第五百九十三話 黒き矛と獣姫(五)
「セツナ様が、シーラ姫と市街を散策しているという話はご存じですか?」
メリルが尋ねてきたのは、ナーレス=ラグナホルンが遅い昼食を終えて、少しばかり休憩しているときだった。目の回るような忙しさは、彼と妻の憩いの時間さえも奪っていくのだが、彼の賢しい妻は、不平ひとつ漏らしたことはなかった。ガンディオンでの生活にも慣れはじめ、ガンディアの貴族社会にも溶けこむことに成功しつつあるというのも大きいのだろう。そして、軍師ナーレスの妻という立場は、彼女がガンディアで生活する上で、ある程度は役立っているに違いない。
「ああ、聞いているよ」
ナーレスは、メリルの凛とした中に幼さを多分に残した顔を見つめながら、うなずいた。声まで優しくなってしまうのは、彼女の存在そのものが、ナーレスの精神的な疲れを取り払ってくれるからだ。
「そのせいで王都中が大騒ぎになっているそうだね。都市警備隊も悲鳴を上げているんじゃないかな?」
「領伯様と、アバードの姫君ですものね……さぞ警備も大変でしょう」
メリルが、うっとりとした表情で中空を見遣ったのは、セツナとシーラ姫が市街地を歩きまわるさまを空想したからかもしれない。
ザルワーンに終止符を打った最大の要因であるセツナと、戦争の最中、虎視眈々とザルワーンの領土を狙っていた国の姫君だが、メリルは、そういったことには拘らないようだった。そもそも彼女はザルワーンがガンディアによって滅ぼされたことも、過去の物事として割り切れている。
強いのだ。
そういう強さは、この戦国乱世に生きる人間特有のものなのだろうが、メリルほどの柔軟さを持つ人間がどれほどいるものなのか、ナーレスにもわからない。少なくとも、ガンディア王家には、メリルのような強さを持つ人間は数えられるほどしかいないのではないか。
レオンガンドにせよ、グレイシアにせよ、シウスクラウドにせよ、ラインスにしても、(アンスリウス家を王家に数えていいものかはわからないが)、ジゼルコートでさえ、過去に拘り、縛られている。愛の深い一族なのだ、と考えることもできなくはないが、その愛の深さがガンディアの足を止めるようでは本末転倒も甚だしいのではないか。
そもそも、レオンガンドは、愛を断ち切り、前進を誓ったのではないのか。
前進し、ログナーとザルワーンを飲み込んだのではないのか。
ガンディア内部の浄化に手間取ってしまったのは、レオンガンドの覚悟の足りなさ故であり、また、ナーレスたちの押しの弱さ故でもあるだろう。ラインス一派など、もっと早く処分しておくべきだったのだ。
(とはいえ……だ)
ナーレスは、胸中で頭を振った。こればかりは、レオンガンドを責めることはできないかもしれない。まさか、ラインス一派がセツナを暗殺しようとするなど、ナーレスですら考えなかったことだ。ラインスたちは、レオンガンドを憎んではいたが、ガンディアのために行動していたからだ。その言動も、国を思えばこそ、というものばかりだった。それが、国家転覆さえ謀るとは、さすがのナーレスでも想像の範囲外だった。
婚儀での皇魔襲撃事件は、その策謀が事前に判明していなかったとしても、セツナたち《獅子の尾》や各国の英雄豪傑のおかげでなんとでもなったのは間違いない。しかし、セツナの暗殺が成功していた場合のことを考えると、冷や汗が出る。もちろん、ガンディアは巨大化した。セツナひとりいなくとも、周辺諸国と渡り合うだけの軍事力、国力はある。だが、クルセルクとの戦いとなると、別の話になるのだ。
クルセルクは、魔王の国だ。無数の皇魔を使役し、その戦力は膨大だ。ガンディア一国では太刀打ち出来ないだろうし、それは、セツナがいたとしても怪しいものなのだ。セツナがいて、近隣諸国と協力することで、ようやく戦力を対等に持ち込めるのではないか、とナーレスは考えている。
そういう意味でも、ガンディアの主戦力であるセツナが他国の主戦力級の人物と懇意になるのは、悪いことではない。特にシーラ・レーウェ=アバードは、ナーレスがザルワーンにいたころから目につけていた人物でもある。彼女がセツナを通してガンディアに友好的、好意的になってくれるなら、これほど心強いことはなかった。
獣姫。
彼女が振るうのはハートオブビーストと呼ばれる召喚武装の斧槍であり、その力は強力無比だといわれている。アバードが北方のジュワインやマルディアに対して独立不羈を貫いてこられたのも、獣姫とハートオブビースト、そして彼女の侍女団のおかげだといわれている。
「シーラ姫はセツナ様に興味を持っておられるらしくて、わたくしどもの間では、その話題で持ちきりですのよ。セツナ様がシーラ姫と御結婚なされれば、これほど素晴らしいことはない、と」
「確かに……」
シーラがアバードの王女の地位を捨て、ガンディアの一領伯の夫人になるというのならば、それは彼女の言うとおり素晴らしいことだ。獣姫とその侍女団がガンディアの戦力に加わるということにほかならない上、アバードとの関係はより強固なものとなるだろう。
しかし、そんなことにはならない、という確信もある。
まず、アバードがシーラを手放すまい。アバードは、国土防衛をシーラに頼りきっているところがある。たかが一領伯の夫人になることなど認めるはずもないし、むしろ、セツナこそシーラに婿入りすべきだとでもいうかもしれない。
なんにせよ、シーラがセツナに興味を持っているという話だけで、そこまで想像するのは馬鹿馬鹿しいことではあるが。
(いずれにしても、セツナ伯は結婚されるべきだな。ガンディアのために)
こういってはなんだが、結婚相手など、掃いて捨てるほどいるだろう。それこそ、セツナの周囲には美しい女性たちがいて、彼女たちはセツナへの愛情を隠そうともしていない。セツナが結婚を言い出せば、一も二もなく同意してくれるのではないか。
結婚し、家庭を持てば、色々なものが見えてくる。
十七歳。
若い。
若いが、この時代、いつ死ぬかもわからないのだ。早く結婚して、子を成すことは、重要な使命と言っても過言ではない。
などと思うナーレスにも、まだ、子供はいないのだが。
セツナとシーラの未来を空想する少女の横顔は、眺めているだけで良いものだった。ナーレスは、メリルを妻としてからの数年、彼女にそれ以上のなにかを求めたことはなかった。結婚当初、メリルは十四歳だった。まさに箱入り娘であった彼女には、無垢なままでいて欲しかったのかもしれない。
(君には……未来がある)
ナーレスは、メリルの横顔から視線を逸らした。将来、メリルの隣にはだれが立っているのだろう。そんなことを想像して、虚しさを覚えたりもする。
自分には未来がない。
「そういえば……旦那様」
ふと気づくと、メリルが空想から復帰していた。
「なんだい? 改まって」
「オーギュスト様からうかがったのですが」
「ふむ……?」
嫌な予感がしたのは、メリルは普段、ナーレスとの会話でオーギュストの名を出すことはなかったからだ。サンシアン家の当主は現在ナーレスの部下であるが、特別な立場にあるということに変わりはないのだ。おいそれと言葉にしていい名前ではなかった。
メリルが、覚悟を決めたように聞いてくる。
「時間がないとは、どういうことですか?」
「……そのことか」
(オーギュストめ……余計なことを)
ナーレスは胸中でつぶやいたが、この場合、口止めもしていなかった自分の方にこそ落ち度があるのもわかっていた。
彼は、メリルの真剣な眼差しに映り込む窓の外の光に目を細めた。輝く瞳は、彼女の人間性を示しているかのように美しく、眩い。
「命の、ね……時間がないんだ」
「命の……」
「わたしにはわかるんだよ。この身に流れる命の時間が、刻々と終わりに向かっているということがね」
「わたくしには、わかりません」
「そうだろう。君は、わたしではない」
メリルが表情を歪めたのが、ナーレスには辛かった。しかし、告げなくてはならないことがある。伝えなくてはならないことがある。そのためには、彼女の心を傷つけることも厭わなかった。
「毒を盛られたんだよ。ザルワーン特製の毒がね。戦後、配下に探させたが、解毒薬なんて都合のいいものはなかった。そもそも、どのような毒なのかもわからないんだ。シウスクラウド様に使われた毒とも違うようだ。あの方と同じ毒ならば、わたしは病床に伏せることになっていただろうからね」
「毒……ザルワーンの……。そんな、そんなこと……」
「君のせいじゃない。なにもかも、わたしの失策が原因なんだよ。わたしが工作が露見しなければ、わたしが拘束されなければ、毒を得ることなんてなかったんだ」
だから、だろう。
だれも恨む気にはなれなかったし、世界に絶望するようなことさえなかった。ただ、受け入れ、消化している。いや、昇華したのかもしれない。
(都合のいい考え方だ)
ナーレスは自嘲したが、自分の心の中にこの毒に対するわだかまりがないのも事実だった。刻一刻と失われていく時間。命の時間。死の足音が聞こえる。死神の声が聞こえる。それでも、絶望はしない。
「残されたわずかな時間でなにができるのか、ずっと考えていた。限られた時間。あれもこれもしようだなんて、わがままもいいところだろう? できることは限られている。わたしにできることはなんだ? わたしはいったいなにもので、わたしにはなにができる? そんなことばかり考えていた」
いってしまってから、彼は少しばかり虚空に視線を彷徨わせた。
「いや、違うな」
頭を振る。
「わたしにはわかっていたんだ。わたしにできることなんて、ひとつしかないことくらい、知っていた。わたしはガンディアの人間。ガンディアのために全力を尽くすこと以外、できることなんてなかったんだよ」
自分にできるただひとつのこと。
それは、考えるだけで心を熱くし、命を燃え上がらせる。残り僅かな命を燃やし尽くすには、それ以上に相応しいことなどはなかった。
「わたしがこの国を強くする。わたしが死んだとしても、大陸小国家群に覇を唱えられるだけの力をつけさせる。そのためには陛下には魔王の如くあってもらわねばならないが、それくらいは我慢してくれるだろう。わたしは死力を尽くすのだ。陛下にも、相応の覚悟をしてもらうさ」
「旦那様」
メリルの思いつめたような表情が、その胸中に渦巻く感情を伝えてくるかのようだった。
「不服か……済まないな。こんな夫で。君と添い遂げられそうにないんだ」
「なにをいっておられるのですか!」
「な?」
「わたくしは、旦那様の妻で良かったと、再確認していたところなのです! 勝手な勘違いはよしてください! いくら旦那様でも、怒りますよ!」
メリルが憤然と言い放った。彼女が感情を露わにする事自体が珍しい上、その怒りの矛先が自分に向けられていることに、ナーレスは呆気に取られた。
「メ、メリル……?」
「もちろん、旦那様と一緒に居られる時間が短いというのは悲しいです。ですが、わたくしも、旦那様のお力になれることがあるのだとわかったのです」
メリルはテーブルに手を置くと、身を乗り出し、顔を突き出してきた。
「旦那様はガンディアのために全力を尽くすと仰られましたね。この国のために、残る命を使うのだと。わたくしもお手伝いいたします。命をかけて」
「君はなにを」
「旦那様の子を生むことこそ、わたくしに与えられた使命なのです!」
「……は、ははは」
拳を作って、闘志を燃やす妻の様子に、ナーレスはただただ唖然としたのだった。
(……想像していたのとは、思い切り違う方向に話が進んでいる気がするが)
しかし、彼女のいうことにも一理あった。
ナーレス=ラグナホルンの血を残すことも、ガンディアのためになるのかもしれない。
「狭いな」
倉庫に入るなりシーラが発したのは、だれもが思うような一言だった。
「何分、普通の宿屋ですからね」
セツナがルクスとの訓練で使用していた宿の倉庫は、彼女の発言通り、狭い。しかし、訓練のために必要なだけの空間は作られていたし、セツナもルクスもこれで十分だと判断していた。なにより、邪魔が入らないのが大きかった。野外で衆人環視の中訓練するよりは何倍もマシだろう。
「悪ぃ、つい本音がでちまった」
シーラの言動には、屈託がない。嫌味ではないのだ。素直な感想とでもいうべきか。だからだろう。セツナは彼女に好感を抱いた。
「そういう飾らないところが素敵ですよ」
「……なっ、なにいってんだよ、ばか」
「はい?」
突然しどろもどろになりながらそっぽを向いたシーラに戸惑いながら、セツナは、宿の主人に手渡されていた携帯用の魔晶灯を点灯させた。手近に積み上げてあった木箱の上に置くと、倉庫内の狭さがより浮き彫りになる。そして、セツナとルクスのための訓練用の空間がまだ残されていることもわかる。
何度となく這いつくばった床には、無数の傷跡が刻まれていた。主に空振りしたセツナの木剣が激突したことによる傷跡なのだが。
「……で、訓練ってのは、結局、どんな感じだったんだ?」
なにか気を取り直したようにシーラが問いかけてきたときだった。
「ということで、実演と行こうか? 領伯様?」
魔晶灯の光が届かない倉庫の片隅から、幽鬼のような人影が浮かび合ってきたかと思うと、手にした木剣を差し出してきた。特徴的な銀髪が、魔晶灯の光を弾いて輝いている。いうまでもなく、ルクス=ヴェインそのひとだった。
セツナは、驚きを飲み下して、冷ややかに問い返した。
「《蒼き風》の突撃隊長殿がどうしてここに?」
「定宿なんだから、いて当然だろ」
「ああ、そういえば」
納得したものの、彼がこの倉庫にいた理由にはならなかった。ここで隠れて休んでいたわけでもないだろう。
「実演? うーん、それなら俺とやろうぜ」
「はい?」
「ああ、それはいい。どうせ、姫様のほうがお強いのだから、傷をつけて、問題に発展するような可能性はないんだし」
セツナがシーラの提案に呆気に取られていると、ルクスが右手に持っていた木剣をシーラに差し出した。
「ひでえな、あんたそれでも先生か?」
「先生だからこそ、生徒の弱さを理解しているのですよ、姫様」
「そういうもんか」
シーラは、笑いながら木剣を受け取り、軽く素振りして、重さを確かめたようだった。切っ先をこちらに向けてくる。
「って、本気なんですね」
「おうよ、俺はいつだって本気さ。じゃなきゃ、やってられねえだろ」
シーラが床を蹴った瞬間、彼女の息が耳にかかった。打撃が来る。腹部への膝蹴りを左腕で庇うが、痛撃が電流のように腕を伝った。本命は背中への攻撃だろう。セツナは、苦悶の声を発しながら、左に転がるように避けた。木剣が視界の端を流れ落ち、床を貫いた。木片が舞った。
「ひゅー」
ルクスの呑気な口笛に殺意さえ抱きながら、セツナは跳ね起きた。師が投げて寄越した木剣を手に取り、構える。
シーラは、突き下ろしの一撃がかわされたことが納得いかないのだろう。不服そうに、こちらを見た。
目が、笑っていた。