第五百九十五話 黒き矛と獣姫(七)
どくん。
胸が高鳴ったのは、純粋な興奮からだろう。
力への憧憬が、彼女を興奮させているのだ。
力。
ただ、力が欲しかった。
絶対的な壁となって聳え立つ現実をねじ伏せるには、力が必要だったのだ。
果たして、力は得られたのか。
得た力は、彼女を取り巻く現実になんらかの変化を及ぼすことができたのか。
彼女にはわからない。
たとえ大きな力がなくとも、なにも変わらなかったのかもしれない。変わらない現実が、いまの彼女なのかもしれない。でも、それでも、と彼女は思う。純粋に、力を欲する。
力さえあれば、女であっても、自分らしく生きられるのではないか。
シーラ・レーウェ=アバードが、竜殺しと剣鬼が互いの召喚武装をぶつけあった瞬間に考えたことは、そのようなことだ。
宿屋の倉庫の薄闇に閃光のような火花が散り、激しい金属音が鳴り響いた。セツナはカオスブリンガーを手にした途端、ひとが変わったような動きを見せた。目にも留まらぬ速度でルクス=ヴェインに迫り、斬撃を叩き込んだのだ。対するルクス=ヴェインも、召喚武装を手にしている。グレイブストーン。数多の戦士を葬り去ってきた高名な剣は、その美しさにばかり目を奪われがちだが、その破壊力や強度は、黒き矛にも引けを取らないようだった。
ふたりの斬撃が無数に重なり、無数に響く。破壊的な音の乱舞と火花の共演は、シーラの意識を戦場へと連れて行くかのようだった。セツナに抱いた失望と落胆は、それだけで消えてしまう。そう、武装召喚師の実力とは、本人の身体能力だけで推し量れるものではないのだ。召喚武装の能力を含めて、初めて武装召喚師の力量といえる。
セツナ本人がどれだけ弱かろうと、黒き矛を手にした彼の力に嘘はないのだ。彼が成し遂げてきたことが虚像となって崩れ去るわけもない。
(黒き矛のセツナ……か)
シーラは、木剣を握る手に力がこもるのを止められなかった。セツナとルクスの戦いは、実戦そのものだ。互いに命を懸けているのが見て取れる。本気の戦い。どちらかが死ぬまで終わらない。シーラは、止めなければならない。どちらも、クルセルクとの戦いにおいて、重要な戦力なのだ。こんなことで失うわけにはいかない。こんな馬鹿げたことで、失って良い人材ではない。
だが、止められなかった。
黒き矛の斬撃を紙一重でかわしたルクスが、青い長剣の切っ先をセツナの首筋に突きつけたものの、セツナは右に流れるように移動して対処する。ルクスは、空を切った剣をそのまま旋回させて斬撃へと変えた。が、そこにセツナはいない。ルクスの背後に移動している。黒き矛がルクスを捉えた。かに思えたが、ルクスは瞬時に身を翻すと、グレイブストーンの柄頭でカオスブリンガーの穂先を殴り、セツナに肉薄した。蹴りが飛ぶ。セツナは後ろに跳んだ。
汗が飛び散り、息吹が聞こえた。
(ああ……素敵だ)
シーラは、薄闇の中、視界の悪さをものともしないふたりの激闘に、うっとりとしていた。セツナもいいが、ルクスも悪くない。いや、悪くないどころではない。素晴らしい。甲乙つけがたいといっても良かった。
ふたりとも、純粋に強いのだ。小手先の強さではなかった。根の深い強さだ。それが召喚武装に起因しているのだとしても、召喚武装の力を振るうのは本人の意志だ。本人の実力なのだ。そのことは、シーラが一番良く知っている。
シーラでさえ、ハートオブビーストを完全に支配したとは言い切れない。召喚武装を操るというのは、簡単なことではなかった。武装召喚師が武装召喚術を学ぶ一方で心身を鍛え上げるというのも、必然的なことなのだ。
「こんなものじゃないだろ? ザルワーンの守護龍を殺した力は」
ルクスが挑発すると、セツナが冷ややかな目で師匠を見た。
「そんなに殺されたいんですか」
「いうじゃないか。俺の弟子は、もっとおとなしくて可愛らしいものだとばかり思っていたんだが」
「はっ、可愛らしいままではいられませんよ!」
「その意気だ! 来いっ!」
「うおおおおおお!」
セツナの咆哮に、シーラは意識を引き込まれるような感覚を抱いた。
凶暴なまでの禍々しさを誇る漆黒の矛が光を発した瞬間、セツナはルクスの懐に飛び込んでいた。鋭い蹴りがルクスに襲いかかる。ルクスは剣の腹で蹴撃を防御したようだったが、防ぎきれなかったのか、彼の体が吹き飛んでいた。後方の壁に叩きつけられたルクスに向かってセツナが迫る。ルクスが苦し紛れに右に転がると、セツナはそのまま壁に矛の切っ先を突きつけた。破壊音とともに壁に大穴が開き、粉塵の中、眩い外光が入り込んでくる。
セツナは、ルクスを一瞥すると、にやりと笑った。ルクスがグレイブストーンで粉塵を払うと、セツナに向かって突っ込んでいった。シーラは、ふたりの激突がこの宿の倉庫に終焉をもたらすものだと気づいたが、止める気さえ起こらなかった。
血沸き肉踊るとはまさにこのことであり、最後まで見届けたいと思うのは、戦士ならば当然のことだろう。
拳を握る。
ルクスの代わりにセツナと戦いたかったという本音を仕舞いこむのに、シーラは多少の苦心をしなければならなかった。
その間にも、セツナとルクスの激闘は加速し、倉庫をでたらめに破壊していった。
爆音が響いたかと思うと、悲鳴が聞こえた。
宿の敷地内から響いてきたそれは、セツナたちの身になにかがあった証明のようにも思えたが、まさか、この衆人環視の中にあって、彼ほどののものが襲われるということはないはずであり、クレイグは訝しげに目を細めた。感じるのは殺気だ。鋭角的な殺気が衝突し、火花を散らせている。
時計塔からは、宿の敷地内の様子はよく見えなかった。そういうときのための死神壱号なのだが、レムは、《獅子の尾》の隊員たちとともに宿の建物内に入り込むことができただけで、セツナたちの居場所にすら辿り着けていなかった。セツナとシーラは、セツナが訓練に使っていたという倉庫に向かったというのだが。
「まさか、死神壱号を使って、セツナ様を暗殺しようとしたわけではないでしょうね? ミョルンのときのように」
「それこそ、ありえないことですよ。クルセルクとの戦いを前にセツナ伯を害するなど、考えられないことだ」
クレイグは、ルウファの厳しい視線に涼しい顔で対応した。もちろん、仮面の中の表情が相手に伝わるわけもないし、万が一にでも素顔を見られれば、ただごとでは済まなくなるだろう。クレイグ・ゼム=ミドナスとアルジュ・レイ=ジベルは他人で無くてはならないのだ。そうでなくては、アルジュが生きていけなくなる。自分の中にクレイグという人格を認識したとき、彼の儚い心は壊れてしまうに違いない。
(クルセルクとの戦いが終わるまでは、な……)
クルセルクさえ滅ぼすことができれば、あとはどうとでもなる、と彼は考えている。クルセルクのような忌むべき国さえなくなれば、ジベルは当面、安穏たる平和をえることもできるだろう。もちろん、ガンディアや周辺諸国と協調し、折り合いをつけていくことが前提となるが、それは問題ではない。
問題は、黒き矛だ。
黒き矛を破壊し、召喚者を殺害する好機を得ることができるのか、どうか。
「それもそうか」
「ええ」
「いまは、あなたのいうことを信用しましょう。クルセルクは脅威だ。あらゆる国にとって、人類にとって」
「皇魔の国、魔王の存在を認めるわけには参りません」
そんなものを認めれば、人間の尊厳を失うことになりかねない。
皇魔は人類の天敵であり、分かり合うことなどできない存在なのだ。そんな化け物を使役し、軍勢を構築し、国家を形成する魔王なる存在も、認めてはならない。否定し、滅ぼす以外に、人類が安寧を得る道はないのだ。
だから、クレイグは黒き矛の破壊とセツナの殺害を後回しにした。もし、クルセルクが皇魔の国でなければ、魔王の存在がなければ、あの日、皇魔の群れと戦う黒き矛のセツナを認識したとき、彼を殺すために動いただろう。
殺せなかったのではない。
殺さなかったのだ。
(なに、時間はある。好機は訪れるさ)
クレイグは、ルウファが宿に向かって飛んで行くのを見て、自分もまた時計塔から隣の建物の屋根に飛び移った。さらに宿に接近すると、宿の敷地内、倉庫と思しき建物が半壊しているのが目に飛び込んできた。
粉塵が立ち込める中、ふたりの生き物が刃を交えているのがわかる。碧い剣閃が粉塵を切り裂けば、漆黒の軌跡が斬撃を弾き返して火花を散らす。金属同士の激突音が響くとともに、激突の衝撃が濛々たる粉塵を吹き飛ばす。だれとだれがぶつかり合っているのか、垣間見ることができた。黒き矛のセツナと、ルクス=ヴェインだ。《蒼き風》の突撃隊長もまた要注意人物だが、倒すべき対象という意味ではない。
彼は、セツナの剣の師匠であり、側にいることが多いらしい。セツナだけならばまだしも、ルクスまでも同時に相手にするのは得策ではないのだ。セツナを狙うなら、ルクスがいないときだ。そういう意味で、注意しなければならないのだ。
(それはそれとして……だ)
クレイグは、倉庫を破壊しながら戦闘を激化させていくふたりの戦いぶりには、驚嘆せざるを得なかった。
まるで破壊衝動の塊だった。
圧倒的な力によって振るわれる斬撃は暴風のように粉塵を巻き上げ、繰り出される突きは突風となって相手に襲いかかる。猛烈な連撃の応酬は、観衆の度肝を抜き、歓声さえも上げさせない。
剣と矛が激突するたびに閃光が走り、轟音が唸る。衝撃が大気を揺るがし、ぼろぼろの倉庫に致命的な一撃を叩き込んでいく。破壊に次ぐ破壊が、宿の母屋にまで至ろうとしたとき、一条の雷光がふたりの頭上に降り注ぎ、セツナとルクスはほとんど同時に飛び退いた。
距離を取ったふたりのちょうど真ん中に雷光の矢が突き刺さり、小さな爆発を起こす。それは、倉庫に絶対的な破滅を突きつける一矢となった。
「危ないじゃないか」
セツナが悪びれもせずに、矢が飛んできた方角をみやると、青い髪の女が大型の召喚武装を構えていた。ファラ・ベルファリア=アスラリア。掲げているのはオーロラストームという弓型の召喚武装であり、雷撃を放つ能力を持っているという。
「そうそう、せっかくいいところだったのに」
ルクスが、床に落ちていた鞘を拾い、剣を収めた。突如の乱入者に、興が覚めたのだろう。セツナもセツナで、黒き矛を送還している。光の中に消えていく漆黒の矛を睨み据えながら、クレイグは、カオスブリンガーへの敵意を新たにした。
「いいところじゃないでしょ! どうするのよ、これ!」
ファリアがいったのは、倉庫の有り様について、だろうが。
「まあ、いいじゃん、セツナが無事だったんだし」
そういったのは、ファリアの背後から現れた赤毛の女だ。ミリュウ=リバイエン。彼女も召喚武装の刀を手にしていたが、出番がないことを悟ったのか、すぐに送還を始めた。そして、ミリュウの後ろから現れるのは、レム・ワウ=マーロウだった。使用人じみた格好の死神壱号は、離れた位置にいるクレイグの存在に気づいた様子で、一瞬、驚いた表情を見せた。が、それだけのことだ。
「そういう問題じゃないと思うのですが」
「あんたは黙ってなさいよ」
「どうしてですか。ご主人様のことですよ?」
「あーもう、うるさい」
ミリュウとレムがぶつかり合う傍らで、ファリアはオーロラストームを送還すると、倉庫の跡地に乗り込んでいった。彼女は、倉庫の跡地内で立ち尽くすシーラ・レーウェ=アバードに目をつけた様子だった。
「シーラ姫もシーラ姫です!」
「え? 俺?」
「バカふたりの暴走を黙って見ていないで、止めてくださいよ!」
「いやだって、なあ?」
「俺に同意を求められても……」
シーラに話を振られて、セツナが困惑気味につぶやく。ファリアは、そんな態度が気に食わなかったのか、物凄まじい気迫でセツナに迫った。
「とにかく! 今後もう二度と、こんな馬鹿げたことはしない! いいわね?」
『はい……』
ファリアの剣幕には、竜殺しも剣鬼も獣姫もうなずかざるを得なかったのだ。
こうして、十二月十二日は幕を下ろす。
クルセルクの脅威を遠方に控えた平穏な日常は、ゆっくりと、しかし確実に、終わりに近づいていた。