第五百九十八話 ミオンについて(三)
「陛下が危惧した事態になりましたな」
「ああ……イシウス陛下も困ったことをしてくれるものだ」
レオンガンドは、彼にその情報をもたらしたゼフィル=マルディーンに対して、わざとらしく嘆いてみせた。実際、心の底から嘆きたくもあるのだが。
ミオンが、宰相マルス=バールの身柄を確保したという情報がガンディアに届いたのは、十二月も末の末のことだった。黒衣の宰相マルス=バールは、ラインス=アンスリウスらと共謀し、クルセルクとともにレオンガンド及び各国首脳陣を暗殺しようとした、とレオンガンドたちは見ている。
情況証拠はミオンの関与を指し示しているのだが、国王イシウス・レイ=ミオンはレオンガンドの婚儀に参列しており、彼が直接指示したとは考えられなかった。王宮に解き放たれたのは皇魔である。皇魔は見境なく人間を殺す怪物なのだ。いかにクルセルクの魔王に使役されているとはいえ、ミオンの国王や将軍だけを生かす、などという命令は下せないのではなかろうか。人間が皇魔の見分けがつかないように、皇魔に人間の見分けが付くとも思えなかった。
レオンガンドならば、もっともらしい理由を作って婚儀への出席を取り止めただろう。
イシウスはギルバート=ハーディ将軍ともども婚儀に参加し、皇魔の出現に際しては、突撃将軍に対して皇魔の撃退を命じている。そして、戦いの後、彼自身の証言によって、イシウスの関与は否定された。
ならば、ミオンの実質的な支配者である宰相マルス=バールの関与を疑うのは当然だったし、レオンガンドがミオンにマルス=バールの首を差し出すように命じるのも、ある意味では必然だったのだ。この情勢下で、同盟国との間に亀裂を生み出したくはない。いや、既に亀裂は刻まれ、時とともに深く、歪になっていくのだが、拡大を止め、修復することはできるだろう。その一歩が、ミオンによるマルス=バールの断罪であり、謝罪なのだ。
怒っているのは、なにもガンディアだけではない。
レオンガンドの結婚式に参加した各国の王や王子が、皇魔の襲撃に巻き込まれたのだ。皇魔との戦闘に参加し、命を落としたものも複数いる。負傷者を含めればきりがなかった。そういった被害者の怒りは、黒衣の宰相マルス=バール、引いては、ミオン自身に向けられた。ミオンが長らく沈黙していたことが、各国の怒りに拍車をかけた。
自国の宰相を確保するのにどれだけ時間がかかっているのだ、と怒号を上げる国も少なくはなかった。ミオンは態度を明確にするべきだ、というものもいた。
そして、ミオンは、ガンディアに対してマルス=バールの首を差し出すことはできない、と告げてきたのが、今日だった。それはつまり、ガンディア及び周辺諸国と敵対するという表明にほかならない。
「馬鹿げたことを」
レオンガンドは、聡明なはずのイシウスの愚かな判断を罵倒するよりほかはなかった。
「宰相ひとりのために、判断を見誤るか」
ミオンに勝ち目などあろうはずがない。相手がガンディア一国ならば万が一にも勝つ見込みがあったかもしれない。ナーレスを凌駕する神算鬼謀を用い、黒き矛を主戦場から遠ざけることができれば、あるいは。
しかし、それさえも限りなく低い可能性であり、ミオンの敵がガンディア一国ではない以上、勝利の可能性は無に等しいといって良かった。
「クルセルクが背後についているのでは?」
「かもしれぬ」
レオンガンドは、ゼフィルの発言にうなずくと、玉座から立ち上がった。ラインス一派を排除してからというもの、レオンガンドたちが戦略会議室を使うことはなくなっていた。もはや、政敵に気兼ねする必要もなくなったのだ。国内に敵はいなくなった。いたとしても弱小勢力であり、滅ぼす価値の無い存在なのだ。放っておけば、自然消滅するだろう。
ガンディアはいま、ようやく、一枚岩になりつつある。
「が、いずれにせよ、ミオンに未来はないだろう」
ミオンの背後にクルセルクがいたとしても、ミオンそのものがガンディア及び周辺諸国に勝てる見込みが無いという事実に変わりはないのだ。クルセルクが、ミオンに戦力を貸し出したという情報はなかった。
ジベルやアバードがクルセルクに目を光らせているのだ。クルセルクの動きは、手に取るようにわかる。彼の国は、反魔王連合と名乗った四カ国との戦いの最後の仕上げに邁進している、残る二国。ハスカとリジウルを滅ぼすために、全力を注いでいるのだ。ミオンに構ってなどはいられないだろう。
「では?」
「ミオン征討の軍を起こすことになるかもしれぬ。軍議を開く」
レオンガンドは、暗澹たる想いで、告げた。
「敵はクルセルクじゃなかったっけ?」
セツナは、ミリュウがだれとはなしに問いかける言葉を聞きながら、屈伸し、背を伸ばすという準備運動を繰り返した。軽い訓練であっても準備運動を欠かすわけにはいかない。ルクスとの訓練でさえ、それは常識だった。むしろ、ルクスほど基本のうるさい人間もいないのではないかと思うほどだ。彼に師事してよかったと思うことのひとつが、それだろう。
隊舎の庭は、冬の景色に染まっている。元から植えられていた木々は枯れ、草花も冬を越すために必死だ。乾燥した空気は冷ややかで、なにもかも空々しく見えた。滲んだような空の青も、どこかいままでと違う感じがあった。
イルス・ヴァレで過ごす初めての冬。
このワーグラーンと呼ばれる大陸に四季があるということがわかったのは随分昔のことだ。夏を越え、秋を経て、冬に至っている。冬を抜ければ、春が来るのだろう。春までには、クルセルクとの戦いも終わっているのだろうか。
敵は、強大だという。
ザルワーンよりも広大な国土を有し、戦力も数倍に値する。しかも、その戦力を構成する兵士ひとりひとりの質が違う。人間ではなく、皇魔だ。遥か昔、異世界から召喚された人外異形の怪物たち。その力の凶悪さについては、セツナは身を以て知っている。人間を相手にするより気が楽だ、などとは思えなかった。数えきれない化け物が蠢くクルセルクの大地について考えるだけで頭痛がした。
「そうよ。当面の敵は、クルセルク。クルセルクを倒さない限り、ガンディアに未来はないわ」
「ガンディアだけじゃなく、周辺の国々の未来もね」
ミリュウの疑問に答えたのは、ファリアとマリアだ。ミリュウ、ファリア、マリアの三人は、庭の片隅に陣取っている。その彼女たちの周りを、子犬のニーウェが走り回っているのが見える。構って欲しいのだろうが、三人は話に夢中だ。
「それなのにどうしてミオン? ミオンって、あの可愛い王様の国でしょ?」
「……ええ」
イシウス・レイ=ミオンは、可愛いという言葉が似合う少年だった。セツナよりも三、四歳くらい年下だといい、言動も歳相応だったのを、セツナは覚えている。レオンガンドを兄のように慕い、神のように敬う様は、セツナに対するエイン=ラジャールを思い出させる、というのがファリアたちの感想だが。
その少年王の国と、戦争が始まるかもしれない。
参謀局のエインからの情報だ。まず、間違いないと見ていい。
「ミオンが同盟国であるガンディアを裏切り、陛下の婚儀を台無しにした上、諸国に喧嘩を売ったのでございますから、当然でございましょう?」
レム・ワウ=マーロウが、セツナとの対峙に目を細めながら、外野の会話に割り込む。彼女は、相変わらず使用人染みた格好をしている。黒と白を基調とした服装は、メイドと呼ぶに相応しい格好であり、死神らしくもなければ、護衛らしくもなかった。彼女の思考はまったく読めないのだから、なにを考えてそのような格好をしているのか、想像するだけ時間の無駄だろう。
「なんでミオンはガンディアを裏切ったのよ? 脈絡がないじゃない」
ミリュウの疑問はもっともだったが。
「そんなことまで知っているはずがございませんでしょう。わたくしは、ご主人様専属の護衛に過ぎませんので」
「本当、役に立たない護衛よね」
「ミリュウ様よりは役に立ちましてよ」
「はあ?」
「こうして、ご主人様の訓練を手伝っている時点で、ねえ」
「訓練で疲れたセツナを癒しているのはだれだと思ってるのよ」
ばん、とテーブルに両手を叩きつけて立ち上がるミリュウを遠目に見遣って、セツナはため息を吐いた。レムとミリュウの口論は《獅子の尾》隊舎の日常風景の一部と化しており、取っ組み合いの喧嘩に発展しないのは奇跡なのではないかと思ったりもした。
「癒やし? ご主人様、癒やしを求めておいでなら、わたくしに命じてくださればいいのに」
「護衛に癒やしなんざ求めないさ」
セツナが木剣を構えると、レムの眼光が鋭さを増した。