第五百八十話 闇と翼
闇の底へ。
ただ、底へ。
落ちても、落ちても、落ちても、落ちても、闇は深すぎて、底に辿り着く気配がない。
それでも落ち続けている。
翼がない以上、落ち続けるよりほかはないのだ。
いや、翼はあったはずだ。
彼は振り返り、自分の背から生えている一対の翼を確認した。
(あった……!)
彼は、歓喜とともに翼を広げ、羽ばたかせた。闇を叩き、風を巻き起こして、上天を目指す。が、風は起こらなかった。翼が思い通りに動かなかったのだ。羽が抜け落ちていくのが見えた。無数の羽が翼から散っていく。それだけではない。翼が黒く変色し、それとともに朽ち果てていくのが見えている。腐敗を止めることはできない。ただただ、全身が焼かれるような痛みが意識を苛み、彼を絶望の淵へと叩き落とす。
(どうして……!)
叫ぼうにも、声が出なかった。腐敗は翼から背中、背中から皮膚下へ、内臓へと至り、喉元までも灼いている。痛みの熱量は圧倒的で、彼は苦悶の中でのたうち回ることもできない状況に、絶望するしかない。
落下は、止まらない。
悪い夢だ。
彼は理解している。これはすべてただの悪夢で、実際にはなにも起きていないことも知っている。だからといって、この夢の痛みを無視することはできない。現実問題として、痛みを感じているのだ。実感している以上、それは夢ではなく、現実以外のなにものでもない。
この痛みを伴う闇への落下がなにを意味するのか、彼にはわからなかった。苦痛は際限なく体を蝕み、全身をことごとく破壊するかのように暴れ回る。救いを求めた。だが、声がでなければ、どうしようもない。諦めが脳裏を過る。
諦めてしまえば、楽になれるのだろうか。
闇の向こう、なにかが見えた。
『兄のようにはいかぬか』
遠い、遠い記憶が蘇る。懐かしくも、苦い記憶。
父とふたりきりでの訓練。剣の稽古。木剣を振るう音。手に伝わる衝撃。重み。飛び散る汗。床の色。遠い天井。いくつもの情報が、あの日の光景を作り出していく。
『すみません……父上』
床に這いつくばりながら、彼はいつものように謝ることから始めた。兄のようにはなれない。それは、物心ついた時には彼の魂に刻印された呪いのようなものだった。彼の兄はなんでもできたのだ。剣も上手ければ、槍も巧みであり、弓の腕も一級品だった。もちろん、年上の兄のほうが上達しているのは当然なのだが、彼と兄の場合は、どうやら年齢差だけの問題ではないようなのだ。
才能の有無に起因しているらしい。
『なにも謝ることではない。ひとには得手不得手というものがある。兄には剣の才能があり、おまえには別の才能がある。ただそれだけのことだ』
『ぼくの才能……』
彼が顔を上げると、父がいつものように穏やかな表情でこちらを見ていた。その場に屈み込み、できるだけ目線を合わせようとするのは、父が王子のお守りをしているときからの癖だった。既に総白髪だったが、まだまだ若いものには負けないという気迫が、父の全身から溢れていた。そんな父の力になりたくて、彼は懸命に努力した。毎日、稽古と鍛錬をかかさなかった。それでも、一向に上達しなかった。
才能の有無。
自分には、才能がない。
それなのに、父は彼を見放さなかった。
『いまはまだ見えずとも、いずれ見えるときがくる。わかるときがくる。自分の才能、自分の役割、自分の使命。そのときまで、前に進み続けることを諦めなければ、の話だが……』
『諦めない……諦めてはいけない……』
『そういうことだ。ルウファ。おまえはバルガザール家の人間である以前に、ひとりの人間なのだ。人間の生き方を決めるのは、己自身だ。家や国ではない。おまえは、おまえの生きたいように生きてみせよ』
父は、激励のつもりだったのだろうが。
『家のことは、わたしとラクサスに任せておけばよい』
その一言が、きっかけといってもよかったのかもしれない。
父の何気ない言葉。おそらくアルガザードの本意は、ルウファが感じたものとはまるで違うものなのだろう。ルウファをバルガザール家の重責から解き放とうという一心だったのかもしれない。しかし、ルウファはそうは受け取らなかった。受け取れなかったというべきか。
今度こそ、見放されたのではないか。
兄のように才能があるわけでも、特別身体能力が高いわけでもなかった。体が丈夫というわけもなく、体格も優れているわけではない。褒められるようなものがなにもないのだ。そんな人間に期待をかけられるはずがない。
見放されて、見捨てられて当然なのではないか。
「そして、おまえはわたしを召喚した」
落ち続ける闇の中で、それは、歌うようにいってきた。朗々たる声だ。闇の中で無限に反響するかのようだった。
(……毎回毎回、くだらない幻想を見せるもんだな)
胸中で悪態をついたときには、全身を灼いていた痛みは消え失せていた。自由落下中なのは変わらない。が、痛みがなくなれば、絶望も消え失せるものらしく、楽観的な気分にもなるものらしい。ここが夢だということが確定されたことも大きい。
夢と現の狭間でなければ、それが声をかけてくることなどないのだ。
「いや、召喚するための道を探しだしたのか」
上天から冷酷な声を投げかけてくるそれは、彼がシルフィードフェザーと名づけた召喚武装の意思だった。
冷徹極まりない声と、絶望的な夢。
シルフィードフェザーに対して良い感情を抱けないのは、それが原因なのかもしれない。
「わたしという翼を得てからも長い間迷走していたようだが……」
(余計なお世話だ)
相変わらず声は出ないが、構わずルウファは胸中で叫んだ。相手に伝わることはわかりきっている。相手は、召喚武装は、召喚者の心を覗くことができるようなのだ。魂の契約を結んでいるのだから、必然なのかもしれない。魂と魂が繋がっているから、召喚者の心を読むことができる。逆もまた、然りだった。
ルウファが風の音に苛まれていたのは、シルフィードフェザーの心理状態が影響していたに違いない。
「違う。あれはおまえの問題だ」
(俺の……?)
「おまえの苦しみが、わたしにとっての苦痛だったのだよ」
(はは……冗談だろ)
シルフィードフェザーの紡いだ言葉は、にわかには信じがたかった。シルフィードフェザーはこれまでもこのような意味のない悪夢を見せては、ルウファに苦痛を与えてきたのではないのか。
「わたしはおまえを主と認め、召喚に応じたのだぞ? 主が苦しんでいるのを喜ぶものがいるものか」
(信じられないな……)
「だからわたしはおまえが嫌いだ」
まるで子供のような言い分に、ルウファは苦笑するしかなかった。だから、ルウファに悪夢を見せてきたというのだろうか。あまりに動機が幼稚すぎて、馬鹿馬鹿しくなる。
(俺もおまえが嫌いだったよ)
ルウファがシルフィードフェザーに本音をぶつけたのは、これが初めての事だった。シルフィードフェザーの反応がわからないのが残念なところではあるが、仕方がない。ここはシルフィードフェザーの世界なのだ。なにもかも、シルフィードフェザーの思い通りだった。
(でも、そうだな。いまならわかる。俺はおまえがいなければなにもできないままだった。飛ぶこともできず、腐り続けていたんだろう)
師に出会い、術を学び、体を鍛え、ようやく巡り会えたのがシルフィードフェザーだった。それまでもいくつかの術式を試し、さまざまな召喚武装を使ってみたが、どれもしっくりこなかったのだ。シルフィードフェザーだけは違った。最初に召喚した時から、ルウファの体に馴染んだ。思い通りに動いた。思う通りに戦えた。シルフィードフェザーだけが、彼の期待に答えてくれたのだ。
(翼を得て、俺は自由になれた。自分を見つけることができた。自分の居場所を。大切な人たちを。おまえのおかげさ、なにもかも)
シルフィードフェザーがあったからこそ、ルウファはいまの自分に辿りつけたのだ。ガンディアの王宮召喚師にして、王立親衛隊《獅子の尾》副長ルウファ・ゼノン=バルガザールという人間になれたのだ。
諦めなくてよかった。
彼は、心からそう思っている。父の言うとおりだった。諦めずに前に進み続けてきたからこそ、武装召喚術に出会えたのであり、シルフィードフェザーを見出すことができたのだ。そして、セツナという、彼にとっての運命の少年と知り合うことができたのも、諦めることなく前進し続けてきたからではないのか。
「ようやく理解したのか……遅すぎるぞ」
天から振ってきたのは、拗ねたような声だった。
シルフィードフェザーは、本当に幼いのかもしれない。
(悪かったよ……いままでありがとう。そして、これからも頼む)
「……ふん。いわれなくても」
そんな言葉とともに、浮遊感がルウファの意識を包み込む。夢が終わる予兆だ。シルフィードフェザーがこの幻想を終わらせようとしているのだ。必ずしも悪夢とは言い切れない夢が、音もなく消えていく。現実が迫ってきている。
闇が開けたと思ったら、エミル=リジルの顔があった。心配そうな表情の彼女は、どうやらルウファの寝顔を覗きこんでいたようだった。
「随分うなされていた様子ですが、だいじょうぶですか? なにか嫌な夢でも見たんですか?」
「ん……ああ、だいじょうぶ。なんでもないよ」
ルウファは、適当な言葉でお茶を濁すと、夜の光に照らされたエミルの顔をじっと見つめた。意識はまだ半覚醒状態で、自分がいまどういう状況なのか判然としない。全身汗だくなのは理解できるし、その理由がさっき見た夢だということも理解できる。それだけわかっていれば上出来なのかもしれないと思うのだが。
「あの……わたしの顔になにかついてます?」
「いいや。ただ、眺めていたいと思っただけさ」
ルウファが本音をいうと、彼女は恥ずかしそうに顔を背けた。その反応があまりに可憐すぎて、ルウファは自分がまだ夢を見ているのではないかと思ったほどだった。
(実際、夢のようだよ)
だれから見ても夢のような生活を送っているのは間違いなかった。
『なんですってえええええええええ!?』
不意に隊舎全体を震撼させるような声が聞こえてきて、ふたりは顔を見合わせた。こんな真夜中にこれほどの大声を発する人間などひとりしか考えられないし、その原因もひとつしか思いつかなかった。
「……ミリュウさん?」
「また、隊長がらみかな……」
ルウファは、寝ぼけ眼をこすりながら、運命の少年のことを考えた。いや、その少年に振りかかる運命の苛酷さを思い、同情したのだが。