第五百八十九話 黒き矛と獣姫(一)
「というわけで、今日から王都での生活を始めることになった俺になにか一言」
「えーと……王都に到着して早々此処にくるかしら? 普通」
ファリア・ベルファリア=アスラリアは、開口一番そんなことをいってきたエイン=ラジャールの考えがいまいち読み取れず、困惑気味に問いかけた。
此処というのは、《獅子の尾》隊舎の食堂である。大陸暦十二月十二日正午。ファリアたちは、ちょうど昼食を取るために食堂に向かっていたところ、エインたちが訪問してきたのだ。エインと、彼にいつも付き従っていた三人の女性将校は、ファリアの認識している限りでは、新設されたばかりの部署であるところの参謀局に転属されたという話だが。
「ほかに! どこにいけと!?」
「参謀局とやらに到着したことを報告するべきじゃないんですかねえ」
「え!?」
ルウファの至極真っ当な発言に、エインは、なぜか愕然と目を見開いた。彼の三人の部下は、別のテーブルでゲイン=リジュールの手作りの料理に舌鼓を打っている。その様子を横目に見て、ファリアはお腹に手を当てた。朝食を取り損ねたため、空腹の極致に達している。
豪勢に盛りつけられた麺料理が、目の前のテーブルに置いてあるのだが、エインの相手をしている手前、食べるに食べられないでいた。
「そんなことよりもセツナ様に一目会いたいじゃないですか!? で、セツナ様はどこ!? 俺のセツナ様ー!」
大声を上げながら隊舎の中を駆け回りだしたエインの様子に、ルウファが唖然とした。
「エイン軍団長ってこんなひとでしたっけ?」
「こんな感じだったわよ、最初から」
ファリアは、嘆息とともにエインがセツナとナグラシアで初めて逢った時のことを思い出した。セツナを神のように信仰するログナー人将校という極めて珍しい人種を目の当たりにして、呆気に取られたものだ。ログナー人にとっては敵以外のなにものでもないはずのセツナを、あそこまで熱烈に歓迎する人物がいるなど、想像すらできなかった。エイン=ラジャールとの出逢いが、セツナの中のログナー人像を破壊したのは間違いないだろうし、それはファリアとて同じだった。
「なんか……強化されてませんか」
ルウファが囁いてくる横で、ファリアはそっと食器に手を伸ばした。エインが食堂を駆けまわっているいまなら食事にありつくことができる。と思ったのだが。
「セツナ様欠乏症なんですよ! 俺は!」
ばん、とファリアのテーブルにエインの両手が叩きつけられた。幸い、大皿から麺類が零れ落ちるようなことはなかったが、グラスになみなみと注がれた冷水が少しばかりこぼれた。
「あー……わかる気がする」
そういって、うんうんと頷いたのは、ミリュウだ。ファリアの隣の席で、エインの様子を窺っていた彼女が口を開いたと思ったらそれだ。ファリアは軽く頭痛を覚えた。
「わかるんだ……」
「ファリアさんにはわからない、と?」
「わかるわけないでしょ。なによ、セツナ欠乏症って」
ファリアがあきれると、エインが強く睨んできた。
「ずっとセツナ様と一緒に居られる方にはわからないでしょうね! 俺は! この一ヶ月近く! セツナ様に逢えなかったんですよ!? これがどういうことかわかりますか!?」
「わかるわあ……うんうん、そうよねえ」
「わかりますか!? ミリュウさん!」
「セツナに一日逢えないだけで気が狂いそうになるもの……一ヶ月なんて、考えただけでそ卒倒しそう」
「俺はその地獄を耐え抜いたんですよ! セツナ様との再会を信じて!」
「凄いわね……本当に。あたしなら絶対に耐えられないわ」
「耐えなさいよ、そこは」
ミリュウとエインだけが理解できるような次元の会話に、ファリアは頭を抱えたくなった。セツナと逢えないからといって、気が狂うことなどありえないことのように思える。セツナと逢えない日がないからそう思えるのか、自分の心がミリュウたちほど熱を帯びていないからそう思えるのかはわからない。
ただひとついえることがあるとすれば、ファリアは彼女たちほど熱烈ではないということだ。
(でも、セツナのことが好きじゃないってことじゃない)
想いはある。ただ、ミリュウたちとはその表現方法が異なるだけだ。
「だから! セツナ様はどこ!?」
「セツナ様はここにはいませんよ。もしかすると、一ヶ月どころじゃなく、何ヶ月、何年も会えなくなるかもしれませんよ」
不意に聞こえた声に、
「レム・ワウ=マーロウ!」
ミリュウが警戒感を剥き出しにしたのは、ファリアにもわからないではなかった。ここ数日、彼女のせいで《獅子の尾》隊舎の空気は最悪になっているといっても過言ではないのだ。彼女さえいなければ、このような空気にはならなかっただろうという確信がある。彼女は、悪意を以って、《獅子の尾》の人間関係をかき回している節があった。
食堂の出入口に佇む女を視界に入れて、ファリアは、敵対心を胸の内に抑えこむことに苦慮しなければならなかった。
「どういうこと? セツナのことをいったのよね?」
「セツナ様専属の死神であるこのわたくしが口にするのは、セツナ様のことだけですわ。当然でございましょう?」
レム・ワウ=マーロウ。一見すると、黒髪黒目の美少女だ。少女という年でもないはずだが、外見的には少女としか認識しようがない。そして、使用人が着るような黒と白を基調とする衣装を身につけているため、どこぞの屋敷で働く使用人か侍女に見えた。とても死神とは思えない有り様だが、彼女はその格好が気に入っているらしい。
『セツナ様にも好評ですので』
その一言がミリュウの激昂を買ったのはいうまでもない。もっとも、本当にセツナに好評なのかどうかは定かではない。なにせ、レムはミリュウをからかうためだけに平然と嘘をつくのだ。そのため、ミリュウはここのところ怒りっぱなしといってもよく、あまりよい傾向には見えなかった。
とはいえ、ミリュウはミリュウで、セツナの寝床に忍び込んだり、セツナがいるときはべったりくっついて離れなかったりするのだが。
「……どちら様?」
「彼女は、ジベルの死神部隊に所属する死神壱号さんよ。ジベルからの提案で、セツナの護衛としてガンディアに滞在中なの」
「あー……聞きましたけど、本気なんですかね? 他国の暗躍部隊に親衛隊長の護衛を任せるなんて」
「正気の沙汰とは思えないわね。セツナが国の重要機密を知る機会なんて少ないから、問題はないのかもしれないけど」
「だからいったでしょ、こんなのセツナの側に置いておく必要は……って、あんた、セツナの護衛についてるんじゃないの?」
ミリュウが嫌悪感を隠しもせずに問うと、レムはなにがおかしいのか、愉快げに笑った。
「そうですよ、隊長、王宮に行ってたんじゃないんですか?」
「もちろん、わたくしはセツナ様の護衛として、四六時中側を離れてはいけないのですが、皆様に耳寄りな情報がございまして」
「なに!? なんなのよ!?」
「セツナ様がアバードの姫君に王都の案内を頼まれたのですよ。どうやらシーラ王女殿下は、セツナ様に興味を持たれておいでのようで」
アバードの獣姫シーラ・レーウェ=アバードが、セツナに興味津々だったのは、晩餐会での態度からもわかっていたことだ。それもただの興味ではない。異性として意識している態度だったのは、ファリアの目にも明らかだった。
「セツナ様がアバードの姫君に婿入りされる可能性もなきにしもあらず、といっているのですわ」
「そんなことありえないわよ!」
「そうよ、ありえないわ。姫様が領伯夫人になるというのならまだしも」
「ちょっとファリア!?」
「なによ?」
「いいの!?」
「いいとか悪いとか、そういう話じゃないでしょ。可能性の話よ。いくらアバードの姫様がセツナのことを気に入っていたとして、アバードがセツナの婿入りを熱望したとして、陛下がそれをお認めになるはずがない」
セツナが他国の姫に婿入りするということは、ガンディアの戦力が極端に低下するということにほかならない。他国との紐帯が強くなったところで、力関係が逆転する可能性だってある。黒き矛のセツナとは、それほどの存在なのだ。
聡明なレオンガンドが、そのような愚かな判断をするはずがない。
「で、セツナはいまどこに?」
「自室でお着替え中でございますわ。わたくしがお手伝いしようといたしましたら、邪険にされたのでございますのよ」
レムの意味の分からない口調には、突っ込む気力も失せはてるというものだが。
「当たり前でしょ! って、帰ってきたのなら、そういってくれればいいのに!」
「ですから、すぐに出かけるのですよ」
「いまから姫様を案内するの?」
「はい。ですから、皆様に申し上げたのですよ」
想像もつかない事態に、さすがのファリアも面食らってしまった。