第五百七十六話 祭りの後(二)
「セツナ伯、少しよろしいかな?」
メレド国王サリウスが、ヴィゼン=ノールンともうひとりの美少年をともなって話しかけてきたのは、晩餐会の盛り上がりも最高潮に至ろうという頃合だった。ルウファなどは酔い潰れ、テーブルに突っ伏したまま寝息を立てていて、エミルはそんなルウファの様子にさえ幸せそうな表情をのぞかせていた。
宴もたけなわとはこのことだろう。大広間のみならず、宮殿内のどこもかしこも、皇魔との死闘のことなど忘れ去ったかのようなどんちゃん騒ぎになっている。今日一日の主役であるレオンガンドとナージュのふたりこそ、この大騒ぎの中心にいた。大広間の中央に急遽舞踏会場を設けさせ、ふたりで踊り始めたのだ。宮廷楽団とレマニフラの舞踏団がそれに加わると、王宮大広間は、晩餐会どころではなくなってしまった。
レオンガンドとナージュの輪舞に誘われるようにして、ジベルの王や王子、アザークの王子などが舞踏に参加した。舞踏の輪は時間とともに広がっており、セツナもミリュウに一緒に踊ろうと誘われたが、あのような混沌とした場所で踊れるはずもないと断っている。ミリュウには悪いのだが、下手な踊りで場を壊すようなことはしたくなかった。
そんな折、サリウスが話しかけてきたのだ。
セツナがほろ酔い気分から抜けだせたのは、相手が他国の王であり、粗相があってはならないという意識が働いたからに違いない。
「なにか、御用でしょうか?」
「いや、特に用事というわけではなく、ただ話をしてみたかったのだが……迷惑かね?」
「話? 俺……わたくしと、ですか?」
「ええ。黒き矛のセツナの勇名は、メレドでも知らぬものはいないほどだ。ひと目会って、言葉をかわしてみたいと思うのは、国の頂きに立つものとして、当然のこと」
「そうですか?」
セツナは、さり気なく首に絡みついてきたミリュウの腕を退けながら、サリウスの顔を仰ぎ見た。椅子に座ったままというのは失礼だろうか、と考えるのだが、椅子をくっつけて纏わりついているミリュウのこともあり、立ち上がることもままならなかった。もっとも、今宵の晩餐会は無礼講というお達しが出ていることもあってか、サリウスはセツナの態度も、ミリュウの様子も気にしていないようだった。
「もちろん。社交辞令などではないよ。そして皇魔を前にしての見事な戦いぶり、ほれぼれとしたものだ。さすがはガンディアに黒き矛ありといわれるだけのことはある」
彼の視線に妙な圧力を感じて、セツナは、はっとした。意識が急激に冷えていく。サリウスのまなざしから感じるのは、敵意や悪意とは異なる気配だ。好意的ではあるのだが、なにかが奇妙だった。値踏みしているような目でもない。値踏みを終えた客が買うか買うまいか逡巡している、そんな風ですらあった。
サリウスは美丈夫である。レオンガンドがやや中性的な美形であるのに対し、サリウスは男性的な荒々しさを秘めた美形だった。彼に付き従うふたりの少年も美形だが、彼らはサリウスよりもレオンガンドに近いというべきだろう。ヴィゼン=ノールンは男性的な要素を見つけることが難しく、少女といったほうがだれもが納得するほどだ。もうひとりも、美少年である。蠱惑的な表情は、セツナさえも戸惑わせる力があった。
「いえ……できることをしたまでのことですから」
「謙遜されると、セツナ伯に出番を奪われたヴィゼンの面目がない」
「陛下、それじゃまるで、ぼくが僻んでるみたいじゃないですか!」
「違うの?」
「違うよ!」
「とてもそうは見えないなあ」
「だーかーらー」
ふたりの声はやや高めであり、美少女と美少年が戯れているようにしか見えず、セツナは頭がどうにかなったのではないかと思ったりもした。おかしいのは自分の頭ではなく、ヴィゼンの容姿なのだ、とも考えるのだが。
「このふたりこそ、メレドにとっての黒き矛。つまりは、我が国の至宝といっていい。こっちはシュレル=コーダー、こっちがヴィゼン=ノールン」
「至宝を前線に送り込むかなあ?」
「ほんとほんと」
「減らず口を叩くのが珠に傷だが……まあ、お見知り置きを」
「は、はあ……」
「よろしくお願いします、セツナ様」
「つぎこそはぼくのほうが活躍してみせるからね!」
「あ、ああ……」
セツナが呆気に取られたのは、ふたりが挨拶もそこそこに飛ぶように離れていったからだ。さっきまで口喧嘩を交わしていたふたりだったが、大広間の舞踏会場に潜り込むと、ほかのだれよりも息の合った輪舞を始めた。レマニフラの舞踏団が見惚れて動きを止めてしまうほどの華麗な踊りは、ヴィゼンとシュレルの呼吸が合っているからなのだろうか。
「……要するに、ふたりの紹介だけでもしておこうと思ったのだ。これからのことを考えると、各国の主力が顔合わせをしておくのも、決して悪いことではあるまい?」
「ええ、その通りですね」
頷いたものの、あのふたりがメレドの主力というのは、どうにも納得しがたいものがあった。いや、ヴィゼンの実力にケチを付けるわけではない。彼が皇魔を駆逐する様は目の当たりにしていたし、他国の主力に引けを取らないのも知っている。だが、それでも、彼らの振る舞いを見ていると、どうしても納得できないのだ。
(あんな子たちを使うのか)
おそらくセツナより年下であろう少年たち。
屈託なく舞い踊るさまは、地上に舞い降りた天使のようだ。
「クルセルクとの戦争はしばらく先のことになるだろうが……そのときは、セツナ伯の活躍に期待しているよ。おや?」
サリウスがセツナの後方になにかを見つけたらしく、怪訝な顔をした。セツナがそちらに目を向けると、アバードの姫君が挙動不審に立ち往生している様が目に入ってくる。昼間とは異なる印象を受けるのは、彼女がドレスではなく、男性物の礼服に身を包んでいるからだろう。
「わたしはしばらくガンディオンに滞在するつもりだが、また話をしに伺っても構わないだろうか?」
「もちろんです。拒む理由もありませんよ」
サリウスの問いかけに、セツナは笑顔で返答した。後ろ手にミリュウを押し退け、ファリアに目で合図を送る。ファリアも、サリウスが訪れたことで、酔いから覚めていたらしく、セツナの目線に頷いて席を離れた。そして、テーブルを大回りに回り、ミリュウを後ろから羽交い締めにした。
ファリアはさっきまでセツナの左の席に座っており、ミリュウはセツナの右の席からセツナにもたれかかっていたのだ。マリアはファリアの左隣であり、さらにその左隣にエミル、ルウファという席順だった。ミリュウを制するには、ファリアに頼むよりほかはなかったのだ。
「そうか、嫌われたらどうしようかと思っていたところだ。そういう返事がもらえてよかった」
サリウスが少しばかり笑みをこぼしたのは、ミリュウ捕物帳の一部始終が面白かったのかもしれないが、セツナとしては笑いどころではなかった。ミリュウを抑えておなければ、挨拶もままならない。
「では、わたしはこれで失礼するよ」
「は、はい」
セツナが、立ち上がって深々と頭を下げることができたのは、ファリアがミリュウを制圧してくれたおかげだったのだ。サリウスを見送ってから、安堵の息を吐く。
ミリュウはファリアの羽交い締めからなんとか逃れようともがいていたが、しばらくして諦めたようだった。それに対して大声で笑い声を上げるのがマリアであり、エミルはルウファの寝顔を観賞することに集中していて、それどころではなさそうだった。サリウスが来たことにさえ気づいていないのかもしれない。
と、気配を感じて、セツナは、ミリュウの背後に視線を向けた。ミリュウの制圧に力尽きたファリアの後方に、シーラ姫の姿があった。彼女はなにかを迷っていたようだったが、セツナの視線に気づくと、覚悟を決めたように声をかけてきた。
「よ、よお!」
が、後が続かない。
「え、えーと……な、なんていったらいいんだ……こういう場合」
「シーラ様?」
セツナは、シーラがもじもじしている理由がわからず、対応に困った。
「アバードの姫様が隊長になにか御用でもございますのでしょうか?」
「ミリュウ」
「む……」
ファリアの注意に、ミリュウが頬を膨らませる。いつも見る光景だったが、見る度に、普通逆じゃないのかと思うのも、いつものことだ。どうしたところで妹を叱りつける姉に見えてしまう。それだけふたりの仲がいいということでもあり、決して悪いことではないのだが。
「用事ってほどのことでもないんだけどさ。あのときのお礼を言いたくて、な」
「礼なら何度も聞きましたよ」
セツナが笑い返すと、シーラは顔を急激に紅潮させた。恥ずかしかったのかもしれないが、なにが恥ずかしかったのか、セツナにはわからない。
「い、いや、命の危機を救ってもらったんだ、何度だっていいたくもなるだろ!」
「ですから、当然のことをしたまでのことですよ。姫様がそこまで気に病まれる必要はないんですよ」
ということも、礼を言われるたびに説明している。そうすると、シーラが言い返してくるのだ。
「いいや、命の恩人には何度頭を下げてもいいもんだ!」
シーラがそこまで頑なにいってくると、セツナとしては、どうすることもできない。相手は、一国の姫君であり、国の代表である。粗相があってはならないし、彼女の心証を悪くするような言動は慎まなくてはならない。それはセツナが領伯という身分にあるから、ということではなく、基本的な礼節の問題なのだ。
(話すきっかけが欲しいだけなんじゃ?)
(そのようね……)
(そういえば、姫様も年上だったかねえ)
「君たち、少々失礼なことばかりいっているのではないかね」
セツナは、いつの間にかマリアの近くに固まっていた三人を睨んだ。小声だったが、セツナの耳には届いていたのだ。幸い、シーラの耳には入らなかったようだが。
「あ、セツナのめずらしい領伯顔だ」
「領伯顔ってなんだよ」
「偉ぶってる顔ってことでしょ。似合わないわよ」
ファリアのにべのない一言に、セツナは憮然とした。身分を弁えないにも程があるのだが、領伯になっても前のままの対応でいいといったのはほかならぬセツナである。そして、ファリアやミリュウたちがそのように接してくれるからこそ、セツナは自分を見失わずに済んでいるのだ。親衛隊長だの領伯だのと持ち上げられ続ければ、セツナであっても浮ついてしまうかもしれない。そういうとき、セツナをただのセツナとして見てくれるひとがいることは、大きな力になった。
「ま、隊長殿はほややんとしているのが一番ってことさね」
「ほややんってなに? ほややんって」
「うーん……なんだろ」
「自分で言っててわかんないんですか、先生」
料理よりも酒だけに集中していたマリアのことだ。頭の中まで酔いが回っていたとしてもおかしくはなく、こんな医者が専属で《獅子の尾》はこの先やっていけるのかと不安になったりもした。腕がいいことは確かなのだろうし、だからこそ、レオンガンドはセツナの配下に彼女を組み込んでくれたのだろうが。
「えー……と、あー……その、なんだ」
シーラは、礼を言うだけが目的ではなかったのか、話す機会でも伺っているかのようにセツナの顔をちらちらと見ていた。
「さっきからどうされたんです?」
「い、いや、俺さあ、しばらくガンディオンに留まることになったから、また話相手になって欲しいなあ……って」
「それくらいならお安いご用ですよ」
「ほ、本当にいいのか!?」
「ええ」
セツナはにこやかにうなずいた。領伯である以上、他国の王侯貴族と交流を深めるのも大事なことだ、とナーレスやオーギュストからもいわれたばかりだった。いや、これも領伯だから、ということではないらしい。セツナはガンディアを代表する人物のひとりになっているのだ。セツナと親交を持とうとする他国人が現れても、不思議なことではないという。
(自国人からは遠巻きに見られているのにな)
ガンディアの貴族も軍人も役人も、セツナと積極的に関わりを持とうとはしなかった。どこの馬の骨ともわからぬものが、あっという間に親衛隊長に抜擢され、領伯に任命されたという事実が、生粋のガンディア人には気に食わないことなのだろうか。とはいえ、そういった人々がセツナに悪意をもっているということではない。むしろ、好意的なガンディア人のほうが多いといっても良かった。市街に出れば王都の住民がセツナを取り囲んだし、群臣街でも軍人の子供たちから声をかけられることも多かった。
遠巻きに見ているのは、一部の特権階級の人々であり、彼らにしてみれば自分の立場を脅かす存在として見えるのかもしれない。
ふと、そんなことを考えていると、シーラが飛び切りの笑顔を浮かべていることに気づいた。男装の姫君の凛としたまなざしが緩みきっていたのだ。
「じゃ、じゃあ、そのうち声をかけるから、よろしくな!」
一方的にまくし立てると、彼女は照れくさそうにセツナの前から立ち去っていった。そして、遠くからこちらの様子を窺っていた侍女団と合流すると、なにやら嬉しそうに報告していた。
「……嵐に遭ったみたいな感じね」
ファリアの呆然とした言葉にセツナは静かにうなずいた。
(あれがアバードの獣姫か……)
ナーレスが手に負えないというのもわかる気がした。