第五百六十二話 血と魂(十)
風が、鳴いている。
シルフィードフェザーを纏うたびに聞こえる嘲りとも罵倒ともつかぬ音色は、日に日に大きくなっている気がしてならなかった。
(わかってるさ、そんなことは)
だれとはなしにつぶやいて、ルウファは、シルフィードフェザーを翼に変化させた。純白の翼が羽を撒き散らしながら展開すると、大気が逆巻くようにして彼を取り囲む。翼が大気を叩くと、風の力がルウファの全身を包み込み、空中へと浮かび上がらせた。
(俺が無力だっていいたいんだろ)
胸中で吐き捨てて、頭を振る。事実を否定することはなにものにもできない。
不意に、周囲から声が上がった。
「あー! ルウファ様だ!」
「ど、どこ!?」
「ルウファ様ーっ!」
「え?」
自分の名を呼ぶ無数の声に、彼は怪訝な顔になった。見下ろすと、パレードの観衆たちがルウファを仰いで、口々に声を上げていたのだ。パレードの熱気冷めやらぬといった様子で、興奮状態にあるらしい人々には、ルウファがなぜここにいるのかわからないようである。
ルウファは、パレードの警備のために、群臣街に紛れ込んでいた。それまで観衆に気付かれなかったのは、二階建ての建物の屋根の上に陣取っていたからだけではなく、ひとびとの関心がパレードに集中していたからだろう。
パレードは、無事に終わった。レオンガンドやナージュに危害が加えられるような事件も起きなければ、観衆の中で暴動が起きるようなこともなかった。
予定通りに。
観衆は、パレードが終わってもすぐにその場を離れなかった。口々にパレードの感想を話し合い、結婚への憧れを口にする少女や、レオンガンドとナージュの幸福な姿に感銘を受ける老人などがいた。しかし、そういったひとたちが自分に注目するとは考えてもおらず、ルウファは、どう対応するべきか考える必要があった。
国民の関心を集めるのはセツナの仕事だ、と、ルウファは考えている。黒き矛のセツナこそが《獅子の尾》の顔であり、ガンディア軍の象徴なのだ。彼だけが持て囃されればいいとさえ思っていた。自分は《獅子の尾》の副長であり、目立つべきではないのだ。
実際、目立つような活躍はしていないと思っている。誇れるようなものといえば、ザインの撃破くらいではないのか。魔龍窟の武装召喚師という強敵の撃破は賞賛されるべき戦果だったのだろうが、その勝利の結果、戦線を離脱しなければならなくなったことが、彼の中で大きなしこりとなってのことっている。
「天使みたいだ……」
「すっげー」
「素敵……!」
耳に届くいくつもの声が、彼の耳鳴りを幾分和らげるのだから不思議だった。
(俺は……)
ルウファは、しばし逡巡したあと、ひとびとに向かって小さく手を振った。歓声が上がるが、それには答えず、翼を大きく羽ばたかせると、屋根上から離れ、王宮へ向かって飛翔した。
「首尾はどうだ?」
ラインス=アンスリウスがゼイン=マルディーンに問うたのは、レオンガンドとナージュを乗せた馬車が王宮を出たあとのことだ。
周囲には、ガンディアの歴史に残るであろう盛大な結婚式に参加できたことを大袈裟に喜んでいる貴族が多数いた。誰も彼もにこやかに談笑しており、パレードの終着地点に向かうかどうかの相談をしているものもいた。彼らの興奮は熱気となって渦巻いており、冬の寒さなど感じさせないほどだった。興奮しているのはなにもレオンガンド派だけではない。無派閥の貴族、軍人のみならず、反レオンガンド派の中にも、この結婚式を喜んでいるものは少なくはなかった。もっとも、その喜びの性質は、レオンガンド派と反レオンガンド派では正反対のものといってもいいのだが。
かくいうラインスも、これまでにない興奮状態の中にいた。セツナ=カミヤの暗殺を計画し、実行に移したときよりも深く鮮烈な興奮が彼の意識を席巻している。
なにもかも、彼の思惑通りに進行しているからだ。
「上々です。少なくとも、こちらの意図が漏れている様子はないでしょう」
「……そうだろう。もはやオーギュストはいないのだからな」
ラインスは、ゼイン=マルディーンの囁きにうなずくと、周囲を一瞥した。ラインスと志を同じくする反レオンガンド派の貴族ばかりが、彼の周りに集っている。ゼイン、ラファエル=クロウ、キルド=ガレーン、ザメル=メジエン――皆、優秀な人材であり、レオンガンドですら彼らを重用せざるを得ないほどだった。それほどの人材だからこそ、ラインスの側で権勢を振るっていられたということでもあるが。
彼は、パレードの終了地点に向かいながら、拳を握りしめた。
(権勢……か)
太后グレイシア=ガンディアがレオンガンド派の手に落ちてからというもの、ラインスの権勢は地に落ちたといってもよかった。求心力は格段に低下し、彼が定期的に開催していた会合に参加する人数も減った。対して、大国の王となったレオンガンドの求心力は急激に増加し、レオンガンドを支持する声は圧倒的なものとなった。
かつてガンディアを二分していた反レオンガンド派は、いまや風前の灯火といってもいいほどの情勢になりつつあったのだ。
それもこれもオーギュスト=サンシアンのせいだというのは、反レオンガンド派の共通認識だった。オーギュストさえいなければ、オーギュストさえ存在しなければ、グレイシアはラインスの手の内に残り続けたはずであり、太后派の勢力が弱まるようなことはなかったのだ。
セツナの暗殺が成功し、その責任をログナー家が負っていれば、レオンガンド派にとっては大打撃となったはずなのだ。それもただの大打撃ではない。レオンガンドの国家運営にも深刻な影響を与えることができただろう。だが、オーギュストがラインスらを裏切り、セツナが一命を取り留めたことで、事態は思わぬ方向に転がっていった。
レオンガンドは力を失うどころか、その声望を高めることに成功したのだ。ログナー家が家の生存のためにレオンガンドに与したこと、グレイシアがレオンガンド派の手に落ちたことがきっかけとなって、レオンガンド派に鞍替えするものが増大した。かつては太后派だったオーギュストがレオンガンド派で権力を握っていることも大きかったに違いない。彼を頼れば、反レオンガンド派だったものでも、レオンガンド派に溶けこむことができる――淡い期待は、元々日和見の多かった貴族たちのラインス離れを加速させた。
それでも、ラインスは、アンスリウス家の当主として、家の凋落を認めるわけにはいかないのだ。忸怩たる思いを抱きながら、今日まで過ごしてきた。レオンガンドへの憎悪をひた隠しながら、政務に従事してきた。
ラインスは政治家としての手腕だけならば、レオンガンド程度に負けるはずがなかった。たったひとりで反レオンガンド派という大派閥を作ったのだ。だれの力も借りず、ラインス=アンスリウス個人の力だけで、あれだけの勢力を作り上げることができたのだ。レオンガンドにはできないだろうという確信がある。
彼はその確信を以って、現実を変えようとしていた。レオンガンドへの反攻計画を練り始めたのは、反レオンガンド派が名実ともに太后派ではなくなったあの日からだ。最愛の妹と逢うことさえ許されなくなったあの日から、彼はレオンガンドへの憎悪を殺意へと変えた。
殺意は日に日に強くなったが、人前では微塵も見せなかった。それくらいの術は心得ている。
「終わるのだ。なにもかもな」
「ええ」
ゼインがささやかに頷く。ゼイン=マルディーンは、この反攻計画に尽力したひとりだ。実弟のゼフィルがレオンガンドの側近として権力を振るっていることが気に入らない彼にとっては、反レオンガンド派だけが拠り所なのだ。その点、ラファエル=クロウもよく似ている。彼の場合は、実兄がレオンガンドの親衛隊長を務めているのだが。
親兄弟と政治的に対立するのは、よくあることだ。昔から繰り返されてきたことでもあるし、家を残すという観点から考えれば、別派閥に所属するほうが効率的であったりもする。もっとも、ゼインやラファエルは、家を残すためというよりは己の感情に従っているようであり、そういう意味でもラインスは彼らを気に入っていた。
ラインスの行動は、いまや私利私欲というよりは、怒りと憎しみを晴らすためだけでしかないのだ。
(結婚の幸福の中で死ねるのだ。悪くはあるまい)
ラインスは、胸中でつぶやくと、口の端を歪めた。
空は晴れている。
レオンガンドとナージュの門出を祝うようであり、ガンディアの新たな始まりを祝福するようでもあった。