第五百六十六話 血と魂(十四)
「お、皇魔だと……皇魔!?」
我ながら大袈裟にも程があると思いながらも、ラインス=アンスリウスは、その場にへたり込みながら、半ば狂乱したように叫んでいた。実際、狂乱していたのかもしれない。大気を震わす咆哮は、覚悟を決めていたラインスの皮膚下にも浸透し、血肉を揺さぶり、魂を震わせた。
根源的な恐怖は、どれだけ覚悟していても乗り越えられるものではないらしい。たとえ、武術の心得を持っていたとしても、実戦経験があったとしても、本質的には政治家に過ぎないラインスには、兵士たちのように皇魔に立ち向かうことなどできそうにはなかった。もちろん、政治家が戦場に立つ必要はない。前線で血を流すのは軍人の役目であり、後方で頭を働かせるのが、政治家の仕事なのだ。
「ラインス様、王宮に下がりましょう。ここは、王立親衛隊《獅子の尾》に任せるのが、最善手かと」
「そ、そうだなっ……レオンガンド陛下の親衛隊ならば、セツナ伯ならば、あの程度の皇魔、どうとでもしてくれるはずだっ……!」
ゼイン=マルディーンが差し出した手に掴まって起き上がりながら、彼は口早にいった。もちろん、本心でそう思っているわけではない。魔王ユベル謹製の封魔箱から解き放たれた皇魔の数は、数百をくだらない。クルセルク側でも実数を把握できないほどの皇魔が、あの数メートル四方の箱の中に詰め込まれていた。
小型から中型まで、数多の皇魔が王宮区画に解き放たれたということだ。
「では、こちらへ」
ラファエル=クロウが表情を引き攣らせながら、ラインスを先導する。王宮区画を震撼させる皇魔の叫び声は、だれもが耳を覆いたくなるほど奇怪だった。
「急ぎましょう。相手は皇魔です。我々とて、彼らにとっては殺戮対象に過ぎないのですから」
「わかっている」
ゼインに急かされて、ラインスは少し不機嫌になった。そんなことはわかりきっている。大袈裟に演じてはみたものの、それに近い恐怖を感じたのは事実だ。皇魔を目の当たりにしたことがなかったわけではないが、これほどの数の皇魔を目の前にすれば、歴戦の猛者ですら腰を抜かすはずだ。
ゼインは涼しい顔をしていたが、強がっているだけに違いない。
東門前の広場から宮殿へ向かう道中、何人もの人間と擦れ違った。ルシオンの王子夫妻率いる白聖騎士隊、ミオンの突撃将軍にアバードの獣姫、ジベルの王子と死神たち。彼らは、ラインスの逃走を嘲笑うかのようにして、戦場へと突き進んでいく。
ラインスは、皇魔に立ち向かわんとする戦士たちの背中を見遣りながら、敗北感を禁じ得なかった。皇魔はただ一体だけでも凶悪なのだ。それが何百体も出現したというのに、彼らは恐れ、慄くどころか、勇猛果敢に立ち向かっていく。それが戦士というもののさだめならば、ラインスには理解の及ばないものだといわざるを得ない。
(だが……愚かでもある)
あれほどの数の皇魔だ。勝算があるとは思えない。たとえ皇魔の撃退に成功したとしても、そのときにはレオンガンドは亡き者になっているだろう。皇魔は、レオンガンドを殺すために用意されたわけではない。この結婚式会場に混沌をもたらすためだけの一要素に過ぎない。
本命は、別に用意している。
(皇魔は人間ではない。我々の思惑通りに動くとも思えぬ)
故にラインスは戦場から逃げなければならないのだ。戦場にいれば、皇魔の標的になる可能性が極めて高い。皇魔に狙われれば、ラインスでは太刀打ちできるはずもないのだ。それこそ本末転倒だろう。
ラインスは、ゼインたちとともに宮殿に入ると、衛兵に宮殿の防備を固めるように命じた。宮殿には、彼以外にも多くの貴族や使用人といった非戦闘員が逃げ込んでおり、ラインスたちの行動を非難するものはひとりとしていない。皇魔を目前に逃走するのは、当たり前のことなのだ。むしろ、ハルベルクたちのように立ち向かうほうがどうかしている。気が狂っているのではないか、と思わないではない。ハルベルクにせよ、リノンクレアにせよ、戦士ではないのだ。兵士ではない。国の頂点に立つべき人間が、みずから皇魔の群れに突貫するなど、愚かとしか言いようが無い。
(しかし、そのおかげで混乱は拡大する)
レオンガンドの暗殺は、成功するだろう。
彼は、ゼインの後ろを走りながら、レオンガンド亡き後のガンディアを考えて、胸中でほくそ笑んだ。レオンガンドさえ死ねば、後はどうとでもなる。まずはグレイシアを再び掌中に置くことだ。グレイシアさえ、太后さえ掌握しておけば、ガンディアを意のままに操ることは難しくない。
最大の壁であったレオンガンドが死ぬのだから。
「当初の予定通り、地下に隠れましょう。地下ならば、皇魔も入ってこれますまい」
「ああ……」
ゼインは、皇魔が宮殿に侵入してくる可能性がある、ということをいっていた。
ラインスは、上の空で頷きながら、道を急いだ。獅子王宮の地下には、迷宮のような空間がある。そこで皇魔がいなくなるまで隠れていれば、ラインスたちは安全だった。
そこで、レオンガンドの死亡報告を待っていれば良い。
呆気無いものだ、とラインスは思った。
そのために積み上げてきたのだ、とも考えなおしたが。
勝利は近い。
《獅子の尾》に下されたレオンガンドの命令は、招待客の安全を確保することだ。レオンガンドとナージュの結婚式には、近隣国から招待した客人が多数いる。そのほとんどが王族であり、怪我でもさせようものなら、ガンディアの評判が地に落ちるのは疑いようがない。かすり傷さえ負わせるわけにはいかない、となると、任務の難易度が格段に跳ね上がるのだが、それこそ望むところだとセツナは思った。
黒き矛さえ力を貸してくれるのならば、どれほど困難な任務もこなしてみせるという気持ちがある。いや、こなさなければならない。でなければ、領伯に任命してくれたレオンガンドの想いを踏みにじることになる。レオンガンドはセツナに期待してくれているのだ。期待に応えなければ、居場所を護ることなどできるわけがない。
眼前に迫ってきていたブラテールを石突きの一撃で沈黙させた直後だった。
「セツナ、見て見て!」
「ん?」
ミリュウの張り切った声に振り向くと、彼女は真紅の太刀を翳していた。赤が好きなミリュウに相応しい外見の召喚武装だが、その能力も名称も、セツナは知らなかった。彼女が告げてくる。
「ラブフォーセツナ!」
「はい?」
セツナは、ミリュウがなにをいっているのか、まったく理解できなかった。言葉の意味は理解できる。だが、それがなにを意味しているのかまでは察しようがない。ここは戦場なのだ。冗談をいっていられるような状況ではないはずだった。しかし、彼女はまったく気にした様子もない。
「この太刀の名前なんだけど、どう?」
「どう? じゃないわよ! なんて名前なのよ!」
「ファリアに聞いてないでしょ! ね、セツナ? どう?」
「いや……ないだろ」
セツナは、正直な感想を述べた。述べながら、周囲の状況を把握する。左前方に皇魔の群れがいる。その数ざっと六百。そこへ突き進むいくつかの集団があった。ルシオンの白聖騎士隊、ミオンの突撃将軍率いる精鋭部隊、アバードの獣姫、ジベルの死神たち。皇魔の群れと戦うつもりなのだろう。
「ええーっ!?」
「なんで俺の名前を入れるんだよ……」
「セツナへの想いを込めたのに!」
「そりゃ嬉しいけど、でも、単純に恥ずかしいぞ」
「むむむ……」
「セツナが好きなのはわかったから、別の名前にしなさい。そのほうが、セツナも嬉しいっていってるわよ」
「そうそう」
「ぐぬぬ」
なにか悔しそうにうめきながらも、彼女は迫ってきた皇魔の攻撃をかわし、その真紅の太刀を振るった。鋭い斬撃がブラテールの頭部外骨格を脳髄ごと断ち切り、絶命させる。その皇魔の死体を蹴って、後ろへ飛んだ。雷撃が、さっきまでミリュウの立っていた空間を貫く。ブリークだろう。彼女が空中で太刀を振り下ろす。太刀が鞭のようにしなったかと思うと、刀身が無数に細分化した。無数の刃が太刀の軌道上に流星のように降り注ぎ、再び雷球を作り始めていたブリークの肉体につぎつぎと突き刺さり、でたらめに破壊した。そこへオーロラストームの雷撃が追い打ちを掛け、周囲の皇魔もろとも吹き飛ばした。
「いい連携だ」
セツナはふたりの戦いぶりに惚れ惚れしながらも、つぎの敵を探している。ブリークが何体か王家の森の方へ走って行くのを目撃するが、それよりも戦場のほうが気にかかる。
戦場。
そう、戦場だ。
皇魔の出現地点のやや西側が、主戦場となっている。
そこにルシオン、ミオン、アバード、ジベルの主戦力が集い、皇魔との激闘を繰り広げているのだ。皇魔の群れは、そこからさらに西にある宮殿へ侵攻する意図を見せてはいるものの、そのためにも戦場を突破しなければならず、簡単にはいかないだろう。いくら皇魔が凶悪な化け物であっても、人間側の戦力も馬鹿にしたものではないのだ。
(守りに徹すれば、だが……)
セツナは、戦場に向かいながら、冷静に彼我の戦力差を分析していた。皇魔の群れを構成するのは、小型から中型までの様々な種類の皇魔だ。ブリーク、ブラテール、グレスベル、レスベル、リョット……。ブリーク一体でも破壊的な力を秘めているのは、セツナもよく知っているところだ。ブリーク以外にも、レスベルも凶悪な皇魔だったし、ブラテールの機動力も侮りがたい。リョットは中型皇魔の中でも巨体を誇り、圧力だけでも尋常ではなかった。
そんな化け物がおよそ六百体、王宮区画に出現したのだ。戦いを知らない貴族たちが、絶望的な声を上げて逃げ出すのも無理はなかった。
セツナも、一度にこれだけの皇魔を相手にしたことはなかった。
対して、人間側の戦力はというと、ガンディアの王宮警護が二百、ルシオンの白聖騎士隊が百、ミオンの精兵が百、アバードは獣姫率いる五十人、ジベルは死神ふたりと王子、近衛兵の五十人あまり。そして、《獅子の尾》の三人。数だけでいえば劣るが、どの国も精鋭中の精鋭だった。セツナは白聖騎士隊の実力も、ミオンの実力もよく知っていたし、彼らならば皇魔とも対等に戦えるだろうということもわかっている。死神部隊や獣姫の実力こそ不明だが、ルシオンやミオンに劣るとも勝らない程度の力があれば十分だ。たとえ実力がなかったとしても、セツナたちがいる。
セツナたちには、戦力の不足分を補うだけの働きをする自負がある。
「ルウファはどこよ?」
「わからない」
「命令無視なんて、らしくないわね」
「ああ……」
セツナは、ファリアの言葉にうなずくしかなかった。
ルウファが命令を無視するのは、セツナの知る限りではこれが初めてではない。バハンダールに皇魔が襲来したとき、彼は絶対安静の身でありながら戦闘に参加したというのだ。
彼が命令を無視するということは、それなりの理由があるということにほかならないということだ。
宮殿の地下へ至る階段を駆け下りたラインスは、一息つく間もなく、先導するゼインに従った。息が上がっているのは、運動不足のせいではない。戦士ではないものの、貴族の嗜みとしての武術を学ぶのは当然のことだ。日々、鍛錬を忘れてはいない。
それでも東門付近から宮殿まで駆け抜けるのは簡単なことではなかったのだ。レオンガンド亡き後のことを考えると、もっと肉体を鍛える必要があるのではないか。そんなことを考えながら、地下の暗闇を進む。
ラファエルが携帯用魔晶灯を取り出し、ゼインの前方を照らした。通路は狭く、ラインスたちは一列に並んで進んだ。鼻を突くような臭いがしたが、仕方のない事だった。宮殿の地下は長らく手入れされていないようなのだ。先王の時代から、手付かずのまま放置されていたらしい。ラインスがこの地下空間を知ったのは、つい先日のことだ。レオンガンドを謀殺するための資料を集めているとき、偶然発見したのだ。この地下空間を利用する手はないかと考えたものの、レオンガンドを地下に招き入れることなどできるはずもなかった。
そうするうちにクルセルクとの共謀で結婚式の最中に殺害する計画が立ち上がり、地下空間は、ラインスたちが隠れる場所として活用される運びになったのだ。
やがて、通路の突き当りに辿り着くと、ゼインが扉を開いた。通路の先には、扉に仕切られて、広い空間が広がっている。発見した見取り図通りだった。広い空間に足を踏み入れると凄まじい異臭がしたが、堪えるしかない。奥へ行くほど臭いがきつくなるのかもしれないのだ。ここで踏みとどまるべきだろう。
「……ここまでくれば安心だな」
それから、ラインスは、ゼインやラファエルといった彼の同志が勢揃いしていることを確認した。中には運動不足がたたってその場にへたり込んでいるものもいた。貴族の中には当然、ラインスのように鍛錬を怠らないものだけでなく、優雅な暮らしに身を委ね、肥え太るものもいる。むしろ、後者のほうが多いのが現実だった。嘆かわしいことだが、そう簡単に是正できるものでもない。
「安心? 確かにそうかもしれませんね」
突如耳朶を震わせたのは、若い男の声だった。ラファエルが魔晶灯を声のした方向に掲げる。闇の中に浮かび上がるのは、純白の衣に身を包んだ青年の姿だ。知っている。よく、知っている。知らぬはずがなかった。ガンディアの貴族ならば、いや、ガンディアの人間ならば、知らぬものなどいないほどの人物だった。
「なぜ、貴様がここにいるのだ!?」
ラインスは、わけもわからず絶叫した。
「ルウファ・ゼノン=バルガザール!」
金髪碧眼の貴公子は、冷ややかな目でこちらを見ていた。