第五百八十三話 獅子と将軍
「将軍……まさかそなたまで、わたしがレオンガンド陛下の信頼を裏切り、ガンディアに敵対行動を取ると考えているのではあるまいな?」
幼さを多分に残したイシウス・レイ=ミオンの表情が曇り、険しいものになったのは、今回の事件が彼にとっても寝耳に水の出来事だったという現れなのだろう。そして、イシウスが怒りに手を震わせているのは、現在、ガンディオンの王宮内で流れる噂が、ミオンの不誠実を詰るものであり、ミオンが今回の事件の首謀者であるかのようなものであったからにほかならない。
「陛下がそのようなことをなさらぬお方であるということは、このギルバート=ハーディが一番良く存じ上げております。しかし、根も葉もない噂ではないということもまた、事実なのです」
ギルバートは、イシウスのわずかに血走った目を見つめながら、いった。イシウスは、婚儀の日以来、まとまった睡眠を取ることもできずにいた。時間はあった。しかし、状況が彼に安眠を許さないのだ。
ミオンに、不信の目が向けられている。
「わたしの預かり知らぬところで、ミオンがガンディアを裏切ったというのか」
「陛下……ミオンの現状を顧みてください」
「マルスがしたというのか? 馬鹿げたことを」
イシウスは、持ち前の聡明さで、ギルバートのいわんとしていることを瞬時に理解したようだった。ギルバートの言を一蹴したということは、そういうことだ。
「ですが、宰相マルス=バール殿以外にミオンを動かすことなどできますまい」
噂とは、ミオンがクルセルクと共謀し、レオンガンドとナージュの婚儀に参加した各国王族の命を奪おうとしたのではないか、というものだ。そこまではいかずとも、クルセルクからの贈り物である皇魔の入った箱は、ミオン方面からこのガンディオンに届けられたという話もあり、そちらは噂というよりは事実に近いらしく、その事実に尾鰭がついて、ミオン陰謀説が出回り始めたようだった。
噂は、宮殿内に留まらず王都中に広まっているらしく、加速度的にミオンへの不信感が高まっているという話も、ギルバートの耳に届いている。
ギルバート自身、自分に向けられる不信の目には辟易していた。ガンディアの戦いに何度となく参戦してきたものに対する仕打ちではないと思う一方で、皇魔を王宮に放つという事件の重大性を考えると、そういう反応になるのも致し方のないことだとも思ったものだ。だが、見に覚えのないことでそのような対応をされると、気分のいいものではないのも事実だった。
そして、ギルバートがそのような目に遭っているのも、ミオンに不審の目が向けられているのも、すべてはミオン国内に残ったままのマルス=バールが原因だと、彼は考えている。イシウスの与り知らぬところで国を動かす事が出来る人物など、ミオンにはマルス=バールを除いてほかにはいないのだ。彼だけが、ミオンを動かすことができる。ミオンの政治も軍事も、マルス=バールの思い通りなのだ。
それもこれも、イシウスが王座についた経緯に原因がある。マルスは、先の王が倒れると、イシウスを担ぎだして王位継承を巡る紛争を起こし、ガンディアの後援を得て、イシウスに王位を継承させたのだ。マルスが行動を起こさなければイシウスが王位を継ぐことはなかっただろうし、今日まで生きてこれたかも定かではない。
イシウスの兄であり、当時の第一王位継承者であったシウス・レウス=ミオンとその側近たちは、イシウス派の存在を危ぶみ、イシウスを暗殺しようと企んでいた節があるのだ。出所不明の噂ではあるが、シウスの矯激な性格を考えると、あり得ない話ではなかった。
「ミオンがクルセルクに協力するなど……ありえぬことだ。あってはならぬ……。それはマルスもわかっているはずだ。皇魔を使役する国と取引するなど、悪魔と契約を結ぶに等しい所業ではないか」
イシウスの声が震えていたのは、本当にマルス=バールがガンディアを裏切り、クルセルクと繋がっていた場合のことまでかんがえたからかもしれない。いや、マルスが裏切ったのはガンディアだけではない。同盟国のルシオンやその他の国々のみならず、イシウスをも裏切ったことになるのではないか。
その事実が、イシウスの声音を震わせたのかもしれない。
「国へ戻ろう。マルスに問い質さねばなるまい」
「宰相殿が素直に答えてくれるものかどうか」
「マルスがわたしに嘘をついたことがあるか?」
「それは……」
「マルスはわたしを王にするといって、それを実現した男だ。ミオンの財政を改善するといって成し遂げた男だ。ミオンが上手くいっているのは、マルスが政をしているからだ。マルスがすることに間違いがあるとは思えない」
イシウスが幾分落ち着いた声でいった。自分の心に言い聞かせているようでもあったが。
「理由があるのだ。きっと。それを問い質し、間違っていれば、正そうではないか。それがミオンの王たるわたしの仕事であろう」
「は」
「そのためにも、陛下の許しを貰わねばな」
(それが問題だな)
レオンガンドが、イシウスの帰国を許すとは限らない。もちろん、主君でもないレオンガンドにイシウスの行動を拒む権利などないのだが、情勢を考えれば、ガンディア側が強硬な手段を取らないとはいいきれないのだ。イシウスがミオンに戻れば、それっきり国境を閉ざしてしまうかもしれない。ガンディアとの国交を断ち切り、クルセルクに走るかもしれない。そうなれば、ミオンとクルセルクの間にある国々が、ミオンの行動に追随し、クルセルクに靡いてしまいかねない。
「陛下、どうかいまはゆっくりお休みください。レオンガンド陛下には、わたくしから話を通しておきますので」
ギルバート=ハーディは、イシウスが憔悴しているのを認めて、席を立った。彼がいたのは、イシウスに貸し与えられた部屋であり、他国の王を招くだけあって贅を尽くされた部屋だった。ギルバートの部屋も豪華なものだが、比べるべくもなかった。王と将軍では扱いが違うのは、当然であろう。
「すまぬな……将軍」
「謝られまするな。いまは眠ることだけをお考えくださりますよう……」
「……わかった。そうさせてもらおう」
イシウスは、疲れを見せないようにだろう、つとめて明るい口調でいってきた。ギルバートは、我が主の心遣いに胸中で涙しながら、深々と頭を下げ、部屋を出た。イシウスはまだ十代前半の少年に過ぎない。自分が暗殺されるかもしれなかったとはいえ、実の兄を討たなければならないという過酷な運命を乗り越えた彼は、王としてどうあるべきか、常日頃から考えているようだった。
そんなイシウスの目標は、レオンガンドである。
レオンガンド・レイ=ガンディアのような男になる、と心に決めていた。
それもこれも、マルス=バールがガンディアの後援を取り付けてからというもの、イシウスの元に度々届けられるレオンガンドの手紙が原因らしかった。イシウスは、手紙の中のレオンガンドに自分のあるべき姿を見出し、レオンガンドこそ目標にするべきなのだ、と周囲に漏らした。レオンガンドが“うつけ”と蔑まれていた頃だ。マルス=バールは苦い顔をしたが、ギルバートは、イシウスの確かな人物眼に舌を巻く思いがした。
直接あったこともない相手の本質を見抜くなど、中々できることではない。
「もちろん、わかっている。将軍や、イシウス陛下がこの件に関与していないことは百も承知だ。イシウス陛下がわたしと敵対するなど、考えたこともない。将軍と刃を交えることもな」
(重みが増した……か)
ギルバートは、レオンガンドの威厳に満ちた声に身が竦む想いがした。レオンガンドを前にして、これほどまでの緊張感を味わったことはなかった。
獅子王宮謁見の間。
玉座には隻眼の獅子王レオンガンド・レイ=ガンディアがあり、その隣には軍師ナーレス=ラグナホルンの姿があった。ガンディア躍進の立役者と呼ばれる三人のうちのふたりが、ギルバートとの会見のためだけに時間を割いてくれている。その事実が、ギルバートに必要以上の緊迫感を与えているのかもしれない。
「だが、件の品がミオン国境からガンディア領土に運び込まれてきたという事実を否定することはできないのだ」
「噂ではなく、事実なのです。閣下」
「事実……」
ギルバートは、レオンガンドとナーレスの言葉に呼吸を止めた。レオンガンドとナーレスが事実として認識している以上、その情報を覆すには、別の真実を突きつけるしかないのだが、ガンディアに滞在しているギルバートたちにそんなことはできるはずもなかったし、そのための帰国なのだ。
「事実である以上、真相を究明しなければなるまい。わたしとて、同盟国であるミオンを疑いたくはないのだ」
「ミオンとガンディアは古くからの付き合いであり、その絆は、ルシオンにも負けず劣らず強固なもの。とくにイシウス陛下がミオンを率いられるようになられてからは、両国間の交流も盛んになりました。この関係を壊したくはない……陛下も、そう思っておられます」
「……しかし、わたしの想いを妨げるものが、ミオンにいるのではな」
はっと、顔を上げた。レオンガンドの右眼が、射抜くようにギルバートを見ていた。湖面のように碧く澄んだ目は、鋭く、強烈な光を発している。敵意も悪意もない。ただ、強烈なのだ。
「マルス=バール」
レオンガンドは、不意に宰相の名を呼び捨てた。そして、冷然と続けてくる。
「もっとも疑わしいのは彼だ。が、彼はガンディアとの同盟関係にもっとも尽力してくれた人物でもある。そして、ミオンを立て直した功労者だ。将軍がイシウス陛下とともにミオンに戻るというのならば、彼の身の潔白を証明して欲しい」
レオンガンドの言い様にギルバートは、表情を消した。問う。
「……できなければ?」
「マルス=バールの首を差し出せばよい。それでミオンへの不信感も拭い去ることができよう」
レオンガンドがいったことは、ミオンへの命令といってもよかった。ガンディアが強大化したということが、彼の言動の背景となっているのは間違いない。そして、その威力には、ミオンの一将軍など、ただただ平伏するしかないのだ。
「はっ……」
ギルバートは、謁見の間を出るまで、生きた心地がしなかった。
レオンガンドの目は、彼の魂を射抜くかのようだったからだ。