第五百八十六話 人間
戦況は、悪化の一途を辿っている。
戦端が開かれたのは、一ヶ月ほど前のことだ。
ノックス、ニウェール、リジウル、ハスカの四カ国は、反魔王連合軍を結成、クルセルクの魔王ユベルに対抗するという決意を、小国家群に宣言するとともに、魔王の脅威を世界中に知らしめんとした。
魔王がいかに恐ろしい存在であるかということを周知徹底することこそ、この戦いの第一義であったのだから、そういう意味では成功したともいえる。だが、戦局を振り返る限り、成功などとはいいようがない。
たしかに、クルセルクの脅威を世間に示すことはできただろう。しかし、その過程で魔王軍に一矢報いることさえできないまま、ふたつの国が潰えてしまった。ニウェールとノックスの二国が、立て続けに敗れ去ったのだ。
(無残なものだ)
バラン=ディアランは、報告書を机の上に投げ出して、吐き捨てるようにいった。
(無様な)
報告書には、ノックスとクルセルクの戦いが、克明に記されていた。克明といっても、伝聞と何ら変わりのないものだ。ニウェールを壊滅させた三万に及ぶ多種多様な皇魔の群れが、ノックスの領土に雪崩れ込み、各所を制圧、あっという間にノックスの首都ノールエンドまでも飲み混んでいったという、風のうわさと同程度のことしか記されていなかった。
敵は、皇魔だ。
人間よりも遥かに狂人な肉体を人智を超えた力を持つ化け物の軍勢なのだ。
しかも、魔王軍は、各地の皇魔を糾合し、その勢力を爆発的な速度で増大させているという。ニウェールとの戦いが始まった頃には一万程度だった軍勢が、ノックスとの戦いが終わる頃には四倍近くまで膨れ上がっている。
もちろん、反魔王連合側も、ただ殺されてきたわけではない。抗い、戦い、殺し、打ちのめしてきたのだ。何千の兵が何百の皇魔を殺してきたのだ。
(だが、わかっていたことでもある)
無様で無残な戦いを選択したのは、反魔王連合に賛同した四カ国の王であり、兵である。国民もまた、皇魔に屈するのを良しとはしなかったし、どのような絶望的な状況に陥ったとしても、皇魔の国に下ることを望みはしないだろう。皇魔の跋扈する国の住人になるということは、地の獄に幽閉されるも同じことだ。
だれもが、そのように認識している。
クルセルクの実情はそうではない、というものもいる。クルセルクを支配するのは人間であり、皇魔は軍事力として使役されているだけだ、と。
だが、だれもそのような甘言には騙されなかったし、心を揺り動かされるようなことはなかった。たとえそれが事実であったとしても、皇魔とともに生活することなど、だれが認められよう。あの化け物どもと同じ空間で生きていけるはずがない。人外異形の怪物たち。人間を見れば殺意をむき出しにする、人類の天敵。滅ぼすべき敵に過ぎない。
滅ぼさなければ、滅ぼされるだけなのだ。
『我々は人間だ。人間として生き、人間として死ぬのだ』
反魔王連合軍結成の場において、四カ国の王の共同声明が読み上げられた。そのとき、その場にいただれもが、魂の叫びを上げ、賛同を示した。
バラン=ディアランもそのひとりだ。
たとえ滅びの運命を免れることができないとしても、戦い抜くことに意義がある。犬死にかもしれない。いや、犬死に以外のなにものでもないことはわかっている。わかっているが、だからどうだというのか。
「死は、等価だ。栄光の中で死のうとも、病を得て死のうとも、戦場で死のうとも、寿命を全うして死のうとも、全て同じことだ。死に違いはない」
「閣下……」
彼は、独り言を言ったつもりだったが、室内にいた部下のひとりが反応した。親と子以上の歳の差がある部下の反応は、死という現実に直面した恐怖によるものでも、バランの独り言が奇異に思えたからでもなさそうだった。彼は、自分の人生がなんだったのか、とでも考えているのかもしれない。
それくらいのことは許されるだろう。
破滅のときは近い。
「我らは死ぬだろう。一人残らずな。そして、その死に意味などない。意味など求めるな。ただ、死ぬべくして死ぬだけのことだ」
バランは、その部下だけでなく、室内に集まっていた将官たちひとりひとりの顔をみた。だれもが絶望的な戦場を目前にしているということを認識している、そんな面構えだった。
「魔王に挑んだのだ。挑むことで、脅威を伝えることができた」
「閣下の故郷……ガンディアが、クルセルクと戦う意志を示されたとか」
「……ガンディアか」
バラン=ディアランは、部下の言葉を反芻したことで、何年ぶりかにその国名を言葉にした。
「長らく考えないようにしてきた。考えれば、わたしの決断が間違えだったと認めることになるからだが、いまならばそれを認めることもできる。わたしは見誤ったのだ。ガンディアという国の在り方を、レオンガンドという男の本質を」
バラン=ディアランがガンディアの将軍として権勢を振るっていた当時、レオンガンド・レウス=ガンディアは、“うつけ”として知られていた。王宮に姿を見せること自体少なかった王子は、ガンディアに滅びをもたらすものとして、バランの目には映っていた。英傑の誉れ高き王シウスクラウドが病に倒れ、ガンディアの将来が暗雲に包まれていたこともあったのだろうし、多くの物事が、レオンガンドが暗愚であることを証明してもいた。
バランは、レオンガンドを見限り、ガンディアから離れた。
流浪の果て、彼はこのハスカに自分の死に場所を見出した。小さな国だ。当時のガンディアとくらべても半分ほどの領土しか持たない国だったが、国王に情熱があり、若き王子にも、国を良くしていこうという気概があった。国そのものが若かったのだ。年老いたガンディアにはない若々しさが、彼には輝いて見えたのだろう。
それは、いい。
ハスカでの約十年は、彼に多くのものをもたらした。妻を得、子を成した。この年で子を持つことができるとは、思ってもいなかったことだ。家庭を持ち、彼はますます励んだ。ハスカの軍事力を強化し、ガンディア程度ならば対等以上に戦えるだけの自負も持てた。
だが、ガンディアは、いつの間にか、小国家群に並ぶもののないほどの大国になっていた。
バルサー要塞を奪われたという話を聞いたのは、今年のはじめだったか。シウスクラウド王の逝去の直後のことだ。喪に服していたがための失態は、ガンディアの終わりの始まりだと、バランは受け取った。シウスクラウドの死の報には、彼も泣き崩れ、しばらくなにも考えられなくなったものだが、それとこれとはわけが違う。
若き日、英雄と憧れた男の死と、決別した国の有り様を同列に並べることはできない。
ガンディアはそのままログナーに飲まれ、ザルワーンの属国と成り果てるものだとばかり思っていた。そう結論づけたのは、バランだけではあるまい。近隣の国々の多くが、バルサー要塞の陥落にガンディアの末路を垣間見たはずだ。難攻不落の要塞が抜かれたのだ。
敗北は必至。
しかし、現実はどうだ。
ガンディアは、バルサー要塞を奪還すると、瞬く間にログナーを平定し、ザルワーンさえも凌駕してしまった。一昔前には考えられないようなことが起きている。いや、どんな状況にあっても、ガンディアがザルワーンを制圧するなど、想像するだけ虚しいことだった。シウスクラウドが病を得ず、壮健であったとしても、ログナーはともかく、ザルワーンとまともに戦うことなどできただろうか。
レオンガンドが、シウスクラウドにないものを持っていた。
(それだけのことだろう)
レオンガンドに英雄性を見出だせなかったのは、バラン=ディアランに見る目がなかったということにほかならない。
「彼は“うつけ”を演じていたのやもしれぬ。が、いまさらどうでもいいことだ。それに、ガンディアがクルセルクに牙を剥いたのだとしても、我らには関係がない。我らの死は、目前に迫っているのだからな」
ニウェール、ノックスと立て続けに攻め滅ぼしたクルセルクの軍勢は、軍を二つに分けている。リジウルとハスカを同時に攻略する腹づもりらしく、リジウルでは既に戦いが始まっているということだった。ハスカもじきに戦闘に入るだろう。
バランがハスカ北部の都市マーレルに拠点を据えたのは、魔王軍の侵攻に対して、即座に反応できるようにするためだった。
「だが、ただでは死なぬ。意地を見せよ。ハスカの戦士の意地を見せよ。誇りを。矜持を。ただ死ぬな。戦って、死ね。敵の群れの中で、敵を殺しながら死ね。死ぬならば、ひとりでも多くの敵を殺せ。一体でも多くの皇魔を殺せ」
バランは、部下たちの目に炎が灯るのを見た。死地を目の前にしてこの昂ぶりようは、ガンディアの腑抜けには真似のできないものだろう。
「我らはハスカの戦士なれば」
『我らはハスカの戦士なれば!』
将校たちが復唱する声が、ハスカ軍作戦本部に響き渡ったのは、十二月十二日のことだ。
旧ニウェール領に展開したクルセルク軍がハスカへの侵攻を開始するのは、しばらく先の事になるのだが、バランたちには知る由もなかった。