第五百八十八話 震える世界(後)
降りしきる雨の中を行軍する軍勢が見える。
西の都市から出発した軍勢であり、一糸乱れぬ行軍は、指揮官の統率力の高さに由来するものなのか、日頃の訓練によるものなのか。おそらく両方なのだろう。目前に控えた戦いの厳しさを予期しているのか、指揮官の目も、兵士ひとりひとりの顔つきも鋭く、刃のように研ぎ澄まされていた。まるで抜身の剣のような鋭さが、進軍する軍隊を覆っていた。
目指すは、東南。
雨に濡れた平原を抜けた先に聳える丘の上には、堅牢な要塞があった。その要塞に立てこもっているのは、おそらくは軍勢の敵対組織なのだろう。要塞にはためく軍旗は、行軍中の軍勢の旗と似ているのだが、色が違った。軍勢の旗は白く、要塞の旗は赤かった。赤と白。対照的な色彩は、吹き荒ぶ雨風の中でもよくわかった。
白旗の軍隊が丘に近づくと、要塞のほうで動きがあった。白旗の軍勢が迫っていることを察知していたのだろう。要塞の城壁から矢が放たれた。豪雨に混じって降り注ぐ無数の矢が、白き旗の軍勢に襲いかかる。しかし、白き旗の軍勢は、矢の雨にも怯むこともなく、要塞に迫った。視界は悪い。が、迫り来る無数の敵を射るには、狙い撃つ必要はない。ただ、敵集団に向かって射掛けるだけで当たるはずだった。風雨は、要塞に篭もる軍勢を味方している。
しかし、矢は白旗の軍勢の足止めにもならなかった。兵士を射抜くこともなければ、傷つけることもできないのだ。
白旗の軍勢に目を向ければ、赤旗の兵が放った矢の尽くが、兵士に当たった瞬間、わけもなく跳ね返り、地に落ちていく瞬間を垣間見ることができるだろう。まるで大いなる意志に守護されているかのような現象が起きている。
要塞側に動揺が走る。
白旗の軍勢に起きている異変を理解したのだ。
傭兵団《白き盾》が、白旗の軍勢と行動をともにしているということを、把握したのだ。
大いなる守護の力が、白旗の軍勢に勝利を約束している。
白旗の軍勢のだれもかれもが無敵の盾の恩恵を実感し、勝利を確信したようだった。
勝利への確信が、白旗の軍勢を勢いづけた。
要塞から放たれる数多の矢は、その勢いも虚しく、雨風の中に弾けて消えた。
そのときになって、ようやく、丘を駆け登る軍勢の中に《白き盾》の傭兵たちを見出すことができた。ふたりの武装召喚師と、ひとりの異能者、天使が選んだ騎士。
そして、黒髪に青い目の少年。
「クオン……カミヤ」
名をつぶやいた瞬間、少年が、天を振り仰いだ気がしたが、きっと気のせいだろう。
隔絶された地の声が届くことなど、ありはしないのだ。
しかし、だからといって悲しんだりはしないのが彼だった。ようやく、クオンの姿を見ることができたのだ。それで十分だと、彼は思った。思うとともに、眼を閉じる。
戦いの成り行きや結果には興味も持てなかった。まず間違いなく、《白き盾》が助勢した軍勢が勝利を得るだろう。無敵の傭兵団が力を貸しているのだ。負けるはずもない。
目を、開く。
視界に映るのは、真理の間の風景だ。白一色の、それこそ殺風景極まる空間には、紫の衣を纏う老人がひとり、彼の前方で傅いていた。紫は、至高神ヴァシュタラの色彩であり、ヴァシュタリア教会が聖なる色として認定している。そして、老人の身に纏う紫の衣は、ヴァシュタリアにおいてただ一人しか身に付けることの許されないという代物だった。
老人の名は、エクスメリア=レインライン。ヴァシュタリア教会最高権力者、すなわち教主であり、エクスメリア三世とも呼ばれている。エクスメリアの名を受け継いだ三人目という程度の意味にすぎないが、エクスメリアという名の教会における重要性を考えれば、彼がこのヴァシュタリアにおいてどれほどの影響力を持っているのか理解できようというものだ。
彼は、教主の理知的な顔を眺めながら、宙に浮いていた意識を現実に引き戻す努力をしなければならなかった。全神経を集中させ、冷静に、この世界を再度認識する。でなければ、彼は自分を見失ったまま、虚空をさまよい続けることになる。現実への回帰を失敗したがためにただの肉の塊に成り果てるなど、考えたくもなかった。
彼には、やらなければならないことがある。
そのためには、現実を認識し続けなければならない。夢の世界の住人になってはならないのだ。
ゆっくりと空気を吸い込み、空っぽの肺に凍てついた空気を満たしていく。死人同然だった肉体に生気が巡り出し、彼の肉体が熱を帯びた。血が巡り、命が動く。現実が、彼の肉体に重力を感じさせた。
老人が顔を上げた。彼の気配を察知したのかもしれないし、偶然かもしれない。どちらにせよ、老教主の力強い眼差しは、彼の意識にさらなる現実感をもたらした。
「随分、待たせてしまったようですね」
口を開くと、声が思った以上に出てしまった。教主が耳を塞ごうとしたほどだ。余程の大音声は、直前まで彼の意識が現実から乖離していた証明にほかならない。自分の声の大きさを考えもせずに音声を発すれば、そうもなろう。
「失礼。うるさかったでしょう」
「いえ」
彼は笑ったが、教主は顔色一つ変えなかった。怜悧な顔つきは、聖職者としての矜持を感じさせる。神に仕えるとは人間性を捨て去ることだ、とはヴァシュタリアの教義の一節だが、それを体現しているのが教主なのかもしれない。
「……それで、ヴァーラ様。主はなんと仰られておいでなのでしょう?」
「主?」
ヴァーラと呼ばれた少年は、小首を傾げた。教主がなにをいっているのか、一瞬、理解できなかったのだ。
「主の御言葉を伝えるために、わたしを呼んだのではなかったのですか?」
「……そう、そうでした。主の御言葉を伝えるため、でしたね」
彼は、苦笑して、軽く頭を振った。教主を呼びつけた理由を忘却しかけていた。伝えなければならないことがある。神の言葉だ。この大陸の多くの人々が神と崇める存在の言葉だ。伝え、急がせなければならない。大陸の存亡がかかっていると行っても過言ではなかった。
彼は、破滅的な災禍を視た。
大陸を襲う未曾有の惨禍を幻視した。大陸が千々に割け、数多の人間、数多の皇魔が死んでいく絶望的な光景を見たのだ。それがワーグラーン大陸の辿る運命だというのならば、なんとしてでも防がなければならない。
(早くあなたに逢わなければ)
ヴァーラの脳裏には、暴風雨の中を駆ける自分と同じ姿の少年が浮かんでいた。
「約束の地を探しだすのです」
彼が告げたのは、神の言葉だ。今日に至るまで、何度となく告げてきた言葉だ。いままでと何一つ変わらない。しかし、ヴァーラの中で、なにかが変わり始めている。
彼を取り巻く状況は何一つ変わっていない。彼は相変わらず神の奴隷であり、神と人間の間を取り持つだけの存在にすぎない。聖域は閉ざされたままであり、外界との連絡手段などあろうはずもなかった。籠の中の鳥は、空の広ささえ知らないままだ。
だが、彼は、知ってしまった。
(クオン。我が愛しき半身よ)
自分と同じ存在を、その眼で見てしまった。神の眼で認識してしまった。認識してしまった以上、意識せざるを得ない。
同じ魂の色をした人間など、本来ならば存在するはずがないのだから。
降りしきる豪雨が、戦いで流れた血を洗い落としていく。
血は流れたが、クオンたちは一切負傷することなく勝利を得た。ケーベル要塞を巡る攻防は、長引くかと思われていたが、《白き盾》が参戦したことで極めてあっさりと終わった。呆気無いほどの勝利に、指揮を振るっていた将軍が頭を振ったのが記憶に新しい。
要塞に籠もっていた敵軍が、《白き盾》の参戦を理解して、早々に要塞を放棄したからだ。籠城さえしなかったのは諦めがいいからなのか、根性がないからなのか。援軍を待つという選択肢もあったはずだが。
敵兵ひとり残っていない要塞の中で、彼は、呆然としていた。シールドオブメサイアを使う必要がなかったかといえばそうではないが、なんにしても、いままで経験した戦いの中でも呆気なさでは上位に入るくらいの戦いだったのは間違いない。
「呆気無いものだな」
イリスが剣を鞘に収めながらつぶやいた。彼女は、まともに剣を振るう機会がなかったことに対して怒っているかのようだ。隣でブラックファントムを送還していたウォルドが、にやりとする。
「こりゃあ、《白き盾》に恐れをなしたな」
「浮かれるほどのもじゃございませんけど」
「緒戦ですからね」
マナとグラハムは、それぞれ雨水を吸った髪を吹きながらいった。
戦闘が終わったばかりだというのに、だれひとりとして呼吸を乱していなかった。普通ならば、さすがは歴戦の猛者といったところだが、今回ばかりは相手の不甲斐なさによるところが大きい。
クオンは、そんなことを考えながら、窓の外に降り注ぐ雨と、鉛色の空を眺めている。
声を聞いた気がした、
クオンの名を呼ぶ声。
以前聞いた声とは、別の声だった。
妙に気になったのは、その声が、自分の声そのものだったことだ。
幻聴だったのかもしれない。