきたのは計算外ではあったが、それも大きな問題にはならない。
報告によれば、総数三千の軍勢だという。相手にできない数ではない。彼らは大義を掲げてくるのだろうが、こちらにも正義はある。もっとも、その正義の始まりが不義である以上、アーレスの掲げる大義に比べて暗い印象は拭えないが。
懸念すべきは、ザルワーン軍と戦っている最中他国の横槍が入られないかということだ。どれだけ戦局を有利に進めていようとも、他の軍勢に攻め込まれればすべてが水泡に帰す。国境を徹底的に封鎖し、情報の漏洩を防いでいる以上、ログナーの内情を察することはできないだろうが、安堵はできなかった。
ふと気配を感じて、アスタル=ラナディースは、目を開いた。いつの間にか瞼を閉じていたらしい。深く考えるときの癖なのだ。子供の頃からよく注意されたものだが、直そうとして直るものでもなかった。
彼女の目の前には、ひとりの青年が立っていた。エリウス・レイ=ログナー。近習のひとりも連れず、いかにもふらっと立ち寄ったという様子だった。
目元の涼やかな青年だった。気品がありながらそれを窮屈に感じさせない立ち居振る舞いは、彼独特のものかもしれない。常に微笑を湛えており、臣民の声によく耳を傾け、その意見が正しければ即座に採用するだけの度量があった。それは人々の意見の正否を判断できるだけの能力があるということに他ならないのだが、彼はそのことを誇るでもなく、むしろ謙遜していた。
それはかつてのキリルも同じであり、ログナー王家の伝統なのかもしれない。
「陛下。弟君と戦われる決意は持たれましたか?」
アスタルは、エリウスの穏やかな瞳を見つめながら問いかけた。アーレスもログナー王家の人間である以上、本来ならば戦う必要はない。彼の目的は恐らくアスタル一派の討伐であり、エリウスとの決戦ではないとみて間違いない。とはいえ、アスタルは戦わざるを得ない。彼らの目標が彼女自身である以上、剣を取って迎え撃たなければならない。
それに相手はザルワーンの軍勢である。ザルワーンの軍勢と戦い、打ち勝つということは内外にザルワーンの支配から脱却したという証明にもなるのだ。そしてそれをより強調するには、新王エリウスの意向であるほうが良かった。
「勝てますか?」
エリウスの質問は、いつも簡潔だった。そして柔らかで涼やかな物腰と丁寧な言葉遣いが、人々に意見を具申しやすいと感じさせる要因なのだろう。一方、ザルワーンの代官の言葉のみに耳を向けるようになったキリルからは人心が離れていた。人々がエリウスの王位継承に一縷の望みを見出だすのは、当然の帰結だった。
アスタル=ラナディースの謀叛が民衆にも受け入れられたのは、そういう背景もあった。
そして、アスタルは、実の弟と戦うことになるにも関わらず顔色ひとつ変えないエリウスに驚きを禁じ得なかった。エリウスを侮ったことなど一度もなかったが、かといってこれほど度胸が据わっているとは思っても見なかったのだ。アーレスが前線にでて来るとは到底考えられないが、その可能性も皆無ではない。場合によっては、アーレスが戦死するかもしれなかった。
だが、エリウスの表情はいつも通りの微笑があり、懊悩や苦心の影すら見当たらなかった。
「必ず勝ちます」
「そうですか。それならば構いません。あとはあなたに一任します」
「……お任せください」
アスタルの言葉を待ってか待たずか、エリウスがこちらに背を向けた。質素な出で立ちなのは、王子であったころからの慣習なのだろう。それに、王族だからといって豪華な衣服を身につける必要はないというのは、先王の頃から何度となく言われてきたことである。もっとも、昨今はザルワーンの代官の影響からか、美々しく着飾ることこそが正しいという風潮があったが。
エリウスは、子供の頃から質素で動きやすい服装を好んでおり、それはいまも変わっていないようだった。
部屋を出る直前、彼はこちらを振り返り様にこう言ってきた。
「ところで、あなたはなにか迷っているのではありませんか?」
「え……?」
アスタルは、エリウスにそんな風に尋ねられて半ば茫然とした。予期せぬ問いかけに、多少の混乱が生じる。迷い。迷っているのか。迷っているのだとしたら、なにに迷っているのか。唐突な問いに、彼女の頭の中は空転した。なぜだろう。混乱を収束させる理屈が見当たらない。
こちらを見遣るエリウスのまなざしは、いつになく穏やかだった。
「この謀叛を起こしたこと、後悔しているのではありませんか? 父キリルのことを想い、みずからの犯した罪に苛まれているのでは。あなたがそれではいけませんよ。あなたが旗を振ったのです。そのあなたが悩んでは、あなたを信じて付き従ってきたものたちが可哀想です。あなたは胸を張って先頭に立たなければなりません。己が正義を天に掲げ、前に進みなさい」
エリウスの柔らかですべてを包み込むような声音は、アスタルの頭の中の混乱を少しずつ収束させていくようだった。その安堵は、まるで幼き日に父と戯れていたときのような、そんな感覚だった。
混乱が収まり、心の平衡を取り戻したアスタルは、自分よりも遥かに年下の若者であるはずのエリウスが、その精神性において自分よりも遥かな高みにあるのではないかと想うと同時に、己の不甲斐なさを恥じた。事を起こしたのは自分の意志だ。この国の行く末を憂う己が魂の命ずるままに行動したが故の結果なのだ。
義は、ここにある。
アスタルは、決然とエリウスを見つめた。もはや心は揺るがない。揺るぎようがない。王家への忠誠心を新たにしたのだ。この忠誠心がある限り、彼女はどのような状況でも戦い抜くことができるだろう。
すると、エリウスは、涼やかに笑って告げてきた。
「なに心配は要りませんよ。例えどのような結果になろうとも、最後に捧げられるべきはわたしの首なのですから」