第五百六十話 血と魂(八)
「近隣諸国の王族を集めて結婚式……覇者にでもなったつもりなのかしら」
「いい気なもんよね」
レムは、カナギの感想に相槌を打ちながら、宮殿の中を流れる音の調べに耳をそばだてた。国王の結婚式なのだ。音楽を奏でる楽団は、魂を懸けて楽器と格闘しているに違いない。一度でも間違えれば、それだけで今後の生活に支障がでるかもしれない。
そんな余計なことまで考えてしまうのは、獅子王宮の中に、彼女のお目当ての人物がいないからだ。
「でもまあ、いいんじゃないの? どうせ、敵わないんだし」
「敵わない相手とは戦うな……」
ゴーシュ・フォーン=メーベルの軽い言葉に続いたのは、シウル・スレイ=メーベルだ。シウルは口数の多いゴーシュの兄であるが、ゴーシュとは対照的に無口だった。この程度の発言すら滅多になく、彼がなにを考えているのか、死神部隊の仲間たちですらわからないことが多い。
「クレイグの教え、ね」
カナギがいうと、シウルは無言でうなずいた。そして、なにもいわずに食事に手を付ける。午前十一時過ぎ。昼食を取るには早いものの、式次第がそうである以上従うしかなかった。いまを逃せば、空腹を埋める機会は訪れなくなる。
とはいえ、王宮の料理人が腕によりをかけた豪勢かつ美味な料理の数々には、ジベルの宮廷で暮らす死神たちの舌をもうならせるものであり、不満も文句も生まれなかったが。
場所は、ガンディア王都ガンディオン獅子王宮一階、王宮大広間の隣の部屋であり、死神部隊以外にも、結婚式に参列した国々が用意した護衛の面々が顔を突き合わせて、様々な料理に舌鼓をうっていた。立食形式のところもあれば、着座形式のところもあり、後者の死神たちはひとつのテーブルを囲んでいる。
そして死神たちは皆、仮面を外している。いまは死神部隊の戦闘服を纏ってもいないため、ジベルの近衛兵かなにかとしか認識されないような状態だった。
全七名の死神部隊のうち、壱号、弐号、参号、肆号の四人だけがこの場にいて、昼食とともに休憩を取っていた。死神零号ことクレイグ・ゼム=ミドナスも来る予定だったはずなのだが、レムたちの前には姿を表さなかった。元々、クレイグは独自行動を取ることが多いため、レムたちはさほど気にしてはいない。そのうちひょっこり姿を見せるだろう、と誰もが思っている。そしてその通りになるのは、疑いようがなかった。
死神部隊が、ジベルの近衛部隊を差し置いてジベル国王アルジュ・レイ=ジベルの身辺を警護する任を与えられたのは、アルジュが死神部隊に信を寄せているからではない。むしろアルジュは死神部隊を毛嫌いし、出来る限り身辺から遠ざけようとしていたほどだ。死神部隊がジベルの宮殿に住んでいられるのは、クレイグがアルジュと死神部隊の間に立って、執り成してくれているからだ。死神部隊こそ嫌っていても、死神零号のことは多少なりとも信頼しているらしかった。
クレイグ・ゼム=ミドナスは、レムにとっての光である。アルジュが信頼を置くのも当然のように思えた。
「そんなことはわかっているわ。ガンディアどころか、黒き矛ひとりにさえ敵わないんじゃ、戦うだけ無駄なのよ」
「黒き矛ひとりに敵わないかどうかは、戦ってみないことにはなあ」
「わたしはレムの感性を信じるわ」
「ま、別に疑ってるわけじゃないけど」
「どうでもいいわ、あんたの考えなんて」
「えらく辛辣だなあ」
「いつものことでしょ?」
「う……それはそうだけどさ」
「ゴーシュはもう少し、おとなしくすれば、女の子も放っておかないのに、ね」
「カナっちも辛辣にすぎるよ……」
肩を落としてうなだれるゴーシュの頭を撫でるカナギの横顔は、いつものように慈しみに満ちている。死神部隊の中でクレイグを除いて最年長であるカナギは、死神たちの姉であり、母であり、女神ですらあった。レムにとっては戦闘技能、暗殺技能の師匠でもあり、レムの基礎は彼女によって作り上げられたと言っても過言ではない。元は貧民街出身の小娘なのだ。他国とはいえ、王宮の中で昼食を満喫するなど、想像することもできなかった。
それがいまや国王の身辺警護すら任される立場になってしまった。まるで夢のような日々。それも、必ずしも悪い夢ではなかった。良い想いだってたくさんした。もちろん、反吐が出るようなことだってしてきたが。
すべてはクレイグと出逢い、彼の死神に魅入られからだ。
(死神……死神。わたしは死神なのよ)
レムは、ティースプーンをもてあそびながら、会場を見回した。そして、彼が見当たらないことを悟ると、胸中で嘆息する。
ミョルンでの出来事以来、レムがあまりにセツナのことばかり話題にするので、まるで恋する乙女のようだ、とゴーシュに笑われた。カナギはカナギで、レムがセツナに執心していることを心の底から心配しているようだった。そういった執着は身を滅ぼしかねない、というのだ。
(でも、あなたほどひとを殺してはいない。そんなものが死神を名乗るなんて、おかしなことよね)
彼女は、天井から降り注ぐ魔晶灯の光が生み出す己の影に視線を落とした。淡い光が作るのは、やはり淡い影であり、そこに暗い闇を見出すことはできない。しかし、影の奥底でなにかが脈打っている事実まで否定することはできなかった。
(じゃあこれはなんなの?)
『死神。そう、呼んでいる』
十年前のクレイグの声を鮮明に思い出すことができるのは、それが彼女の人生の分岐点だったからかもしれない。
「素敵だな! 素敵だったな!」
昼食を終え、大広間から出てきたシーラ・レーウェ=アバードは、侍女ウェリス=クイードを見つけると、大声を上げながら駆け寄った。久々に履いたスカートのせいで走りにくくて仕方がなかったが、彼女の類まれな運動神経が裾を踏んで転倒するような事態を防いでいた。それでもなんどか躓きそうになるのだから、女物の衣服は嫌なのだ。男物は、動きやすさという面でも優れているから好きだ、と彼女は声を大にして叫びたかったが、諦めた。
ウェリスが、にこやかに微笑んでいた。いや、ウェリスだけではない。シーラが連れてきた侍女たちの全員が全員、なにが嬉しいのか、微笑みを浮かべていた。
「そうでしょう、そうでしょうとも」
「うんうん、レオンガンド陛下も、ナージュ殿下も、とても美しかったぞ!」
「姫様も式を挙げられれば、殿下のようにお美しくなられますよ」
「な、なんでそうなるんだよ!?」
シーラは悲鳴を上げて、ウェリスの元から逃げ出そうとしたが、ウェリスの手はいち早く彼女の腕を掴んでいて、逃げようがなかった。もちろん、全力を出さずとも振りほどくことはできる。しかし、ウェリスが力を込めてシーラを引き止めている以上、力づくで振り解けば、彼女が負傷する可能性があった。
シーラには、そんなことはできなかった。
「姫様、言葉遣い」
「だ、だから、お、俺は俺らしくやるっていっただろ!」
そういいながら女物のドレスを身につけたのは、ウェリスの懇願を聞き入れたからに他ならない。シーラは、ウェリスの必死な様子を見ると、抗えなくなるのだ。彼女はただ懸命に自分の使命を果たそうとしているだけであり、そこに悪意などは存在しない。むしろ、善意や愛こそ輝いていて、その眩しさは、シーラが求めているものでもあった。
「ひ、め、さ、ま」
「う、うう……こ、言葉遣いったってよお……」
ウェリスの笑顔が迫り来る中、シーラは頭を抱えたくなった。こんなことなら、興味本位でガンディオンなんかに来るべきではなかった、とも思った。が、いまさらどうなるものでもない。
シーラが父である王の代理で結婚式に参加した理由のひとつは、黒き矛のセツナに興味があったからだ。黒き矛のセツナといえば、ガンディア躍進の立役者であり、領伯に任命されたほどの人物だ。結婚式にも当然参列すると思っていたのだが、式場には見当たらず、彼女は肩を落としたものだ。
話によれば、黒き矛のセツナは、《獅子の尾》の部下とともに今回の警備体制の要を担っているというのだが。
(手合わせしたいんだけどなあ)
シーラの考えの行き着く先は、結局のところ、それだった。
戦の一字。
それだけが、シーラをシーラたらしめるのだ。