第五百九十二話 黒き矛と獣姫(四)
ガンディオン。
ガンディアの首都であり、王都とも呼ばれる大都市だ。
大陸小国家群に属する国々の首都の中でも、規模の大きな都市だという。ミオンの首都ミオン・リオンやルシオンの首都セイラーンは言うに及ばず、ザルワーンの古都龍府と比較しても、引けを取らないほどらしく、ガンディア人の誇りの拠り所にもなっているらしかった。
獅子王宮を中心に据え、同心円状に整備された都市は、東西南北、四方の城門のどれから市内に入っても似たような風景が広がっているため、土地勘のない外国人が道に迷うことでも知られている。
だからといって、セツナにガンディオンの市街を案内してほしいというのは、なにかが大きく間違っている気がしないでもなかったが、仕事に追われているわけでもない以上、断る理由もなく、彼は、アバードの姫君とふたりきりでガンディオンを散策することになってしまっていた。
アバードとの友好のため、という名目が、セツナにはある。罪悪感はなかったが、時折、背後から刺すような視線を感じることがあった。それが敵対者や部外者、王都の住人からの視線ならば気にはしないのだが、セツナを尾行しているファリアとミリュウのものなのだから、質が悪い。
(針の筵って感じだな)
なぜ、国のために働いているだけなのに、このような仕打ちを受けなければならないのか。納得がいかなかったが、だからといって、ファリアとミリュウに食って掛かるわけにもいかない。彼女たちに悪気があるはずもないのだから。
十二月十二日。
婚儀から六日が経過し、王都は、表面上、落ち着きを取り戻しているように見えた。普段から騒ぎの起きようのない王宮区画はいわずもがな、群臣街も静謐に包まれていたのだ。市街も、静寂に満ちているものと思っていたのだが、どうやらそれはセツナの勝手な思い込みのようだった。
シーラ・レーウェ=アバードのいった通り、セツナと彼女は、注目の的になっていた。平日の午後にも関わらず、王都の市街地は凄まじいばかりの人出であり、それらの人々は、セツナとシーラが連れ歩くさまを遠巻きに見守っているのだ。
何百、何千という衆人環視の中、セツナは、シーラを案内しなければならず、それはある種の辱めにも似ていた。が、注目を浴びるのは、端からわかっていたことでもあるのだ。セツナは王立親衛隊の隊長を務めているだけでなく、エンジュールの領伯でもある。肩書だけで、市民が平伏すだけの威力がある。
ザルワーン戦争前までは、毎日のように市街に出ていたこともあり、王都の住人もセツナを見ても騒がないまでに慣れ親しんだものだったが、ザルワーン戦争を終え、セツナを取り巻く状況というのは大きく変わっていた。領伯に任じられてからというもの、市街を軽々しく出歩くことができなくなっていたのだ。
それに、連れて歩いている女性が女性だ。男物の衣服を身につけた彼女がアバードの王女であり、獣姫の異名で知られる人物だということは、王都中の人間が知っているだろう。レオンガンドとナージュの婚儀に際し、招待客の情報は広く出回っていたし、なにより、皇魔迎撃戦における彼女の活躍を知らないはずがない。
男装の姫君は、道行く女性の目を釘付けにしており、女性から見るととてつもなく魅力的なのだということがわかる。男のセツナから見ても十二分に魅力的なのだが。
「先にいった通り、案内といいましても、わたしも王都について詳しくは知らないので、知っている範囲だけになりますが、それで構いませんね」
「いいぜ。俺の興味は王都よりも、セツナ伯にあるからな」
「はい?」
「それからさ、その、堅苦しい喋り方はなんとかならねえかな? なんていうか、他人行儀過ぎて、息苦しいっていうかさ」
「ええ、構いませんよ」
シーラが少しばかり照れくさそうにしながら告げてきた提案を、セツナはそのまま受け取った。要するに、セツナの慣れない喋り方が気に食わないのだろう。辿々しいというほどではないにせよ、すらすらと言葉が出てこないのも事実だった。レオンガンドに仕えるようになって半年近く経つというのにこれだ。領伯にもなって、ますます口調に気をつけなければならなくなったのだが、これでは先が思いやられる。
セツナは自分自身に情けなさを覚えたが、表情にはださなかった。
「だから」
「えーと……」
「普通にしてくれよ。俺も、普通にするからさ」
「……わかりました。これでいい、のかな」
「まだ堅苦しいけど、ま、仕方ねえか」
シーラは、諦めたように笑った。立場を考えれば、ある程度丁寧な言葉づかいを意識しなければならないのは当然だった。しかも、相手は他国の姫君なのだ。無礼があってはならないし、なにが彼女を怒らせるのかわかったものではない。彼女の不興を買えば、反クルセルク連合軍も瓦解しかねない。アバードは、ジベルに次ぐ強国なのだ。アバードの離脱だけは避けなければならない。
『獣姫のお扱いにはご注意を』
婚儀の翌日、ナーレス=ラグナホルンから直々に忠告があったのだ。
『姫君は、セツナ伯を気にかけておられる様子。理由までは存じかねますが、少なくとも、好意を抱いているのは明白。ガンディアとアバードのためにも、セツナ伯には姫君の機嫌を損ねられぬよう、お気をつけを』
それからというもの、セツナはシーラと話す機会を得るたびに緊張したものだった。常にナーレスの忠告が脳裏を過ったのだ。セツナがシーラの機嫌を損ねるだけでアバードが連合軍から離脱するとは言い切れないにせよ、注意するに越したことはなかった。
シーラの王都観光案内を引き受けたのも、その一環だ。彼女の機嫌を取るには、どのような要望も受け入れるのが吉だろう。
「そういえば、セツナ伯は、あの“剣鬼”に剣を学んでいるんだよな?」
シーラの発言によって、セツナは自分の剣の師匠である人物が、どれほど有名なのかを再確認した。《蒼き風》の突撃隊長にして、“剣鬼”ルクス=ヴェイン。剣の達人であり、召喚武装グレイブストーンの使い手でもある彼は、小国家群の様々な国から仕官の声がかかるほどに高名なのだ。
ルクスの実力は、身に染みて理解しているのだが、普段の彼を知っていると、彼が有名人だということも、百戦錬磨の猛者だということも忘れてしまいがちだった。
「ええ、俺の師匠は、《蒼き風》のルクス=ヴェインです。一時期は、この宿屋の一部を借りて、扱かれていたんですけどね」
そういいながら、セツナは視界に飛び込んできた宿を示した。傭兵集団《蒼き風》が定宿として利用していた宿屋は、国を上げての婚儀に際して、常に満室だったという程度には儲けていたという話だった。
「へえ……覗いてもいいかな?」
「店主に了解を取らないと……」
セツナはいったが、店主が宿屋の軒先からこちらを見ていることにも気づいていた。外の騒ぎを聞きつけたのだろうが、まさか自分の宿に異国の姫君が興味を持つとは思っていなかったに違いない。
「シーラ姫が見学したいということなのだが、構わないだろうか」
「ひっ、わっ、わたくしどもの店を見学!? な、なんでまた!?」
「セツナ伯とルクス=ヴェインが訓練に使っていた場所を見てみたいんだ」
驚愕のあまりしどろもどろになった店主に向かって、シーラは、目をきらきらと輝かせた。その言葉で、セツナは、彼女の好奇心がなにに向けられているのかを漠然とながらも理解した。
強いものに興味が有るのかもしれない。
セツナに興味を持っているのも、セツナが強いからなのではないか。強さが、彼女の好奇心を刺激するのかもしれない。
「そ、そういうことでしたら、どうぞ、お好きな様に……!」
「突然のことで済まないな。そしてありがとう」
「おう、ありがとな」
「い、いえ……アバードの王女様と領伯様に見学していただけるとは、これ以上ないくらいの幸福でございます!」
宿の主人は、平身低頭といった有り様であり、セツナが可哀想に思うほど取り乱していた。状況を考えれば当然の反応だろうが、それでも、店主の慌てぶりは、セツナが訓練のために出入りすることになったときの比ではなかった。
あれからたった数ヶ月経過しただけだが、セツナは、時の移り変わりを実感せずにはいられなかった。
「こんな衆人環視の状況で姫君を宿に誘うとは、セツナ様も大胆不埒極まりない方ですこと」
「あんたの頭、おかしいんじゃないの!?」
使用人の格好をしたままの死神がつぶやくと、隣に身を潜めていたミリュウがいまにも掴みかかるかのような勢いで憤慨した。が、死神ことレム・ワウ=マーロウは、意にも介していないのだろう。挑戦的な態度を崩さないまま、言い返した。
「セツナ様のことしか考えられない状態を正常と言い張るのなら、おかしくて結構ですの」
「ああいえばこういう……!」
怒り心頭といった様子のミリュウだったが、周囲の視線に気づいたのか、レムとの口論を諦めたようだった。
市街の街角。エインたちは、セツナとシーラの視界からは見えないよう、建物の壁に隠れて、ふたりの様子を窺っていた。追跡対象にこそ気づかれていないのだが、その追跡対象を遠巻きに見守っている王都の住人たちには気づかれていた。王立親衛隊《獅子の尾》の隊長補佐と新入り隊士という派手なふたりが同行しているのだから、市民が注目するのも必然だったのかもしれない。
(俺だけなら注目も浴びずに済んだんだけど……)
エイン=ラジャールは、ザルワーン戦争での功績を認められ、論功行賞では上位十名の中に入ったものの、基本的に王都外での活動が多いため、容姿がガンディオンの人々に知れ渡っているということはないはずだった。
市民が口々に囁いているのは、ファリアの名であり、ミリュウの名である。使用人の格好をした美少女がなにものなのかと不思議がる声もないではなかったし、エインの存在を訝しがるひともいた。が、ほとんどは、ファリアとミリュウという《獅子の尾》が誇るふたりの美女に関する話題が多いようだった。
市民は、ミリュウが不機嫌そうなのが気になってしかたがないようであり、それはエインも気になるところだった。ミリュウといえば、セツナさえいれば後はどうでもいいという態度を隠さない女性であり、そういうわかりやすいところに好感を持てるかどうかで好き嫌いが分かれそうな人物だ。しかし、エインが久々に見たミリュウは、終始苛々しており、いまにも爆発しそうな空気を漂わせていたのだ。
その原因が、レムにあるのは一目瞭然だったが。
エインは、ファリアにこっそり耳打ちした。
「なんなんですか?」
「犬猿の仲なのよ。レムはミリュウをからかうのが趣味みたいだし、ミリュウはどんな挑発にも乗ってしまうし……レムが来てからというもの、ミリュウが怒らない日はないわ」
「……セツナ様も大変だ」
エインは、ミリュウとレムに振り回されるセツナの姿を想像して、肩を竦めた。レムがセツナの側につくことになった経緯は聞いているし、一応納得しているものの、それについては軍師の意見を聞く必要があるのではないか、と思ったりもしている。ジベルの死神に、ガンディアの最重要戦力の弱みを握られる可能性も皆無ではない。
「セツナもセツナよね」
「はい?」
「女に弱すぎるのよ」
ファリアが、少しばかり言葉を尖らせたのは、彼女にとってもセツナが特別な存在だからなのかもしれない。
以前は、セツナの隣にはファリアだけがいた。ファリアだけがセツナを独占することができたのだ。セツナはいつもファリアを頼っていたようだし、ファリアもセツナに頼られることを喜んでいた節がある。その関係性が壊れ始めていることにファリアが不満を抱いているのかもしれない。
なにもかもが、変わり始めている。
「女性の扱いが巧みなセツナ様なんて想像もつきませんけどね」
「……それもそうね。それに、似合わないわ」
(ま、それでも上手くやれている辺り、憂慮することはない……か)
エインは、セツナを巡る人間関係の色鮮やかさに目を細めた。悪いことではない。むしろ、好むべき事象だろう。ガンディアの国民として、ガンンディアの軍人として、素直に喜ぶべきだった。そして、応援するべきだ。セツナとだれかの恋路を。セツナとだれかの結婚を。
セツナは早々に結婚するべきなのだ。結婚し、子を成せば、レオンガンド王も安心するに違いない。セツナがガンディアに骨を埋めるという覚悟の表れと受け取ることもできるし、なにより、家を継ぐものがいるのといないのとでは、安心感がまるで違うものだ。
そして、召喚武装は受け継がれることがある。
ルクス=ヴェインがその剣を父親から受け継いだように、セツナが命を落としたとしても、彼の子供が黒き矛を受け継げば、ガンディアの著しい戦力の低下という最悪の事態は避けられる。
遠い話だ。
たとえセツナと結婚相手の間に子が生まれたとしても、その子供がセツナの矛を受け継いだとしても、即座に戦力になるわけではない。
何年も、何十年も先の話だろう。
しかし、戦術家、戦略家には、それくらい先の未来を見通す目が必要なのだ。
(もっとも……)
と、彼は考える。
(セツナ様が幸せになることが一番なんだけどさ)
戦場で黒き矛を振るい、数多の敵を理不尽に殺戮するセツナも好きだったが、極普通の少年をしているセツナも、エインは大好きだった。だからこそ、セツナには幸せになって欲しいと思っているし、彼がガンディオンにきたのは、その一助となるためでもあった。