第五百九十話 黒き矛と獣姫(二)
穏やかな日差しの下、レオンガンドは、午後の会議を目前に控え、少しばかり憂鬱な時間を過ごさなければならなかった。
婚儀が終わってからというもの、彼に心休まる時間はほとんどなかった。婚儀の翌日にはクルセルク対策会議を開かなければならなかったし、各国の王族や将校が参加する会議は、連日開催された。素早く諸国の意思統一を図らなければならないというガンディア側の思惑もあったし、諸国からの要望もあった。クルセルクという狂気の国に敵意を向けられた以上、一刻も早く結束し、安心感を得たいというのは、どの国も同じなのだろう。しかし、体面もあれば、さまざまな理由もある。イシカとメレドはつい先日まで領土争いをしていたばかりだったし、ジベルとベレルもそうだ。ベレルはガンディアの属国となったものの、ジベルの王アルジュ・レイ=メレドは、ベレル国王への敵愾心を隠さなかった。ジベルは、ガンディアの横槍さえなければ、少なくともベレルの領土の半分は手に入れていたのだ。アルジュ王が口惜しがるのも無理はなかった。
もっとも、武力を背景にベレルとジベルの戦いを終わらせた後、ベレルそのものを支配下に置いたガンディアに対しては、それ以上に複雑な感情を抱いているはずだったが、アルジュがレオンガンドに噛み付いてくるようなことはなかったのだが。
連日の会議の中で、ガンディアと近隣諸国は、反クルセルクで意見を一致させた。皇魔を使役する魔王の国クルセルクは、滅ぼすべき大悪であると決議され、反クルセルク連合軍の発足が決定的となった。特にアバードやジベルが積極的だったのだが、それは、国境がクルセルクと隣接した国であるからに他ならない。アバードもジベルも強国ではあるのだが、四カ国連合軍を相手に王者の戦いを見せるクルセルクと比べると、非力なのは疑いようがなかった。
それは、ガンディアにもいえることだ。
レオンガンドがナーレスの意図を察し、皇魔の襲撃に各国の参列者を巻き込むことで危機意識の共有をはかったのは、ガンディアを中心とする一大勢力を構築するためだった。ガンディア一国では、クルセルクと対等に戦えるかどうかも危うい。
クルセルクから飛び込んでくる情報の数々は、ナーレス=ラグナホルンにさえ危機感を抱かせ、戦力の拡充を急がせるほどだった。
ナーレスは、レオンガンド以上に忙しなく動き回っている。軍師という立場にありながら、参謀局の初代局長を務めることになった彼には、わずかな休憩時間さえもないようなのだ。レオンガンドが休めと命じなければ、走り回ることを止めないだろう。
(時間がない……だと?)
レオンガンドは、ナーレスがいったという言葉を胸中で反芻した。オーギュスト=サンシアンがいうには、ナーレスはラインス=アンスリウス一党を殺した場で、そのようなことを漏らしていたらしい。自分には時間がないから、ラインスを生かすことができなかった、と。
時間。
(あなたはまだ若いのだ。生き急いで死なれては困るぞ)
レオンガンドは、ナーレスの怜悧な横顔を思い浮かべた。いつもなにを考えているのかわからないのだが、その双眸に宿る知的な光は、レオンガンドに安心感を与えてくれる。幼い頃から知っている人物であり、レオンガンドの協力者だからだろう。共謀者であり、共犯者であり、血と魂に懸けてこの国を強くすると誓った仲だ。
「陛下は……いつも難しい顔をしておられますね」
聞こえてきた声が、かぐわしい薫りを運んでくる。ナージュの声は、耳朶に優しく染み入るようであり、彼は、いつの間にか閉じていた瞼を、そのままにしておきたいとも思った。しかし、そうするとナージュが悲しむことになるかもしれず、レオンガンドは多少、残念な気持ちで目を開けた。
冬の光の中、ティーセットを抱えたナージュが、いつものように笑みを湛えて、立っていた。宮殿二階、レオンガンドの私室のテラスである。広くはないが、レオンガンドが瞑想するには十分な空間だった。
「そうかな?」
「はい。なんだか、話しかけるのもはばかられるようなお顔でした」
「君にそういわれると、悪いことをしている気分になるよ」
「ふふ……悪巧みでもしていらっしゃったのでしょうね」
「そうかもしれないな」
レオンガンドは、婚儀から数日の間で、ナージュの知らなかった側面を度々発見するようになった。そういう発見は、新鮮な驚きを与えてくれるのだ。
もちろん、彼女が意図して隠していたわけではないのだろう。婚約していたとはいえ、他国人であり、赤の他人には違いなかったのだ。そういった表情を見せてくれるようになったということは、結婚という儀式を終えたことで、彼女の心境が変化したということにほかならない。そしてそれは、レオンガンドにとって幸福以外のなにものでもなかった。
婚儀以来、政務に忙殺されてはいたものの、こうして面と向かって話し合う時間が持てていることも、幸福といっていいだろう。ナーレスなどは、屋敷に帰る時間さえも惜しんでいるというのだ。彼に比べると、いかに自分が幸福なのかを実感しなければならなかった。
「しかし、ふたりでいるときくらい、名前で呼んでほしいものだ」
「それは……その……恥ずかしいのです」
「なぜかな?」
「なぜなのでしょう?」
ナージュが気恥ずかしそうに問い返してくる様子が愛おしくて、レオンガンドはなにもいわず、しばらく見とれ続けた。彼女が慌てて話題を変えるまで、ずっとだ。レオンガンドは我ながら意地悪だと思わないではなかったが、彼女がそうまで自分のことを想ってくれている事実に感動してもいた。
自分に、他人に愛される資格があるとは、思っても見なかった。
「そういえば、アバードの姫君がセツナ様にご執心だそうですね」
ナージュがティーポットを手に取った。ティーセットは、彼女の父親――つまりレオンガンドにとっては義父に当たる――イシュゲル・ジゼル=レマニフラが、婚儀に先立って持ち込んできた代物であり、ティーカップに注がれるのも南方産のお茶だ。濃厚な薫りが鼻孔を擽り、緩みかけていた思考に刺激をもたらす。
「ほう……」
「ご存じなかったのですか?」
「いや、知ってはいたがな」
アバードの姫君といえば、獣姫の異名で知られている。シーラ・レーウェ=アバード。個人の力量もさることながら、部隊指揮も巧妙だという。実際、皇魔迎撃戦において、シーラと彼女の侍女団は他国に勝るとも劣らぬ戦果を上げている。
そんな獣姫が、セツナに興味を抱くのは、別に不思議なことではない。皇魔迎撃戦で最大の戦功を上げたのがセツナなのだ。セツナに注目が集まるのは当然だったし、彼に注目する人物の中にシーラ姫が紛れていたとしても、なんらおかしいことではなかった。
「後宮は目下、その話題で持ちきりですよ」
ナージュは、頬をゆるめた。彼女の脳裏には、後宮の様子が浮かんでいるのかもしれない。
後宮は、いままでは太后グレイシア・レイア=ガンディアの支配領域だったのだが、ナージュが王妃となったことで、太后と王妃というふたりの支配者を頂く場所になっている。ナージュにはイシュゲルがレマニフラから連れてきた侍女団がついており、強力な派閥を形成するかに思われたが、ナージュがグレイシアの派閥に入ったため、そういった話は聞かれなくなった。
グレイシアはそんなナージュを溺愛しており、ふたりの仲の良さが後宮の雰囲気そのものを変えてしまっていた。かつては、ひとの出入りも少なかったものだが、いまは貴族の夫人や娘がグレイシアの話し相手や遊び相手をするために出入りしているという。
開放的なのだ。
「セツナ様は人気者ですからね」
「母上も、セツナのことを気に入っておられる」
レオンガンドは、グレイシアが我が子のようにセツナを可愛がっている様子を思い出して、目を細めた。レオンガンドがセツナの年齢の時分、グレイシアと会うこともできなかった。逢えば、自分を思い出してしまうかもしれない。“うつけ”ではいられなくなるかもしれない。“うつけ”を演じ続けるには、様々なものを断ち切らなくてはならなかったのだ。
もちろん、“うつけ”を演じていなかったとしても、グレイシアに甘えることなどなかったかもしれないが。
「ですから、気になっておられるのでしょうね。セツナ様の周りには、魅力的な女性ばかりですから」
「ただでさえ、ベルにミリュウがいるからな」
ファリア・ベルファリア=アスラリアも、ミリュウ=リバイエンも、ともに魅力的な女性だろう。特にファリアは、レオンガンドとも親しく、そのさっぱりした性格に惚れそうになったことが何度かあったほどだ。レオンガンドが通常人ならば、真っ先に惚れていたかもしれない。
ミリュウは、ファリアとは全く異なる魅力を持った女性だ。セツナを必要不可欠としているらしい彼女の一途さについては、聞いている側が恥ずかしくなるほどだった。
「そこに死神と獣姫が加わるのか」
「死神……?」
「ジベルの死神が、セツナの護衛についている」
「だいじょうぶなのですか? また、あのときのようなことがあっては、セツナ様が可哀想です」
「セツナにもしものことがあれば、そのときは、ガンディアのみならず、ジベルも終わる。彼が、クルセルクとの戦いにおける最重要戦力だということは、だれもが知っていることだ。だからこそ、ジベルが話を持ちかけてきたんだろう」
婚儀の夜、突如として目の前に黒い仮面の死神が現れたときのことを思い出す。アーリアの警戒網にさえ引っかからなかった男は、死神零号クレイグ・ゼム=ミドナスといった。ジベルの死神部隊を率いる人物であり、皇魔迎撃戦で多数の皇魔を蹴散らした超人のひとりだった。
彼が持ちかけてきた話とは、ガンディアとジベルの今後の友好のために、という建前の下、死神によってセツナを監視する大義名分を欲したものであったが、レオンガンドはこれを了承した。逆を言えば、死神を監視下に置くことができる、ということでもあるし、また、両国の関係を悪化させないための施策のひとつとしては、有用かもしれなかった。
セツナの護衛についた死神は、ミョルンにおいてセツナを暗殺しようとした人物であり、そういう意味では危険極まりなかった。しかし、セツナはその暗殺から、自分の身を護っている。暗殺未遂事件のようなことはもう起きないだろう。
「ジベルとの友好は、クルセルクに打ち勝つために必要なことだ。セツナにはしばらく我慢してもらうことになるがな。なに、美しい女が四六時中身辺を護ってくれるのだ。悪い気はすまいよ」
「陛下も、四六時中護られて、悪い気はしませんか?」
ナージュがいったのは、アーリアのことだろう。気配を消すだけでなく、存在そのものが認識できなくなる彼女の異能ほど、護衛に相応しいものはない。それに、彼女は超人的な戦闘能力の持ち主でもある。アーリアが常に護ってくれているという事実には、安心感しかない。
「……そうだな。彼女のおかげで、助かっている」
「わたくしも、そう思いますわ」
レオンガンドの言葉にナージュが同意したのは、皮肉でもなんでもないのだろう。ナージュはどういうわけかアーリアを気に入っているし、アーリアもナージュに気を許しているようなのだ。ときに見せる仲の良さは、姉妹のようだった。
「一言いっておきますが、閨まで監視しているわけではありませんので、ご安心を」
アーリアの突然の言葉に、レオンガンドは口に含んだお茶を吹き出しかけた。