第五百九十一話 黒き矛と獣姫(三)
「なぜ? と想っているのだろう」
クレイグ・ゼム=ミドナスは、死神弐号カナギ・トゥーレ=ラハンの氷のような目を見つめながら、いった。参号と肆号は、セルジュ・レウス=ジベルとともに帰国の途についており、ガンディオンに残った死神は彼と彼女の、そして死神壱号レム・ワウ=マーロウだけだった。
ジベル国王アルジュが、王子であるセルジュを帰国させたのは、ハーマイン=セクトル将軍に軍備を整えさせるためであり、必ず起きるであろうクルセルクとの大戦争に備えるためでもあった。クルセルクがガンディアのみならず、その周辺諸国にまで戦火を広げようとしているのは明らかだったし、クルセルクの大軍勢に対抗するための連合軍を結成する以上、ジベルも率先して軍備を整えるべきなのだ。
アルジュは、ガンディオンに残っていた。王都には、ガンディアの王レオンガンドを始め、連合軍に参加した国々の首脳が揃っている。連合軍の結束を固めるという名目が、アルジュをガンディオンに縛り付けているといってもよかった。
「なぜ、黒き矛に壱号をつけたのか、と」
クレイグとカナギは現在、王都の一角、市街に聳える時計塔の影に身を潜めていた。昼下がり。空は晴れやかで、風は穏やかだ。流れる雲の白さが目に痛いほどだった。眼下に広がる市街地には、平日にかかわらずかなりの人出で賑わっている。まるで祭りのような大騒ぎだが、それには相応の原因というものがあった。
クレイグは、カナギとともにその原因を観察していたのだ。
「ジベルとガンディアの友好……それも必要なことだが、もっとも大事なのは、セツナ・ラーズ=エンジュール、あの男を監視下に置くことなのだ」
「セツナ伯を……?」
「そうだ。セツナ・ラーズ=エンジュール。セツナ・ゼノン=カミヤ。セツナ=カミヤ」
クレイグが忌々しくも口にした名前は、市街地を騒がせている渦中の人物の名前でもあった。
王都ガンディオンは、ガンディアが小国であった当時から、龍府に引けを取らぬ大都市として知られていた。王宮を中心に同心円を描くように計画的に建設された都市は、ただそれだけで美しい。レオンガンド王とナージュ王妃の結婚を祝うため、国中から集まってきたひとびとを護るため、という名目で同心円がひとつ増えたことには、多くのものが唖然としたものだが。
とはいえ、外周部が都市として機能することはないだろう。婚儀が終わり、ガンディオンが落ち着きを取り戻すと、外周部に集まっていたひとびとは、次第に王都を離れていった。そのまま王都の外周部に住み着こうとするものもいないではなかったが、都市警備隊によって立ち退きを迫られれば、従わざるを得まい。
そう、王都ガンディオンは、落ち着きを取り戻したのだ。
婚儀と、それにまつわる事件は、ガンディオンの住民や、王都に集った人々に大きな衝撃を与えたものの、数日あまりで収まった。皇魔襲撃事件も、ラインス=アンスリウスらを始めとする反レオンガンド派貴族の死も、市民たちが話題に取り上げることも少なくなった。クレイグの知らないところでは喧々諤々の議論がかわされているのかもしれないが、それはどうでもいいことだ。
クレイグの意識は、視線の先の人物に向かっている。
クレイグだけではない。市街を賑わす人々の意識も、彼に集中していた。
セツナ=カミヤが、市街地を歩いているのだ。黒髪に紅い目の少年という他に類を見ない姿は、噂でしか知らないものにも、彼がセツナ本人だという確信を抱かせるにたるものだ。王立親衛隊長であり、領伯である彼が護衛も付けず市街地を歩いているというだけで驚愕ものなのだが、それ以上に世間を騒がせているのは、彼がアバードの王女を連れ立っているということだ。
シーラ・レーウェ=アバード。獣姫とも呼ばれるアバードのじゃじゃ馬姫が、ガンディアの黒き矛と、ふたりきりで市街地を散策しているというのは、ただそれだけで話題になるだろうし、注目をあつめるのも、市民が騒然とするのも当然だった。しかし、セツナとシーラのむしろ堂々とした様子は、近寄りがたい空気を作り出すことに成功しており、ふたりの周囲には巨大な空白地帯が形成されていた。
その空白地帯を追尾している一団がいる。その一団を構成するのはセツナを隊長とする《獅子の尾》の隊員たちであり、死神壱号ことレムも追跡団の一員になっていた。レムらしくもない気の使い方に、クレイグは怪訝な顔になったが、気にすることでもないと思い直した。
大切なのは、レムがセツナを監視下に置いているという事実だ。彼女が彼から目を離さない限り、何もかも上手くいくはずなのだ。
セツナ。
その名を思い浮かべるだけで、心臓が高鳴った。
「わたしは、ようやく敵を見つけた」
婚儀の日、皇魔の襲撃に遭い、恐怖と焦燥の中で救いを求めたアルジュに代わったクレイグは、王宮区画の戦場で、初めて、黒き矛のセツナを目の当たりにした。
「倒すべき敵を」
噂だけは聞いていた。噂だけではない。情報も集めた。集めさせた。ガンディアに忍ばせた諜報員からの報告もすべて耳に入れ、目を通した。バルサー要塞奪還戦、ログナー戦争、ザルワーン戦争……次第に苛烈さを増していく戦いの中で、彼の名は、ただひたすらに存在感を増していった。
ログナー戦争では飛翔将軍アスタル=ラナディースに敗北を認めさせ、ザルワーン戦争では難攻不落のバハンダールを落とし、さらにはドラゴンを打ち倒し、竜殺しの二つ名で呼ばれるようになった。情報は、セツナ=カミヤを巨大化していった。
しかし、それだけでは、クレイグの敵にはならなかっただろう。戦局を左右するほどの力を持っていたとしても、所詮は一個人に過ぎない。彼が興味を抱くようなものではない。そのはずだった。
「滅ぼすべき敵を」
だが、数多の皇魔を蹴散らす黒き矛と、黒き矛を自在に操る少年の姿を目撃したとき、クレイグは衝撃とともに確信を抱いた。
セツナを殺さなければならない。
セツナを滅ぼし、黒き矛を破壊しなければならない。
そう、黒の仮面が囁いている。
「彼だ。彼こそが、わたしの、死神の敵なのだ」
彼は、仮面を手で抑えた。黒の仮面から伝わるのは、セツナへの絶大なまでの敵意であり、黒き矛への憎悪である。黒の仮面は、召喚武装だ。彼の武装召喚術によって呼び出された異世界の武装。仮面の形をした兵器なのだ。当然、召喚武装には意思がある。その意思が、黒き矛とセツナを否定している。殺したがっている。破壊したがっている。
そうしなければならないと、告げている。
「だが……いまはまだそのときではない。まずはクルセルクという脅威を排除する必要がある。魔王と皇魔の軍勢を打ち払わねば、ジベルに未来はないのだからな。黒き矛を倒すのは、それからでよい」
まずはジベルの安全を確保するべきだ。そのためにも、黒の仮面の殺意を押さえつける必要があり、彼は苦慮していた。彼が抑えなければ、他の死神たちにまで悪影響が出てしまうかもしれない。それだけは避けなければならない。
「だから、レムに監視させておく、と」
「そうだ。壱号がセツナの弱味でも握ってくれればそれでいいが、もし不可能ならば、彼女自身が彼の弱点となればよい」
「レムを道具にするのですか」
「不服か?」
「いえ」
カナギはそういったが、心の奥底では納得していないのだろうということは、その眼を見れば明らかだった。絶望的な闇を潜ませた眼に、怒りが浮かんでいた。
クレイグは、カナギたちのそういった人間らしさが嫌いではなかった。
だからこそ、彼女たちが死神でいられるのだろう、と考えたりもした。
「なんつーか、すっげー注目浴びてんだけど、なんでだ?」
シーラ・レーウェ=アバードが、片足立ちでこちらを振り返った。相変わらず男物の衣服を身につけているのだが、厚手の冬服は、彼女の姿を多少なりとも女性的なものにしている。元より、どんな格好をしていても女性にしか見えない顔立ちなのだ。男装をしていようと、シーラを男と勘違いするものはいないだろう。
「それは、姫様が護衛も付けずに市街地に出ておられるからでしょう。まあ、護衛をつけていても、同じことかもしれませんが」
セツナは、シーラの疑問に答えながら、神経を尖らせていた。護衛をつけていようがつけていまいが、他国の姫君が市街地を歩き回っていれば、注目を浴びるのは当然のことだ。そして、表立った護衛がいない以上、セツナが彼女の護衛を務めるというのもまた、当然のことだった。他国の王女に万が一のことがあれば、セツナの責任問題では済まない。外交問題に発展するのは疑いようがなかったし、この情勢下で、そのようなことが起きるのは問題外だ。
そして、そうなれば、レオンガンドを失望させるに違いなかった。
「なにかがあったらセツナ伯が護ってくれるんじゃなかったっけ?」
「もちろんです」
「へへっ」
セツナが間髪入れず肯定すると、なにが嬉しいのか、シーラはほくそ笑んだ。
もちろん、護衛がいない、というのは嘘である。遠くからアバードの侍女団が見張っているのはわかっていたし、都市警備隊も緊張感を以って市街地の警備に付いている。その上、《獅子の尾》の隊士たちが、ふたりの後をつけてきていた。強力極まりない護衛の布陣は、どのような事件が起きても対処できるのは間違いなかった。
(これもアバードとの友好のため……か)
空は晴れている。
まるでガンディアに立ち込める暗雲を忘れさせるように。
戦乱の兆しさえ、感じさせないかのように。




