第五十八話 王都発、敵国行――狼煙を上げよと彼女は言った――
夜空の大半を覆うのは、分厚い雲の群れだった。それはやがて雨を降らせ、この大地を塗り潰していくに違いない。闇夜においては偉大な光明たる月も星も、強大な勢力を誇る雲の支配下に置かれ、姿を隠してしまっていた。
闇は深く、風は冷たい。
風の勢いこそ弱くなってきてはいるものの、それも一時的なものかもしれず、雨とともに吹き荒ぶ可能性も十分に考えられた。
アザークの都市ワーラムから北東へと伸びるワール街道からかなり離れた場所だった。だだっ広い平原を見渡すことはかなわないが、馬車の周辺の地形が大きく変わっていることは認識できた。
ランカインの手斧の力が、地中から大小様々な岩石を噴出させたからだ。そして、それらのうちいくつかの岩に松明が突き立てられ、まるでなんらかの儀式の最中のような光景が展開されていた。
真ん中の岩に腰掛けているラクサスに向かって、大の男たちが平身低頭の限りを尽くしているのがまた、儀式的な雰囲気に拍車をかけていた。礼拝しているのか、説教でも聞いているのか。
実際は野盗の頭とその二十人以上の手下どもが、ラクサスに全身全霊で謝罪しているに過ぎない。
要するに命乞いである。
「みっともないったらないなあ。俺はあんな大人にならないとたったいま心に誓ったぞ」
「ええっ?」
セツナは、突然右隣から沸いてきた声に驚いて、間の抜けた顔になった。見ると、ついさっき殺しにかかってきた男が、平然とした様子で隣に突っ立っていた。
周囲に乱立する松明の炎のおかげで、男の姿がよく見える。やはり若い。もちろんセツナよりも年上だろうが、少なくともほかの野盗たちよりはかなり若く見えた。見た目だけということはないだろう。声にも張りがあり、なにより言動が軽い。すべての若者が軽いということもないだろうが。黒髪黒目。革の衣服の上から外套を纏い、腰にはブロード・ソードを吊るしている。
「そこまで驚かなくてもいいだろう? 命のやり取りをした仲じゃないか」
「命をやり取りした仲ぁ!? そんな関係聞いたことねえよ!」
「はっはっは。細かいことは気にするな」
「……気にしてくれよ」
男の調子についていけず、セツナは脱力した。言葉を交わすだけで疲れるような相手と出会ったのは、この世界では初めてかもしれない。彼は、そんなことを思いながらラクサスに視線を戻した。岩石と松明の炎が織り成す幻想的な光景の中心。
セツナは、その中心からは離れた場所にいた。一度ラクサスに駆け寄ろうとしたものの、野盗たちがラクサスの前に集まってきたため、やむなく成り行きを見守ることにしたのだ。自分の背よりも高い岩石に背を預けて。
野盗のほとんどが、ラクサスの前に集まっていた。その場にいないのは、最初に馬車を覗き込み、ランカインに踏み台にされた男と、セツナに話しかけてきた男だけである。気絶中の男はともかく、ブロード・ソードの男は、一緒に平伏しなくていいのだろうか。
セツナが一瞥すると、彼は、こちらの意を察したのだろう。言い訳するでもなく、平然と言ってきた。
「俺はいいよ。遠慮しとく。惨めだし、格好悪いし、なにより柄じゃないし」
(そういう問題か?)
セツナは疑問に思ったが、口には出さなかった。野盗の仲間内の問題だ。どうでもいいことに違いなかったし、なにより、男に話しかけたくなかった。
手の痺れが、わずかに残っていた。青年の斬撃を弾き返した際の衝撃が、痺れとなって疼いているのだ。それは意識的な行動ではなかった。無意識といっていい。だとすれば、これまでの戦闘の経験が彼の命を護ったのかもしれない。
矛を召喚し、その力を振るったのは、たったの五回だけだ。皇魔との戦闘が三度。ランカインと戦い、そして、初陣。それらの戦いの経験が彼を生かしたのだとしたら、それは、経験という糧がセツナの中で血肉となって息づいている証拠ではないのか。
(だと、いいけど……)
彼は、胸中で嘆息するようにつぶやいた。願望に過ぎない。歴戦の勇士からすれば取るに足らないほどの経験だろう。そんなものが、素人と玄人の差を埋める決定的なものにはならないことも承知している。そして、自分に圧倒的に足りないものも理解している。
(心・技・体……全部、足りないんだ)
無論、黒き矛を手にすれば、それらの不足分を補って余りあるほどの力を発揮できるのだ。それは、彼のこれまでの戦いの結果が示している。何十という皇魔も、何百という死兵も、敵にはならなかった。
(でも、それじゃあ駄目なんだ)
セツナは、頭を振った。なにをそれだけ考えようと、自分の頭では明確な答えが見出せそうになかった。この場には相談するような相手もいない。ラクサスならば話を聞いてくれるかも知らないが、いまは無理だった。
ラクサスは、風に揺れる数多の灯火の真ん中で、野盗の頭の口上に耳を傾けていた。それもかなりの長時間に渡って、だ。野盗がなにを話しているのか、セツナの位置からは少し聞き取り辛い。なにやら身の上話でもしているのか、足に縋りつくようにして言上する男に、ラクサスは、一々うなずいたりしてやっていた。その姿は、聖人君子を絵に書いたようだった。
そんなラクサスの背後では、ランカインがつまらなそうにあくびをしており、それだけがその名画の汚点だった。
「さてさて。どうなるのかねえ」
「殺しはしないさ」
「んなもん、わかるもんか!」
突然声を張り上げてきた男に対して、セツナは冷たいまなざしを向けた。男は、憤懣やるかたないといった表情でこちらを睨んできていた。が、その声音や表情の割りに眼光は柔らかく、心の底から怒っているわけではないと知れた。当然だろう。
セツナは、冷ややかに目を細めた。
「俺の真似かよ」
「似てるだろ」
「似てねーよ」
「嘘だろ!?」
愕然とする男についていけず、セツナは、またしても脱力した。全身から抜けていく力を押し留めることができない。ここまでくると脱力させた隙を狙っているのではないかと疑うほどだったが、男にそんな素振りはなかった。そして、こんな男と命のやり取りをしてしまった自分に気恥ずかしさすら覚える。こんな適当な男に命の危機を感じてしまったのだ。その事実が、彼の自尊心をひどく傷つけていた。
だからといって、隣に立つ男を無視することも出来ない。なぜかはわからないが、黙殺は負けを認めるも同然のような気がした。ちょっとした対抗意識の芽生えに気づきながらも、セツナにはそれをどうすることもできない。
自分の感情ほどままならないものもなかった。
「あんた、本当に軽いな」
「ふふふ。雲のように軽い男リューグとは俺のことだ」
「わけがわからん」
「君の名前はなにかね?」
「知りたいのか?」
「こうして宿命の好敵手と知り合えたのだ。名を知らずには居られまい!」
びしっとこちらを指差しした姿勢のまま断言してきたリューグに対し、セツナはそっぽを向いた。一瞬にして、対抗意識を持つことすら馬鹿馬鹿しくなったのだ。彼と張り合うだけ時間の無駄であろう。そんな簡単な事実にすら気づかなかった自分に腹が立つ。
「……なんかもういいや」
「すまん。教えてください。お願いします。一生のお願いなんです」
「……ニーウェ。ニーウェ=ディアブラス」
名乗ったのは、リューグがラクサスに対する野盗の頭の態度ように足に縋りついてきそうな勢いだったからだ。女性ならともかく、男に縋りつかれたくはない。
「記憶した。ウェディだな」
「どんな略し方だ」
セツナは、彼の相手にするのも疲れていたが、投げやりながらも突っ込んでおいた。
そうこうするうちに、ラクサスと野盗の頭の直談判は終わったようだった。ラクサスの手を硬く握り締めた大男が、何度も何度も頭を下げている姿が印象的だった。それを惨めだとは思わない。心ですべてを失うよりは、恥を忍んで生きながらえるほうが余程良いとセツナは思っていた。
死ねば、すべてを失うのだ。
セツナは、自分の手を見下ろした。この手でどれだけの命を奪ったのか。ただの一度戦場に立っただけで、数え切れないほどの人間を手にかけている。この先、ひとの死をどれくらい積み重ねていくのだろう。
軽い眩暈が、セツナを襲った。
「ニーウェ」
「……」
「ニーウェ! こっちに来てくれ!」
「は、はい!」
セツナがラクサスに呼ばれて即座に反応できなかったのは、偽名で呼ばれたことだけが原因ではなかった。わずかばかりの思索が、彼の心を重くしていた。結果、反応が鈍くなり、ラクサスの声も耳に届かなかった。やれやれ。だれかが呆れたように首を左右に振った。リューグだろうか。
セツナは、すぐさまラクサスの元に駆け寄った。平伏から解放された野盗どもが、ラクサスの周囲で口々にしゃべっている。ほっと胸を撫で下ろしているのだろう。こちらとしては最初から殺す気もなかったとはいえ、彼らにしてみれば殺されるかどうかの瀬戸際だったのだ。安堵のあまり泣き出す男がいたとしても不思議ではなかった。
ラクサスの元に辿り着くと、セツナは、野盗の頭を紹介された。
「彼はダグネ。アザーク北部を根城にしている野盗集団《銅の鍵》の頭領だ。そしてこちらはニーウェ=ディアブラス。俺――わたしの部下だ」
「これはこれは、ニーウェの旦那。どうぞお見知りおきを」
ダグネは、セツナに対してさえ媚びへつらうように手を揉み、愛想笑いを浮かべてきたものの、刃物によるものであろう傷痕がいくつもある厳めしい顔が、そういった態度のすべてを台無しにしていた。渾身の愛想笑いが、全力の威嚇に感じられるというのは、一種の才能なのかもしれない。もちろん、そんな才能はだれも欲しないだろうが。
年齢は、四十代の半ばくらいだろうか。大男である。ごつい体が着込んだ筋肉という鎧の上から贅肉の衣を纏っており、その上から簡素な鎧を身につけているようだった。その巨体から考えれば、膂力だけならば、セツナは当然としてラクサスやランカインよりもありそうに思えた。野盗の集団を束ねる男だけあって、その眼にはただならぬものが宿っている。
セツナは、どういう表情で反応すればいいのかわからず、曖昧に応対するしかなかった。
「ど、どうも」
「それから、彼ら《銅の鍵》はわたしたちと行動をともにすることになった」
「え……?」
セツナが驚きつつラクサスを見ると、冗談を言っている様子もなかった。そもそも、ラクサスが冗談を言うなど想像もつかないことだ。生真面目な、騎士というイメージ通りの人格者というのが、セツナの印象だった。そして、それは今のところ外れてはいない。
つまり、本気なのだ。
セツナには、ただの野盗の集まりの癖に、《銅の鍵》などと恥ずかしげもなく名乗る不埒な連中にどのような利用価値があるのかわからなかったが。
「ダグネの話によると、つい最近、ログナー国境付近の軍による検問所が大幅に強化されたらしい。鼠一匹通さないほどの体制だそうだ。このまま街道を進んでいく以上、検問所を避けることは出来ないし、いまさら別の道を模索している場合でもない。そこで彼らの力を借りることにした」
「あっしらはここらで手に入れた商品をレコンダールで売りさばくっていうちんけな商売をしているもんで、ログナーの方々とは仲良くさせてもらわなきゃ、この時勢やっていけないでしょ?」
ダグネは妙にへりくだった口調ではあったものの、彼の言っていることはどう考えても犯罪行為そのものであり、それに関してなんの後ろめたさも感じていない口振りは、セツナに強い嫌悪感を抱かせるに至った。どんな理由があれ、街道を行く人々を襲い、荷駄を強奪するなど許されない。生きるためとはいえ、やっていいことと悪いことがあるはずだ。いやそもそも、生きるためというお題目を掲げれば、なにをしたって許されるというのか。
セツナは、心の中で強く頭を振った。
そんなことは断じてありえない。
生きるためだから仕方がなかった、という情けない言い訳してまで己の為したことを正当化するなど、彼には到底できなかった。そうやって割り切ることが楽なのは知っているつもりだ。むしろ割り切らなければならないのだろう。割り切れないからこそ、人一倍苦しみ、懊悩するのだ。
それはきっと、出口のない迷宮を堂々巡りしているだけだ。永久に答えなど見つからないのだろう。傷つき、疲れるだけかもしれない。
しかし、いまはそれでいいと想っていた。
いつか割り切れるようになったとしても、そのとき悩んだことは無駄にはならないはずだから。
「運が良かった。彼らのおかげでレコンダールまで直行できるだろう」
ラクサスが、ほっとしたように言った。野盗に襲われたことは不運に違いないが、それが幸運に転じるというのならそれもいいだろう。
セツナは、ダグネのような人間は受け入れられないものの、利用価値があることだけは認めることにした。彼らとこうして出遭わなければ、国境に直行し、検問所で引っかかっていたかもしれない。その場合、ラクサスはどうしたのだろうか。傭兵という言い分だけで通行許可が下りたのか、どうか。
「でも本当に行くんですかい? そりゃあいま行けば、傭兵の働き口なんていくらでも見つかるとは思いますが、あまり薦められたもんじゃあありませんぜ」
「おまえの話を聞いて、より行く気になったのだがな」
「ええっ!? あっしの所為ですかい?」
ダグネの大袈裟すぎる驚きっぷりに、セツナは、苛立ちを隠せなかった。弱いものにはふんぞり返るくせに、自分より強い相手には媚びへつらい、常に顔色を窺ってご機嫌取りを欠かさない――そんな人間が大嫌いだった。まるで、昔の自分を見ているようだからに違いなく、その事実を認めて、彼は苦い顔になった。もちろん、ふたりからは顔を背けている。
「おまえの話がなくても行く予定だったのだ。今更止めるつもりはない。帰る場所もないしな」
「い、いやあ……あれだけの力があるなら、どこにでも働き口は見つかりそうなもんですがね」
口調こそ慇懃で態度も今までと変わらなかったが、その眼に鈍い光が過ぎったのをセツナは見逃さなかった。もっとも、だからどう、ということもないが。
「……そうだな。その気になれば仕官くらい容易いものさ。だが、仕官が目的ではないのでな」
「それじゃあ、なんのために傭兵なんて危ない仕事を?」
「戦うことでしか魂の充足を得られない、そんな人種もいるということだ。それがわかったら、さっさと人数を纏めろ。わたしは気が短いんだ。早くしないと――」
「へ、へえ! わかりやした!」
ラクサスのただならぬ口振りに、ダグネは、血相を変えて飛んでいった。直後、怒鳴り散らすような大声が聞こえてきたが、それは彼が手下どもを纏めるために発したものだとみて間違いない。
セツナは、野盗たちが慌しく動き回るのを横目で見ながら、ラクサスの耳に届くような声でつぶやいた。
「……めちゃくちゃ気長じゃないですか。あのひとの話、全部聞いてあげていましたし」
「あれはただの情報収集だよ。だが、聞いておいて正解だった」
「?」
「ログナーがどういう状況なのかわかったからな」
そういうと、ラクサスは馬車に向かって歩き出した。
セツナは、彼の後に続きながら周囲を見回した。ランカインを探したのだが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。勝手にこの場から離れ、どこかへ消え去ったということはないような気がした。確信はないが、そう想う。馬車の中にでも戻ったのかも知れない。
背後で野盗たちが騒いでいる。岩石に設置した松明や、そこら中に放り出していた武器を回収しているのだろう。まるで祭りの後のようだ、と想わないこともなかった。
セツナは、ラクサスに問いかけた。
「ログナーの状況ですか?」
「移動中に話そう。随分と面倒なことになっている。が、これを好機と考えることもできる。つまりは、そういうことだ」
なにがつまりなのかよくわからなかったが、セツナは、彼からの説明を待つことにした。
答えを焦っても仕方のないことだ。野盗たちが点呼を取る声を聞きながら、彼はラクサスとともに馬車に向かった。
「事が起こったのは、七月一日というから十日前になる。バルサー平原での戦いから二日後――ちょうど、君が意識を失っている間の出来事だな」
ラクサスが語り始めたのは、馬車が動きだしてからのことだ。
ランカインは案の定、馬車に乗り込んでいた。彼は荷物に寄りかかってより、身動ぎひとつしないところを見ると、眠りについたのかもしれなかった。
馬車の速度は、極めて遅い。野盗たちの歩調に合わせているからに他ならない。彼らはこの近くに根城を構えているらしく、全員分の馬を用意しているわけでも、集団で移動するための手段を持っているわけでもないというのだ。彼らの馬は、獲物を狩場まで追い立てるための最低限の数だけしかない。そのため、国境を越え、目的地に辿り着くまでは徒歩で移動するものがほとんどだった。
彼らの体力のことを考えると、馬車の速度を上げることはできなかった。
ラクサスが話を続けるため、口を開いた。
「アスタル=ラナディース将軍が、謀叛を起こした」
「……!」
セツナは、驚愕のあまり声すら出なかった。