第五百七十七話 闇より来たり
晩餐会が終わると、王宮大広間は酔い潰れた人々で溢れかえっていた。
《蒼き風》の団長、副長、突撃隊長が同じテーブルに突っ伏しており、師であるルクス=ヴェインも無防備な姿を晒していた。いまこそ隙をついて日々の恨みを晴らすときだ、と、マリアが悪魔のように囁いてきたが、セツナは取り合わなかった。寝込みを襲ったところで返り討ちに合うのは、既に実証済みのことだ。師は無防備な姿を晒しながら、餌に食いついてくるような愚者を待っているのだ。そして、徹底的に打ちのめして勝ち誇るのが、ルクス=ヴェインという人物だった。
もちろん、だれもが大広間で眠りこけているわけではない。レオンガンドとナージュは早々に引き上げたし、太后グレイシアもセツナたちのテーブルまできて、少しばかり言葉を交わしたのち、後宮に戻っていった。ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールや、ナーレス=ラグナホルン、オーギュスト=サンシアンといった大物も、妻や従者を引き連れて大広間を後にしている。
各国からの招待客も、既に宮殿内の部屋に戻っていったようだった。メレドのサリウス王とふたりの美少年も、アバードの獣姫ことシーラ王女も、ジベルの死神たちの姿もなくなっていた。
まるで祭りのような大宴会が終了すれば、大広間に残るのは絶対的な静けさだ。
セツナたちが王宮大広間を出たのは、宮殿全体がそんな静けさに包まれた時間帯だった。
セツナは眠りこけているルウファを背負い、ミリュウはファリアとエミルが担当した。マリアは、完全に泥酔状態であるはずにも関わらず、足取りだけは確かであり、彼女に助けは必要なさそうだったのだ。
「酒に酔っても、世界には酔わないのさ」
「どんな意味なんですかそれは」
「隊長殿にはまだわからないかな」
マリアは、セツナの顔を覗き込みながら、へらへらと笑った。宴会の終盤からずっとこの調子である。酒に酔うとわけのわからないことを口走る癖があるようだった。
宮殿で寝泊まりすることもできたが、セツナたちは《獅子の尾》の隊舎に戻ることに決めていた。どれだけ遅くなっても、それだけは変えたくなかった。
宮殿を北に出て、まっすぐ王宮区画の北門へ向かう。北門付近は静かなもので、王宮警護に属する衛兵くらいしか見当たらなかった。携帯用の魔晶灯を手にした衛兵は、王宮から出てきたのがセツナたちだと気づくと、緊張したように姿勢を正した。
皇魔との戦闘があった東門周辺は一部立ち入りが禁じられているくらい酷い有様だという。それもこれも皇魔が相手だったからだ。一部にはセツナたちが暴れたことが原因だという声も聞かれたが、セツナたちは被害を最小限に抑えるべく全力を尽くしただけだ。東南部の王家の森が半壊したのは、さすがにやりすぎだったのかもしれないが。
皇魔を滅ぼすために力を尽くせばそうなるというただそれだけのことだ。
星空の下、益体もないことを考えながら、衛兵と挨拶を交わして北門を抜ける。真夜中である。空気が澄んでいて、星々が異常に強く輝いているように見えた。夜風は冬の冷気を運び、頬を撫でる。厚手の外套を着込んでおいてよかったと心底思いながら、不意に聞こえたルウファの寝息に苦笑を浮かべる。
すると、エミルがおずおずと尋ねてきた。
「セツナ様、本当にひとりでだいじょうぶですか?」
「重いけど、まあ、訓練って思えばどうってことないかな」
「そうですか……でも、無理だけはしないでくださいね」
「そうですよ、隊長殿。なんならあたしも手伝いますし」
「はは、酔っぱらいのマリア先生にまで心配されるなんてね」
セツナは、マリアの足取りの完璧さに気づきながらも、彼女が酔っぱらいであることを忘れなかった。確かなのは足取りだけなのだ。言語中枢はいかれていて、たまになにをいっているのか分からないことがある。まともに取り合ってはいけないのだ。
王宮区画を北に抜けてしばらく進むと、《獅子の尾》隊舎が見えてくる。王宮区画の外周城壁に程近い場所に、《獅子の尾》の隊舎は立っているのだ。元はナーレス=ラグナホルンが所有していた屋敷であり、北門に近い立地なのも頷けるというものだろう。ナーレスがザルワーンに潜入する際に国の所有物となっていたのだが、王立親衛隊《獅子の尾》に拠点の必要性を感じたレオンガンドが、ナーレスの許可を取って、《獅子の尾》の隊舎としたのだという。
レオンガンドがわざわざナーレスの許可を取ったという話をセツナが知ったのはつい最近のことだ。ザルワーン戦争が終わり、ほとぼりが覚めるまでは言い出せなかったに違いない。それはレオンガンドとナーレスが秘密裏に連絡を取り合っていたということにほかならないのだ。
ナーレスは、ガンディオンに戻ってきた時、屋敷が全面的に改装されていることに驚いたらしい。気に入らなかったのか、と悲しそうにつぶやいていたともいい、セツナはそのことでもナーレスに負い目を感じていた。もっとも、屋敷の隊舎への改装はレオンガンドが音頭を取ったことであったし、セツナに非はないのだが。
そんなナーレスだが、いまは群臣街に新たな屋敷を得て、そこでメリルとの生活を始めている。群臣街の南区だというのだが、隊舎暮らしのセツナは北区から南区に向かうような用事もないため、ナーレスの新しい屋敷を目にすることはなさそうだとも思った。
「寒いわね」
「早く帰って温まりましょう」
「皆で一緒に寝るかい? 温まるよ?」
「な、なにいってるんですか!?」
「そ、そうですよ!?」
「……なんだかんだで元気だなあ」
マリアの発言をいちいち真面目に受け取って取り乱すふたりを尻目に、セツナは、闇夜に浮かび上がる我が家を見やった。我が家、といっていいだろう。ようやく得た、帰るべき場所。自分の家。住処。呼び方はいくらでもあったし、どれでもいいことだ。
重要なのは、自分の居場所があるということなのだから。
そして、《獅子の尾》はセツナだけの居場所ではない。ファリア・ベルファリア=アスラリアも、ミリュウ=リバイエンも、おそらくルウファ・ゼノン=バルガザールも、居場所として認識しているのだ。もしかしたら、エミル=リジルも、マリア=スコールだって、《獅子の尾》を気に入ってくれているかもしれない。
そう思うと、俄然やる気が出た。力も湧いた。眠気など吹っ飛んでしまって、目が冴えて仕方がなかった。今夜は眠れないかもしれない。
「ちょ、ちょっとセツナ!」
「あ、あぶないですよ!」
ふたりの悲鳴じみた呼び声によって、セツナは無意識に駈け出している自分に気づいた。ルウファを背に負ったまま、全力で隊舎に向かっていたのだ。
隊舎の敷地内に立てられた《獅子の尾》の隊旗が、夜の風に揺れていた。
「おかえりなさいませ、セツナ様」
闇の中、静寂に等しいほどの声が聞こえてきたものの、セツナは身構えることなく、自室の扉を閉めた。扉を閉じて、鍵をかけてから、近くの戸棚の上に置いていた魔晶灯に触れる。魔晶石が生命力を感知し、発光現象を起こす。冷ややかな光は、広々とした室内全体を照らすには物足りないものの、セツナの視界を補うには十分な光量を発揮している。
魔晶灯特有の冷たい光が照らすのは、雑然としたセツナの自室だけでない。その小さな混沌の中に混入された異物をも、照らしだしている。黒い獅子の仮面を被り、黒衣を纏う人物。声からして女だ。聞き知った声。挑戦的で、どこかに暗い影を抱く声音。
死神壱号ことレム・ワウ=マーロウだ。