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第五十七話 王都発、敵国行――間抜けな幽鬼と戯れを――

 夕闇が迫っていた。

 セツナたちがワーラムに到着した当初中天に輝いていた太陽は、今や西に大きく傾き、空の彼方を赤々と燃え上がらせていた。晴れ渡っていた空には分厚い雲が流れ始めており、今夜中にも頭上を覆い尽くすのではないかと想われた。風が強い。

 セツナは馬車に乗っている。二頭立ての幌馬車であり、昨夜皇魔によって破損した幌は、ワーラム滞在中に補修していた。ワーラムでは、幌の補修のついでに次の目的地に着くまでの間の食料を買いこんでいる。

 馬を急き立てても、国境を越え、目的地に到着するまでは二日はかかるだろうというのがラクサスの意見であり、ランカインや御者もそれに同意していた。

 乗り心地は、決して悪くはない。が、格別に良いというものでもない。自動車などと比べるべくもなかった。もっとも、馬に全力疾走を命じているわけではない。現在セツナが体感している振動は、極めて穏やかなものだった。

 ワーラムから北東へと伸びるワール街道は、緩やかな曲線を描きながら大地を走り、やがてアザークとログナーの国境へと至る。国境付近には、ふたつの山が聳えており、街道はその間を抜けるようにしてログナー国内へと通じていた。ふたつの山のうち、クラム山はアザーク、ログナー、ガンディア三国の領土に跨るように存在しており、さながら大地に穿たれた楔のようであるという。

 目下、セツナを乗せた幌馬車は、その山の麓へと向かっている。

(ここにひとつの問題がある……)

 セツナは、強張った表情で自分の直面した予期せぬ事態と相対していた。いや、冷静に考えれば、道理だった。彼がニーウェ=ディアブラスである以上、直面せざるを得ない問題だったのだ。

 つまりは、任務の間、なにがあっても黒き矛を召喚してはならない、ということである。

 昨夜の皇魔おうまとの戦いは良かった。ガンディア国内ということもあったし、なにより敵が人外の化け物である。黒き矛の使い手が王都を離れてどこかに向かっている、という情報が拡散される怖れはなかった。

 しかし、今セツナたちがいるのはガンディアではない。他国なのだ。ガンディアとアザークは休戦状態とはいえ、黒き矛の使い手を発見すれば、どのような事態に発展しないとも限らない。アザーク国内に広がるだけならまだしも、ログナーを含む周囲の国々に情報が伝播する可能性があった。

 それは、現在のガンディアにとってはぞっとしないことだという。先の戦いで大勝を飾った一因である武装召喚師がいない隙に、隣国から攻め寄せられれば溜まったものではないのだというのだ。無論、ガンディアとてセツナひとりを頼みにしているわけではない。実際、セツナが居ようが居まいがバルサー要塞を奪還するために軍を動かしていたのだろうし、その戦いも勝つ算段があったから起こしたに違いなかった。

 そう考えれば、セツナひとりいなくなったところで本来の戦力に戻るだけであり、その点では心配する必要はないはずなのだが。

「どうかな? カインの言っていた通り、ガンディアの兵は弱い。バルサー要塞も、君や同盟国の協力がなければ取り返せなかっただろう。事実、陥落してから半年もの間放置していたのだからな」

 ラクサスの嘆息は、セツナにはよくわからない。弱兵弱兵というが、それがどれほどのものなのか、実感として理解できないのだ。

 あの平原でセツナが見たものといえば、雲霞の如き敵兵であり、勇敢な傭兵たちであり、ルクス=ヴェインの剣技の冴えであり、ファリア=ベルファリアの弓の威力であり、そしてなにより黒き矛の持つ強大な力だった。

 その圧倒的な破壊の力の中心にあって、彼は、すべてのものが等しく見えた。

 塵に等しく。

(なに考えてんだ俺は……!)

 セツナは、かぶりを振った。塵に等しいのは己のくだらない考えのほうだろう。そう思い直すことで、胸中に溢れようとしたいくつもの感情を封殺した。

 あざやかな赤が西へと沈む中、大地を駆ける幌馬車の中は静かな闇に包まれている。ランカインは荷物に背を預けるようにしており、セツナと対峙するように座っているラクサスは、なにを気にする風でもなく目を閉じていた。薄い闇の中、できることなど限られている。

 それはセツナだって同じだった。

 この決して広くもない馬車の中で、俄かに訓練などできるはずがなかった。剣の素振りさえできないだろう。そして、剣を振り回したところで、なにがどうなるわけでもない。剣術が身につくこともなければ、戦いの勘が養われることもなかった。付け焼刃の剣術で実戦を戦い抜けるわけもない。

(矛とは勝手が違うんだよなあ)

 セツナは手元を見下ろした。彼の手には一振りの剣が握られていた。ショート・ソードと呼ばれる類の剣である。長さは七〇センチほどで、重さは一キロはあるだろうか。特に飾り気もない形状は、彼の趣味に合うものではあったが。

 彼は、その剣を、つい先ほどラクサスから手渡されたのだ。

 黒き矛の代わりとして、である。

(これにあれの代わりは勤まらんでしょう?)

 と、ラクサスに向かって叫びだしたい気持ちを抑えるのにも一苦労だった。

 並みの武装召喚師なら、軽く扱えるのだろう。この大陸の武装召喚師たちは、召喚術を学ぶ上で、肉体の鍛錬、戦闘技術の習得は必要不可欠であり、召喚師として認められる頃には、戦士として戦場に立っても人並み以上は働けるという。

 それに比べて、セツナの戦闘力などたかが知れている。彼の戦果は、すべて黒き矛のおかげであり、彼個人の能力とはほとんど無関係と言えた。戦場における動作のひとつひとつが、彼の意識を超えたところから出ていた。

 彼は、剣の柄を握り締めたまま、矛の柄に触れた瞬間の感覚を思い出した。急激に視野が拡がり、あらゆる感覚が膨張するイメージ。しかし、膨大化した感覚は緩慢になるでもなく、むしろ鋭敏に研ぎ澄まされていた。戦場のすべてを見渡せるような錯覚。兵士ひとりひとりの息吹が聞こえた気がした。

 すべては錯覚なのか。気のせいだったのか。

 だとしても、黒き矛を手にした瞬間、セツナは、身の内に在らざる力を発揮したのは事実だった。網膜に焼きついた数多の死が、それを証明している。戦いとは無縁の生活を送ってきた人間が、死を賭して立ち向かってくる何百もの男たちを相手に、平然と矛を振るえるはずがない。しかも、息ひとつ乱さず、その死兵のすべてを余す所なく殺すなど、並大抵の戦士の所業ではなかった。

 それはやはり、黒き矛の力なのだ。

 セツナの力など、まったくといっていいほど関与していないのだ。

(だけど、手を下したのは俺だ)

 静かに認める。それだけは否定してはならない気がした。逃げてはならない。みずからの手で数多の人間を殺したという事実を否定してはならない。

 剣の柄を握る手が、震える。

 この剣で、同様のことができるのかどうか。

 答えは、否、だろう。

 剣を自在に扱えるわけもなければ、真剣を振り回したこともないのだ。一キロほどはありそうな代物だ。振り回すには、それなりの膂力が必要なはずであり、セツナには圧倒的に足りないものだった。つまりは、黒き矛はセツナの足りない力をも補ってくれていたということに他ならない。

 その助けがなくなる。

 不安が、彼の胸の内に広がっていた。

「ひとつ……」

 そう言って馬車の中の沈黙を破ったのは、ランカインだった。移動中はほとんど口を開かない彼が俄かにつぶやいたことで、セツナは、怪訝な顔をそちらに向けた。

 夕闇は、深くなり始めている。

「ふたつ……」

 意味深げに数字を浮かべるランカインの様子は、よくわからない。闇の中だ。脚を伸ばしてくつろいでいるようにも見えるが、なにかを探っているようにも見えた。見えるといっても、男の輪郭くらいのものに過ぎない。

「みっつ……」

「なにがだ?」

 ラクサスが、問う。

 すると、ランカインがこちらに顔を傾けたようだった。彼の顔は、薄く笑っているようにセツナには感じられたが、きっと気のせいだろう。彼の表情までは見えなかった。

「聞こえませんか? 足音ですよ」

「足音?」

「馬が三頭。どうやら、この馬車に用事らしい」

 ランカインの台詞を聞き終えるなり、セツナは耳を澄ませた。セツナの鼓膜を震わせるのは、幌を叩く風の音であり、馬車を引く馬の蹄が大地を蹴る力強い響きであり、車輪が地面に轍を刻む音色だった。それにしたって微々たる音だ。

 セツナは、耳を澄ませながら、自分の耳の良さに呆れる思いがした。それでも、ランカインのいう三頭の馬の足音は聞き取れなかったが。

「どこだよ?」

 セツナは、ランカインを見遣ったが、彼はこちらの様子を嘲笑ったようだった。

「君とは耳の造りが違うのだよ、ニーウェ君。さて、どうします? 騎士殿」

「野盗か?」

 ラクサスの瞳が、闇の中できらめいたように見えた。対するランカインは、セツナへの対応とは打って変わって慇懃である。

「どうでしょう? ワーラムの自警団かもしれませんし、それとはまったく関係のない連中かもしれません」

「なんにせよ、馬が三頭だけというのは考えにくいな」

「どこかに人数を伏せているのかもしれませんな」

「とすれば、その三頭の目的はこの馬車を誘導することか」

「そう考えるのが妥当ですな。ニーウェ君、君の出来の悪い頭では少し難しいかもしれないが、話の内容は理解できたかい?」

 ランカインのひとを馬鹿にした口調には、セツナは怒り心頭だったが、状況が状況である。咄嗟にラクサスに問いかけることで、ランカインの存在さえも黙殺した。

「で、どうするんです?」

「馬を傷つけられるのだけは避けたい。なにか案はあるか?」

「無視すりゃいいんじゃないですか?」

 セツナには、それが最善の策かと想われた。野盗であろうとなんであろうと、向こうから手を出してこない間に馬車を飛ばして国境を越えてしまえばいい。さすがに国境を越えてまで追いかけてはこないだろう。

 しかし、彼の考えは、ランカインの嘲笑によって一蹴された。

「だから君は愚かなのだよ」

「なんだと!」

「今馬車を飛ばせば、相手を刺激しかねない。彼らが行動を起こして馬を傷つけられでもしたら、こちらの予定に狂いが生じるだろう? それに相手は馬だ。速度を上げても、一時的に距離を離すだけ。すぐに追いつかれるさ」

「そういうことだ。わかったかい? ニーウェ君」

「く……」

 セツナは、唇を噛むようにして口を閉ざした。ランカインの口振りは気に入らないが、だからといって反論できる立場にはなかった。彼の言う通りだった。浅はかな考えなど、安易に言葉にするべきではない。そんな当たり前のことを学べただけでも、よしとするべきなのか。

 不意に訪れた沈黙は、風や馬車が立てる音を夕闇の中で踊らせた。そして、ラクサスが口を開く。

「いっそ、彼らの誘いに乗るか」

「え?」

 ラクサスの出した意外な結論に、セツナは呆然となった。相手がどのような連中かわからないのに、その誘いに乗るというのか。セツナには理解できない判断だった。

「そのほうが馬は安全かもしれない」

「本気……ですか?」

「よし。それで行こう」

 セツナの問いは、ラクサスによって聞き流された。案外、ラクサスは頑固なのかもしれない、などと悠長に考える余裕がないこともわかってはいたが、それでも彼は叫び声を上げたい気分だった。

 ひとの話を聞いてくれ、と。

 ランカインのなぶるような笑い声が、セツナの耳に突き刺さる。

「ではでは、君の剣技に期待しようかね。ニーウェ=ディアブラス」

「期待しているよ?」

「ええーっ!?」

 セツナは、悲鳴を上げるしかなかった。




 馬車が国境を目指しているはずの進路を大きく逸らしたのは、後方から迫ってきた三頭の馬が原因だった。正確には、その乗り手たちである。彼らは、馬車と横並びになると、御者を威嚇したらしかった。武器でもちらつかせたのか、突きつけたのか。

 どちらにせよ、御者はラクサスとの打ち合わせ通り大仰に驚き、恐怖に顔を引き攣らせながら乗り手たちの誘導する方向に馬首を巡らせたのだろう。

 街道を外れ、平原をひた進んだ。

 セツナたちは、その間に装備を整えていた。セツナは軽装の鎧を着込み、武器を身に付けた。相手が野盗であれなんであれ、戦闘になるのだ。旅装のまま戦うのはあまりにも危険だった。もっとも、セツナは今までの皇魔との戦いにおいて鎧を纏ったことはなく、甲冑を着込んだのはバルサー平原での戦いにおいてのみだったが。

 ラクサスから渡された剣は、腰に帯びた剣帯に吊ってある。剣帯から伝わる剣の重量が、大いなる不安と緊張感を煽り立ててくるかのようだった。初陣とはまったく異なる緊張があった。理由はわかっている。剣を握ったことがないからだ。

 セツナの得物は、黒き矛だった。至極当然の話ではあるが、それ以外の武器を手にしたことなどなかった。そういう機会もない。そして、黒き矛を握ってこそ、彼は戦場を蹂躙するほどの力を発揮できた。漠たる不安も嫌な緊張も大して感じずに済んだのだ。

(だけど、やるしかない……!)

 セツナは、ぐっと拳を握り締めた。

 やがて、馬車が止まり、揺れが収まった。風の音は強くなる一方で、その雑音の中紡がれる召喚の呪文など、小鳥のさえずりほどにさえ聞こえなかった。ランカインである。彼の召喚は許されていた。むしろ、彼の召喚武装こそが主力なのだ。セツナが黒き矛を使えない以上、ランカインに張り切ってもらうしかない。

「さっさと荷物を降ろしてもらおうか?」

「ひっ……!」

「早くしねえと、てめえの首が飛ぶぞ!」

 乗り手のひとりが上げた威嚇するような大声は、しかし、セツナの心にはなにも響かなかった。凄んでいるのだろう。怖がらせようと精一杯声を作っているのだろう。実際、普通のひとならば、恐怖に引き攣って声も出ないのかもしれない。しかし、馬車の影の中、男の大声は虚しく響くだけだった。

 馬のいななきが聞こえる。馬たちは、生命の危機を感じたのかどうか。嘶きこそすれ、暴れだそうともしないあたり、これといって危険を感じてはいないのかもしれない。あるいは、御者のある種の落ち着き振りに気づいているのかもしれない。

 不意に、ランカインがつぶやいた。

「出てきたな」

 伏せていた人数のことだろう。乗り手たちが指定した場所だ。当然、馬車を囲むのだろう。御者への威圧もあるだろうし、もし他にも誰かが乗っていた場合のことも考えているに違いない。

 呪文の詠唱は終わったらしい。

「何人だ?」

「二十五人……大所帯だな」

「嬉しそうに言うなよ」

 セツナは、ランカインを睨みつけることさえ出来ず、ただうめいた。二十五人。伏せていた野盗(ラクサスたちがそう結論付けていた)の総数だろう。つまり、乗り手と合わせると二十八人にもなるのだ。想像以上の数に、セツナは、改めて不安を覚えた。

 たった三人で二十八人を相手に戦うなど、セツナには絶望的過ぎた。これまでの戦いはそれとは比較にならない人数なのだが、この場合、武器の違いが彼の心境に大きく影を落としていた。黒き矛を手にしていたのなら、なんとも思わなかったのかもしれない。むしろ率先して迎撃に当たっただろう。しかし、矛の召喚は許されず、代わりに与えられた武器は、使ったこともない代物だった。

「早くしろって言ってんだろ! 死にたいのか!」

「い、今すぐ降ろしますから……!」

 脅え切って今にも腰を抜かしそうな男の声が、幌馬車の横で聞こえた。御者の演技力は、冴え渡っていた。一見ひとの良さそうな(そして中身もひとの良い)中年の男性である。彼は日がな一日馬の世話をするのが好きらしく、バルガザール家で働くようになったのも、馬の世話が出来るからという理由らしい。

 名前はオリスン=バナックといった。彼ほど馬の扱いが巧みなものは、ガンディア中を探してもそういないだろうというのがラクサスの評価だった。

 たどたどしい足音が、馬車の後方に廻った。後部を閉じていた幌が、御者の手によってわずかに開かれる。彼の顔が覗いた。暗くてよく見えないが、どうやら恐怖に引き攣った表情のままらしかった。彼の背後に野盗がいるのが気配でわかった。

「さあて、久々のお宝は一体なにかなあ?」

 男の野太い声とともに、幌が大きく開かれた。声からして、馬の乗り手たちとは違う男だ。待ちきれなくなったのだろうし、そもそもオリスンひとりに運び出させる理由はない。野盗たちが力を合わせて運び出すほうが、引け越しの御者ひとりに任せるよりも時間はかからないだろう。

「どれどれ――」

 セツナたちが潜む馬車の内部を覗き見た男は、こちらを認識することさえもできなかった。

 真っ先に外へと飛び出したランカインが、足の爪先で男の頭頂部を踏み付け、どういう力加減か、その男の首を折ることなく夕闇の空へと飛翔したのだ。男は踏み付けられた衝撃で馬車の板敷きに顔面から激突し、そのまま声さえ上げなかった。気を失ったのだろう。声が響く。

「武装召喚」

 召喚の光とともにどよめきが起きた。まさか武装召喚師が中に乗っているとは、思っても見なかったに違いない。《大陸召喚師協会》などという組織が成立している以上、相当な数の武装召喚師が存在すると思われるが、かといってそれらの武装召喚師が、夜道を行く馬車の中に潜んでいるとは考えないだろう。

 続いて、ラクサスが飛び出し、セツナも後に続いた。ランカインに踏み付けられた男の頭上を飛び越えるようにして、外へと跳躍する。

 視界が広がった。閉塞した暗闇から、広大な夕闇へ。もはや陽は落ちていた。闇が天上の支配権を主張し、光は遥か地平の彼方へ追い遣られていた。星々が、わずかばかりの権力のほどを明らかにしようとしているが、闇の勢力の前には霞まざるを得ない。

 その暗い闇の中に煌々たる明かりが灯されていた。魔晶灯の光ではない。松明だろうか。闇を焦がすいくつもの炎は、さながら群れを成す鬼火のようであり、その周囲に浮かぶ野盗たちの顔は生者を求めさまよう幽鬼のように見えなくもなかった。武装召喚師の登場に驚愕する彼らの表情は、間抜け以外のなにものでもなかったが。

「おまえは馬の様子を見てやれ。彼らの気持ちがわかるのはおまえだけだ」

「はい」

 オリスンに向けられたラクサスの優しげな言葉を、セツナは上の空で聞いていた。彼の眼前には、三十人近くの男たちがいるのだ。それらと一戦交えるのだ。彼も剣を抜かなければならなかった。剣を振るい、敵を斬り倒さなければならない。

 それは、いい。

 この世界ではそうやって生きてきたのだ。敵と戦い、敵を倒し、敵を屠り、ここまできたのだ。今更それを否定するつもりもない。だが、物事には得手不得手というものがある。

 黒き矛ならば――。

「て、てめえらは一体なんなんだ?」

 上擦った男の大声が、泥流に飲まれかけたセツナの思考を一瞬にして浮上させた。ここは戦場。迷っている場合ではない。セツナは、手を剣の柄に触れさせた。慣れない柄の感触は、彼の意識をいつも以上に引き締めてくれた。

「それはこちらが伺いたいな。おまえたちはただの野盗か? それとも、だれかに雇われて俺たちを襲ったのか?」

 ラクサスの怜悧な声が、闇に響いた。彼の問いは、ほとんど意味を成さない。こちらは既に野盗だと決め付けており、その対処も決定済みだった。適当に戦い、制圧する。出来る限り殺さないということだ。それにはランカインが不服の声を上げたが、ラクサスは、彼らが利用できるかもしれないという可能性を示唆し、その上でランカインを宥めた。いずれ本当の戦場で思う存分暴れられる日も来るだろう、と。

 そのランカインは、竜の飾りのついた手斧を得物とし、ラクサスの左前方に立っていた。彼の無防備な立ち姿は、それだけで迫力があり、野盗への牽制となっているようだった。

 セツナは、ラクサスの右後方に立っている。剣は、まだ抜いていなかった。それはラクサスも同様だった。

 ラクサスの後姿は、威厳に満ちた騎士そのものだったが、格好はどこか傭兵染みていた。身に付けている鎧がそう感じさせるのか、ともかく、どこか野暮ったさを感じさせ、それが傭兵的な雰囲気を醸し出しているのかも知れなかった。

「はっ!」

 野盗のひとりが大声で笑った。ラクサスの問いかけによって冷静さを取り戻したのかもしれない。他の連中の様子を見る限りでは、その男だけが特別だったようではあるが。

「てめえらを襲うのに理由なんていらねえぜ! 野郎ども、やっちまいな!」

 男は、頭目だったのだろう。彼の号令とともに、馬車を包囲していた野盗どもが、一斉に怒鳴り声を上げた。全力でがなりたてられても、セツナは恐怖を微塵も感じなかった。本当の戦場のほうがもっと恐ろしかった。といって、その時感じた恐怖は黒き矛によって多分に濾過されたものであるには違いなく、そう考えると、矛を手にしなくとも怖れを感じないのはどういう理由があるのだろう。

 野盗どもの雄叫びが、耳を塞ぎたくなるくらいにやかましいだけのものだったから、というのが一番の理由なのかもしれない。

 ラクサスが、剣を抜いた。白刃が灯火を反射してきらめく。

「こちらは理性的な対応を求めたのだがな」

「説得力がないなあ?」

「君がそんな物騒なものを持ち出すからだ」

「くくく。殺戮許可を出したのはどこのどなたでしたかな?」

「知らんな」

 セツナは、前方で繰り広げられる馬鹿げた茶番よりも、先ほどの頭目の号令とともに動き出した野盗たちの行動に意識を向けていた。二十七人に及ぶ野盗集団のうち、ひとりは馬車で気絶しているとして、残りの大半はラクサスたちの前方に纏まっており、それらはふたりに任せてしまえばいい。無責任かもしれないが、セツナとしてはまともな判断をしたつもりだった。

 セツナが担当すべきは、右後方からこちらに向かって殺気をぶつけてくる連中なのだろうが、今のところ常勝無敗の黒き矛を手にしているならいざしらず、強力な召喚武装の助けがない以上、相手に出来たとしても精々ひとりくらいだろう。冷静に判断を下した結果である。

 松明の炎に照らされた幽鬼どもは、幽鬼というにはあまりにも体格が良く、健康そのものであり、しかしながら闇に浮かぶ男たちの顔は、幽鬼と形容するに相応しいような気がしないでもなかった。それらは、松明を掲げるものも含めて、それぞれに武装しているようだった。得物はひとそれぞれだが、一番人気はどうやら刃物であり、次いで鈍器の類が多く、長柄の武器は少なかった。

 どんな武器を手にしていようが、少なくともセツナよりはその扱いに長けていると見るべきだろう。膂力ももちろん、野盗どもの方が上に違いない。一対多数なら勝ち目はなく、一対一でさえ勝利の文字が霞んでいる。こちらは、素人同然なのだ。戦場の空気を吸ったことはある。何十もの皇魔を殺戮し、何百もの人間を斬り殺している。しかし、それらはすべて彼の独力ではなかった。

(いや……!)

 頭を振る。

 今更だ。今更、そんなことを考えても仕方がなかった。セツナは戦場の真っ只中にあった。野盗たちの目の前に突っ立っている。彼らが、セツナだけを見逃してくれるはずがなかった。

「さ、殺戮許可だとぉ!?」

「聞こえていたか」

「当然だろう? おまえたちのような悪党外道、殲滅したところで感謝されこそすれ、非難される謂れもない」

(てめえのことじゃねえか!)

 セツナは胸中で吐き捨てたが、もはやランカインを一瞥する余裕も残されていなかった。ラクサスたちと頭目のやり取りに意識を持っていかれるわけにも行かない。彼の視界に蠢く幽鬼どもは、獲物を前に舌なめずりをするでもなく、武器を構え、飛び掛かる機会を窺っているようだった。

 頭目の最初の号令から既に数十秒の時が刻まれている。それでも野盗の群れに動きが見られないのは、ランカインの存在が大きいのかもしれない。彼が武装召喚師だったという事実が、野盗たちを及び腰にしているのだろう。

 だが、ランカインが、野盗たちの都合に構っているはずがなかった。

「ひゃははははははははははは!」

 けたたましい哄笑とともに、ランカインの攻勢が始まったのだ。圧倒的な殺気が暴風のように吹き荒れ、戦場は一瞬にしてランカインの独壇場となった。彼の高笑いとともに繰り出された一撃とともに轟音が鳴り響き、大地が激しく揺れた。野盗どもが悲鳴や罵声を上げる中、セツナの視界の隅で地中から岩石が隆起するのが見えた。次々と隆起する岩石が、逃げ惑う野盗の群れを速やかに打ちのめしていく。

「……」

 セツナは、ランカインの手斧がもたらした惨状によって野盗集団が壊滅していくのを見遣りながら、自分の覚悟が馬鹿らしくなった。最初からそれをやるつもりだったのなら、いちいち煽るようなことは言わなくてもいいだろうとも思ったが、そこで煽るからこそランカインなのだろうとも考える。怒りが込み上げてくることはなかった。大地の揺れが納まっていくのを感じながら、嘆息を浮かべる。不意に。

「なに余所見してんだ?」

 凍て付いた刃のような男の囁きが、セツナの耳朶に触れた。声は背後――極至近距離からだった。背筋が凍る。

 冷ややかな声と、殺気。

「おまえの相手はここだぜ?」

「っ……!」

 セツナは、振り返り様、反射的に剣を抜いていた。目の前に火花が散り、金属音が鼓膜に突き刺さった。重い衝撃が柄を握る手に伝わる。武器がぶつかり合ったのだろう。全身の毛穴という毛穴から大量の汗が噴き出したのを実感する。間一髪だった。反応が少しでも遅れていたら、致命的な一撃を受けていたに違いなかった。そして辛くも反応できたのは、今までの戦闘で培われた経験の賜物だろう。

 相手は、眼前にいた。若い男だ。青年といっていい。野盗の集団の中にあって、だれよりも生気に溢れたまなざしをしてはいるが、ほかの連中と同様に野盗という言葉がよく似合う格好をしていた。手には刀身の幅が広い剣が握られている。ブロード・ソードという代物だろう。

 彼は、自嘲するように言ってきた。

「俺も甘いなあ。おまえが素人みたいに突っ立てるから、ちょっと躊躇してしまったよ」

 セツナは、彼の台詞が嘘ではないことを理解するとともに、自分の無防備さに愕然とした。彼がその気になれば、セツナが気づかない間に斬りつけてくることも可能だったのだ。セツナが反応できたのは、彼が声をかけてきたからに過ぎない。もし、彼がなにも言わずに斬りかかってきたとすれば、セツナには剣で受け止めることは愚か、避けることさえできなかっただろう。

 その場合、致命傷は避けられなかったに違いない。

 セツナは、鼓動が急速に高鳴るのを認めた。心音が聞こえていた。目の前の男のちょっとした躊躇いが、セツナをここに立ち尽くさせている。それでも、告げる。

「素人で悪かったな」

「素人……なのか?」

 男は、怪訝な表情になった。俄かには信じられないのだろう。しかし、セツナは、言い切った。

「ああそうだよ!」

「ふうん。ならなんで外に出てきた! 鎧まで着込んで! 素人なら素人らしく、馬車の中に隠れて脅えてりゃあいいんだよ! 俺たちはそんな奴らを殺したりはしねえ!」

「んなもん、わかるもんか!」

「……そりゃあそうだな。うむ。おまえの言う通りだ」

「そこは素直なんだな……」

 セツナは、著しく変化する男の言動にどっと気疲れを覚えたが、かといって気を許すことも出来なかった。構えたままの剣が重い。未だに手が痺れていた。男の一撃がそれほど重かったという証明だろう。

 セツナの心音は、少しずつだが平静を取り戻しつつあった。

「さて。続きをやるか」

 男の纏う空気が、またしても一変する。穏やかなものから、凍て付いたものへと。それは殺気というものに違いない。相手を殺そうとする意志の奔流。

 セツナは、歯噛みした。体のどこかが震えている。恐怖だ。肉体が、先の一撃を思い出しているのだ。存在しない致命傷が脳裏を過ぎる。男の剣を受け止めるか、かわさなければ、その想像の産物が現実のものとなるだろう。剣の柄を両手で握りしめる。手の痺れは、まだわずかに残っていた。それが不安を煽った。問う。

「本気か?」

「いや嘘だ」

 平然と言い放つなり、男は、剣をさっさと納めてしまった。

 セツナは、茫然とした。きっと間の抜けた表情になったに違いない。

「は?」

「あれ」

「……?」

 セツナが、男の指差す方向に目を向けると、岩石が乱立した大地の真ん中にラクサスとランカインが突っ立っていた。そして、ラクサスの足元に平身低頭しているものたちがいるのがわかる。野盗どもだろう。ランカインの圧倒的な暴れっぷりに怖れをなしたとしても、なんら不思議ではなかった。

 男が、なんとも形容しようのない声で言ってきた。

「うちの頭が降参しちまったみたいだ。良かったな、少年。俺に殺されずに済んだぞ」

「あ、ああ……」

 セツナは、男の言葉には納得しながらも、なにか釈然としないものを抱えたまま、剣を鞘に収めると、ラクサスの元に駆け寄った。


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