第五百七十話 血と魂(十八)
体が熱い。
「おおおおおお!」
体の芯が燃えているような錯覚に陥るほどの熱量の中で、シーラ・レーウェ=アバードは、激しく吼えていた。無意識の咆哮が周囲の敵意を煽り、複数の皇魔の視線が彼女に集中する。グレスベルと呼ばれる小柄な鬼どもが、牙を剥き出しにして飛びかかってきた。シーラは口の端を歪めて、獰猛な笑みを浮かべた。望むところだった。彼女は獲物を求めて、戦場に飛び出してきたのだ。戦う相手がいないのでは、あまりにつまらない。
斧槍の形状をした召喚武装ハートオブビーストを振りかざしたシーラには、戦場の状況が手に取るようにわかっていた。
戦場とは、ガンディアの王都ガンディオンの王宮区画東門付近一帯のことを指す。クルセルクの贈り物という巨大な箱から、数えきれないほどの皇魔の群れが突如として出現したことで、厳重な警戒態勢が敷かれていた王宮区画は、一瞬にして地獄のような戦場へと変わり果てている。地獄のような、というのも、皇魔の数が多いからだ。たった一体で鍛えあげられた人間数人分の力を発揮する化け物の集団だ。非力な人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、軍人たちでさえ恐怖に身を竦ませた。
好き好んで皇魔の群れに突貫するようなものなど、シーラくらいのものだ。
(って、思ってたんだけどな!)
彼女が悔しさを滲ませたのは、ルシオンの王子夫妻に先を越されたからだ。ハルベルク・レウス=ルシオンとリノンクレア・レーヴェ=ルシオンは、噂に違わぬ勇猛さを見せつけるようにして皇魔の群れに突撃し、陣形を突き崩した。結果、シーラたちは、ルシオンの白聖騎士隊の後塵を拝することになったのだ。
それでも、二番目に戦場に辿り着いたシーラたちは、得意の攻撃陣形を取ると、皇魔の集団を相手に激しい戦闘を始めた。
シーラだけではなく、彼女の侍女たちもよく戦っている。百戦錬磨の女傑たちだ。くぐり抜けた修羅場の数たるや、シーラに引けを取らないような連中なのだ。おそらく、アバード軍でもシーラとその侍女団ほど戦闘経験が豊富な部隊もいないだろう。アバード軍が経験不足なのではなく、シーラたちが戦い過ぎているのだが。
いつからか、戦うことだけが彼女の生きがいになっていた。
「おせえっ!」
前方三方向からほとんど同時に飛びかかってきた三体のグレスベルを、斧槍の一薙ぎで打ち払うと、踏み込んで後方で充電中だったブリークの頭蓋を斧槍の石突で打ち砕く。背の突起に集まっていた電力が発散し、小さな爆発が起きる。そのときにはシーラは後ろに飛び退きながら、右の侍女の援護に回っている。侍女の隙をつこうとしたブラテールの脇腹に斧槍の切っ先を叩き込み、怒声を発した化け物の首を切り落とす。
侍女たちは猛者だが、やはり通常人なのだ。連戦に次ぐ連戦で疲労が見え始めている。相手が皇魔だということが、彼女たちの精神に悪影響を及ぼしていることは確かなようだった。どれだけ勇猛であっても、根源的な恐怖から逃れ得ることはできないらしい。
シーラが皇魔の恐怖に対抗できているのは、召喚武装による精神的な補助のおかげなのだろう。シーラは斧槍を一瞥した。ハートオブビーストの刀身は皇魔の血に濡れ、鈍い輝きを帯び始めている。
(行けるか?)
確信は持てなかったが、状況を鑑みると、出し惜しみをしている場合ではなさそうだった。
「まだまだいくぜ、てめえら!」
「おうさっ!」
「姫様もノリノリだ!」
「あたしたちも負けらんないぜ!」
シーラの気合に応じるように侍女たちが気炎を吐いた。すると、侍女たちの動きが見違えるように良くなっていく。状況判断が的確になり、行動が迅速になったかと思うと、凄まじい斬撃が皇魔の胴を薙いだ。
(これがライオンハート!)
シーラは、侍女たちが皇魔の群れさえも気迫だけで圧倒してく様を認めて、にやりとした。
ハートオブビーストは召喚武装なのだ。特別な能力を秘めた異世界の武器であり、その能力のひとつが、いま、侍女たちの戦闘能力を引き上げている。ライオンハートにせよ、他の能力にせよ、使用するには条件がある。その条件とはハートオブビーストが敵の血を啜ることであり、その血液量によって発動する能力が決まるという困った一面もあった。
しかし、ライオンハートが発動した以上、シーラたちに敵はない。どのような絶望的な状況であっても、ライオンハートさえ発動すれば切り開くことができるのだ。
シーラ自身、ライオンハートの恩恵の中にあった。研ぎ澄まされた感覚が強烈な敵意を感じ取り、肉体は無意識の内に反応する。左へ、流れるように飛ぶ。雷球が地面を抉り、爆発光が視界を白く染めた。ブリークの雷撃がそこかしこで炸裂し、天地を震撼させていた。光と音の乱舞。血と死の輪舞。剣と拳の円舞。戦場に繰り広げられる数多の舞の中で、彼女は一瞬、自分を見失った。
「姫様!?」
悲鳴のような叫び声は侍女が発したものであり、その声が耳に到達したときには、シーラは眼前に迫ったリョットの前足を認識していた。前足から伸びた爪は、鋭利な刃そのものといってもよかった。リョットの爪は、鉄の鎧さえたやすく切り裂くといわれる。ましてやドレス姿のシーラなど、紙切れ同然に切り捨てるだろう。
(避けきれねえ)
シーラは、死を覚悟した。恐怖はない。それがライオンハートの影響だとすれば、ハートオブビーストに感謝するべきだろう。恐怖と屈辱の中で死ぬよりも、あっさりと死ぬほうがシーラの望みに近い。
「余所見のしすぎですよ」
声が聴こえたのが先だったのか、リョットの前足が吹き飛んだのが先立ったのか。
「ふぇ?」
シーラは、頓狂な声を上げながら、リョットの前足が切り裂かれるのをみていた。そして、切断面から噴き出した鮮血を浴びて、むせた。むせながら、なにが起きたのかを確認する。前足を失ったリョットが後ろに飛び退き、怒りに我を忘れたかのように吼えている。吼えている相手は、大量の返り血を浴びて全身が赤く染まった人物だ。手には禍々しい漆黒の矛が握られている。
(黒き矛……)
といって思いつく人物などひとりしかいない。
彼女がこの結婚式に参加した目的のひとつは、その人物に会うことだった。セツナ・ゼノン=カミヤ。あるいは、セツナ・ラーズ=エンジュール。いまとなっては後者の名で呼ばれることの多い人物は、ガンディアの躍進の立役者であり、いまや泣く子も黙る存在として、小国家群に鳴り響いている。
王都に到着して以来、シーラは彼と言葉を交わす機会を待ち望んでいたのだが、そのような機会は一向に訪れる気配がなかった。セツナは結婚式の警備に駆り出されているということであり、式が終わって、状況が落ち着くまでは無理なのではないか、というのがウェリスの考えだった。シーラは落胆したが、逆をいえば、式が終わってからなら話す機会を作れるかもしれない、とも思い直したものだ。
もちろん、ウェリスの策略に乗るつもりはない。単純な興味だった。小国家群で知らぬものはいないほどの強者に対する、純粋な好奇心。
黒き矛の人物は、リョットに飛びかかると、暴風のような斬撃で皇魔の五体をばらばらに切り刻んでしまった。大量の血が彼に振りかかるが、気にもしていないらしい。
周囲の皇魔の注意が、彼に集中する。
「シーラ姫様……ですよね?」
「お、俺の名前、知ってくれてたんだな……!」
「もちろんですよ」
彼は、こちらを一瞥して、微笑んだ。皇魔の血を浴びた少年の笑顔は、とてつもなく凶悪に見えて、だからこそシーラの心を撃ち抜いた。
「獣姫の勇名は聞き及んでいますし、強いのもよくわかりました。しかし、相手は皇魔。くれぐれもお気をつけ下さい。もちろん、俺達《獅子の尾》は、姫様を必ずお守りしますが」
「俺を……護る?」
「当然ですよ」
彼は断言すると、漆黒の矛を軽く旋回させ、そののち背後を振り返って横薙ぎに振り抜いた。黒き矛の軌跡が描き出すのは、皇魔の死だ。グレスベルやレスベルが為す術もなく死んでいく。一瞬にして血と肉の塊に成り果て、断末魔さえも発せない。
皇魔たちが、セツナと距離を取った。人間に恐怖を与える皇魔たちが、セツナに対して恐怖を感じているのだ。畏怖を、感じているのだ。
セツナは、そんな皇魔たちの態度に嗜虐心を刺激されたとでも言いたげな態度で、皇魔へと歩を進める。皇魔が下がる。セツナが進む。皇魔がまた下がったと思うと、セツナが一気に距離を詰めた。黒き矛が複雑な軌跡を描き、無数の死が生み出される。死が生まれる、というのもおかしな話だが、シーラにはそのように見えた。そして、彼女はただただ興奮した。
「はあ……!」
セツナは、皇魔をあらかた片付けると、シーラの視界から消えてしまったものの、彼の言葉は、彼女の脳内に反響し続けている。
(姫様……護る……)
「姫様?」
「どうされました?」
「おーい」
「聞いてないんすか?」
侍女たちの上下関係など無視した物言いは、シーラが許可しているからこそのものである。
シーラは、侍女たちを振り返りながら斧槍でブラテールを叩き潰すと、右手で拳を作った。拳が震える。胸の奥が熱い。すさまじい熱量が渦巻いている。
「惚れた」
「はい?」
「惚れたぜ!」
「なんていうか、そういう男らしいところに惚れ惚れしますよ、本当」
「男らしいっていうか、単純っていうか」
「ま、ウェリスにとっても喜ばしいことかもね」
侍女たちのあきれ果てた声など、いまのシーラには微風ほどにしか聞こえなかった。