第五百八十七話 震える世界(前)
「小国家群が騒がしい、という話は聞いているかい? なんでも、小国家群が成立して以来、最大規模の戦いが起きるらしい」
馴染み深い男の声が、ニーナ・ラアス=エンシエルの意識をわずかばかりに覚醒させたのは、彼の言動に多少の興味を抱いたからに他ならない。
政務を終え、つぎの仕事までの時間を持て余していた彼女は、政務室の椅子に腰掛けたまま、いまにも夢の世界に入ろうとしていたのだが。
扉を叩きもせず室内に足を踏み入れてきた相手を見て、眠気がさらに遠のくのを感じた。イエルカイム=カーラヴィーア。帝国領では少数派ともいえる黄金色の髪と碧玉のような目の男だ。日頃研究室に籠もっているせいなのか、血色の悪い男で、その表情にも覇気がなかった。しかし、だからといって彼の価値が損なわれることなどありうるはずもなく、ニーナは、彼の言葉に反応した。
「聞いてはいる。が、我が第七方面軍には、なんら関係のないことだ」
「いまのところは……」
「まるで、いつかは関係するような物言いだな、イエルカイム。いいたいことがあるのなら、申してみよ。話し相手にならばなってやっても良いぞ」
彼女は、嘆息とともに肩を竦めた。
「どうせ、手持ち無沙汰だ」
長めの前髪が視界に揺れる。そろそろ切るべきかもしれない、などと思わないではない。彼女は、自分の好みで髪型を変えたことはなく、故に、髪が伸び放題に伸びることが往々にしてあった。どれだけ髪が伸びてもニーナ様に似合わないはずがない、とは、部下たちの言葉だが、ただのご機嫌取りに心が揺れるはずもない。
すると、イエルカイムが、その青白い顔にことさらに卑屈な表情を浮かべてきた。
「帝国第七方面軍総督ニーナ・ラアス=エンシエル様が、わたしのようなものの話し相手になってくださるとは、歓迎の至りにござりますな」
「……くだらん。先ほどとは違うではないか」
「気に入りませんか」
「貴様には似合わん」
ニーナは、イエルカイム=カーラヴィーアの露骨な態度も、結局はいつも通りのやりとりなのだということを自覚してはいた。それでも、そのようにへりくだった言葉を用いる彼と雑談を交わすのも面倒だった。普通でいいのだ。ここは帝都ではない。身分の別を弁える必要こそあっても、そこにすべてを縛られることはない。
特に、ここが彼女の領地であるエンシエルならばなおさらだ。
エンシエルは、ザイオン帝国領北西部の都市だ。アルスールやマドウェールなどの都市とともに、帝国第七方面軍の管轄下にあり、第七方面軍の総督たるニーナが支配下に置く地域のひとつといってもよかった。
「……こほん。では、中央の情勢についてはご存知ですな」
「ああ、聞いている限りのことは知っている。ザルワーンが倒れ、ガンディアという国が勢いづいているらしいな」
ニーナたちが大陸小国家群の情勢についてある程度詳しいのは、第七方面軍の存在理由のひとつが、大陸小国家群の動静の監視にあるからだ。
エンシエルは、ザイオン帝国領北西の都市だ。第七方面軍の管轄地域は、エンシエル周辺の複数の都市から、帝国と大陸小国家群の境界線にまで及ぶ。第七方面軍の管轄地域に隣接した小国家群の国々といえば、ハースリット、マシュカ、セドキアなどであるが、どれもこれも、第七方面軍だけで事足りる程度の戦力しか有していない、まさに弱小国家中の弱小国家といえた。
戦えば帝国側の勝利は疑いようがない。火を見るより明らか、というのはこのことをいうのだろうが、帝国は、国土の維持に全力を尽くすことを国是としており、大陸小国家群に野心の舌を伸ばすようなことはなかった。
だからこそ、ザイオン帝国皇女にして第七方面軍総督ともあろうものが、暇を持て余しているのだ。
「ガンディア以外にも、ベノアガルド、ウィンスコット、エトセア、そしてクルセルクといった国々がいま、勢いを増しているところだとか」
「それで?」
「まさに群雄割拠の戦国乱世。血沸き肉踊るとはこの事!」
「ふむ?」
ニーナは、小首を傾げた。イエルカイムの発言が要領を得ない。彼らしくないことだ。もしかすると、なにも考えずに発言したのかもしれない。イエルカイムが室内を歩き回りながら話題を転じたことで、彼女の考えが的中していたことを裏付ける。
「そういえば、弟君がまた勝利されたとか」
イエルカイムが政務室の壁にかけられた肖像画の前で立ち止まるのを見て、彼女はいつものようにため息をついた。
「……ただの演習に勝利も敗北もあるものか。皆、甘やかし過ぎなのだ」
第七方面軍恒例の演習大会の結果は、第七方面軍総督であるニーナの耳にも当然届いている。年の離れた実弟が大活躍の末、彼の部隊が最大の戦果を上げたということなのだが、闘爵の爵位を授けられ、祭り上げられている以上、当然の成果としか思えないのが実情だった。
それにも関わらず、彼の周りのものも、彼女の周りのものも、彼を褒めそやし、必要以上に持て囃している。皇子なのだ。褒め称えられるのも仕事の一環なのかもしれないが。
「はは……まあ、いいじゃないか。演習以外、特にすることがないんだ。演習の成果を競い合うのも悪くはないさ」
「……そんなことをしている暇があったら、皇魔の殲滅に精を出すべきだな」
ニーナは、机の上に広げていた地図に視線を落とした。最近、第七方面軍の管轄地域内で皇魔の活動が活発化しているという報告がある。
皇魔は、帝国領土内であっても、取り除くことのできない病巣のように存在し、各地で様々な事件を起こしていたのだが、ここ数十年、その活動は沈静化の一途を辿っていた。このまま皇魔という存在が帝国の歴史から消え去るのではないか、と思っていたのもつかの間、ここ最近になって活動を再開、都市部への攻撃行動も確認されており、帝国領内は、皇魔への警戒と対策に追われていたりもした。
皇魔は、巣を作り、繁殖するという。帝国が全力を注げば、領土中の皇魔の巣を暴き出し、殲滅することも不可能ではないはずなのだが。
「進言しようにも、我々には帝都は遠すぎる」
そして、進言したとしても、帝国を支配するものに臣民の声が届くことなどあり得ない。熟慮するの一言で終わりだろう。あるいは、財政の悪化を理由に拒絶されるかもしれない。
帝国は、仮初の栄華を演出するために、常に財政に逼迫しているといっても過言ではなかった。
「わかっている。第七方面軍総督など、ただの閑職に過ぎないこともな」
彼女が嘆息すると、イエルカイムは肩を竦めた。彼もわかっているのだが、ニーナの発言に同意することなどできるはずもないのだろう。彼には彼の立場というものがある。彼は、帝都からニーナの監視を任じられてもいるのだ。
元よりニーナの幼馴染であり、皇女の従侍として育てられたイエルカイムだったが、長じて武装召喚術に魅入られ、術の研究にのめり込んでいった。従侍の役割を放棄した彼は、その罪で投獄されたのだが、すぐに出獄している。経緯を見る限り、帝都と取引を行ったと考えるのが妥当だろう。至極どうでもいいことだが。
ニーナにしてみれば、彼が自分の監視を行っていようといまいと、自分の人生には関係がないと思っている。第七方面軍総督という退屈極まりない役職を与えられた事実を前にすれば、イエルカイムが帝都の諜者であることなど、些細な事だ。
「仕方がないさ。帝国はこれ以上の国土を必要としないほどの栄華の中にある。ヴァシュタリアやディールが均衡を破壊しないというのなら、帝国みずから動く必要もない」
「わかっている。これ以上支配地を広げても、綻びが大きくなるだけだということもな。現状でさえ、どこもかしこも綻びだらけだというのに。いままでの皇帝が大陸統一などを掲げたりしなくてよかったと、心の底から想っているよ」
始皇帝が大陸統一を掲げず、代々の皇帝がその野心を持たなかったのは、ひとつには大陸統一を成し遂げた人物がどうなったのかを歴史で学んでいるからだろう。聖王ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンは、大陸のみならず、言語の統一という大事業を成し遂げたのち、栄華を極める前に叛乱にあって滅び去った。
始皇帝ハインは、聖皇の後継者という意味でレイグナスを名乗ったものの、聖皇の成し遂げたことをなぞろうとはしなかった。ハイン・レイグナス=ザイオンがなしたことといえば、帝国の礎を築いたに留まっている。それでも、始皇帝ハインの遺志は、現在の皇帝、つまりニーナの父親であるところのシウェルハイン・レイグナス=ザイオンにも受け継がれているのは間違いなかった。
大陸統一などという無謀な夢を見てはならない。
(無謀な夢……か)
帝国は夢を見ず、領土の維持だけを続けてきた。
帝国の支配者もまた、始皇帝ハインの遺志を尊重しているのか、ヴァシュタリアやディール、大陸小国家群との小競り合いさえ禁じていた。
数百年、三大勢力と大陸小国家群といういびつな構造が続いているのは、極めて奇妙なことだ。
「閣下!」
不意に政務室の扉が開け放たれたかと思うと、壮年の侍従が飛び込んできた。整った顎鬚が特徴的な、いかにも武人然とした男であり、実際武術を嗜んでいる。
「なんだ?」
非礼を問わなかったのは、危急の報せだろうと踏んだからだ。そうでなければ、そのときに叱ればいい。
「闘爵様が参られました!」
「なっ!?」
ニーナは、頭の中が真っ白になるという感覚を久々に味わった。闘爵、つまり弟がきたということだ。予定にはなかったし、予定があったのなら、イエルカイムと話し込んでいる暇などなかっただろう。逢うとわかっていれば、入念に準備をしたのだから。
「なんだと!? 聞いていないぞ!?」
「それが……」
「あれー、教えちゃったのかー。せっかく姉上を驚かせようって思ったのに」
ニーナは、その少年の姿を一目見て、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。自分とそっくりの艶やかな黒髪に、血のように紅い目を持った少年。黒髪に紅い目は、始皇帝ハインの子孫であることの証明でもあるが、彼の場合、特に赤が深く、美しかった。十七歳にして闘爵を賜ったのは、彼がそれだけ戦いに長じているということでもある。
どこか悪戯っぽい表情の少年は、いつもよりも簡素な格好だったが、だからこそニーナには、彼が弟としてここを訪れたのだということがわかる。公務ではない。ということは、なにをしてもいいということではないか。短絡的な結論は、彼女を突き動かすのに十分な理屈になった。
「ニーウェ!」
「お久しぶりです、姉上。壮健そうでなにより……わっ」
彼が声を上げたのは、ニーナが抱きしめたからにほかならない。抱きすくめた少年の名は、ニーウェ・ラアス=アルスール。ザイオン帝国の皇子のひとりであり、皇女ニーナの同腹の弟である。そして、第七方面軍に所属し、闘爵という帝国の矛の役割を持つ爵位を授けられた人物でもあった。
「ああ、ニーウェ。相変わらず可愛らしい……」
「……あー……甘やかし過ぎとかなんとかいってなかったか?」
イエルカイムがなにかいっていたようだが、ニーウェを抱き締めることに没頭しているニーナにはなにも届かなかった。