第五十五話 王都発、敵国行――アザーク入り――
門を開いたのは、いつだったか。
クオンは、ゆっくりと瞼を開けた。いつになく体がだるいのは、夢を見ていたからなのかもしれない。救いようのない夢。だれもが絶望と言い表すような夢。そんな夢の淵で考えるのが、それだった。
突如として眼前に現れた神々しいまでの光を放つ巨大な門を押し開いたのは、いつだったのか。
(半年以上、経つのかな……)
彼は胸中でつぶやいたものの、確固たる自信はなかった。実感としてはもっと以前のように想うし、つい最近だったのではないかと錯覚することもある。半年。たかが半年だ。半年の間になにが変わったというのか。
この大陸は相変わらず停滞したままだ。大国は傍観しているかのように動きを見せず、大陸の中央に犇く小さな国々だけが飽きもせずに小競り合いを繰り返している。取るに足らない領土の奪い合いによって、なにが変わるというのだろう。いや、それはもはや奪い合いですらなくなっているのかもしれない。
国と国の衝突さえも恒常化しているのだ。国境付近での小競り合いは、もはやありふれた日常の出来事といってもいいのかもしれない。
天井を映す視界に差し込んでくるのは、窓の遥か向こうで昇りゆく朝日の光だろう。まばゆくも、暖かで優しい光。夢から覚めたばかりの目には、少々きつく感じられないでもなかったが。
クオンは伸びをすると、上体を起こした。朝の冷気は、彼の寝惚け気味の頭に覚醒を促すかのようでありながら、わずかに顔を覗かせる怠惰な心を二度寝に誘おうとするかのようでもある。このままベッドの中に潜り込んでしまうのもいいかもしれない。スウィール以外のだれも咎めはしないだろう。無論、皆に心配をかけてしまうに決まっているし、いくら暇だからといって一日布団の中に篭もっていられるはずもない。
惰眠を貪るのは今度にしよう。それがいつになるかわからないが、ともかくそう決定付けることで、彼はともすれば甘い誘惑に身を委ねかねない惰弱な心を引き締めようとした。
(惰弱……か)
彼は、部屋の隅に置かれたベッドの上で、軽く自嘲の笑みをこぼした。
クオンに宛がわれた部屋は、一人で過ごすには広すぎるほどの空間であり、彼の私物だけではその空白を埋めることはできそうもなかった。戦闘用の武具を含めたとしても、彼の持ち物などたかが知れているのだ。そもそも、武具を私室に飾るような趣味は彼にはなかった。
視界の片隅で、窓に掛けたカーテンが揺れている。窓を開けて夜空を眺めている間に寝てしまったのだろう。不用心極まりない。露見すれば、きっと皆に怒られるだろう。
クオンは、自分自身の心の弱さに呆れるしかなかった。瞼の裏には、昨夜見た満天の星空が鮮明に焼きついている。物思いにでも耽っていたのだろう。それは、自身の心の弱さに他ならない。心が強ければ、星空を仰いで想いを馳せることもなかったはずである。
これまでがそうだったように。
(そうだ)
イルス=ヴァレに召喚されてから今まで、心が揺れ動くということなどほとんどなかったはずなのだ。寄る辺なき世界でも、数多の出逢いが彼の心の孤独を埋めていった。召喚とともに心の中に生じたはずの空白は、あっという間に満たされていった。となれば、揺れるはずもない。揺れない心は確信を得、弛みない前進を後押しする強大な力となっていた。
傭兵団を組織し、各地の小競り合いに顔を出し、名声を上げてきた。戦いの中で彼のできることは数少ない。指揮を振るうといっても、難しいことをしているわけではなかった。彼の名声の多くは、仲間の活躍によるところが大きいのだと、彼は信じていた。
揺るがぬ自信を以て、この国を訪れたのはつい最近のことだ。
ベレル。大陸小国家群の例に漏れず、小さな国だ。北にザルワーン、西にはその属国ログナーがあり、南西にはガンディア、南にミオンが位置していた。北東のジベルと友好を結ぶことでザルワーンからの侵攻に備えてはいるものの、ログナー、ガンディア、ミオンや南東のラクシャなど、周囲には敵対する国が多い。
ベレルは、疲弊しかけていた。兵も民も、疲れきっていた。戦いに次ぐ戦いが、財政を圧迫し、民心に重苦しい圧力となっていた。それはどこの国とて同じなのかもしれない。数多の小国が織り成す戦乱絵巻に輝かしい未来など見出せるはずもなかったのだ。
そして最近、ガンディアがログナーからバルサー要塞を奪還し、息を吹き返したことで、ベレル国内には新たな緊張が生まれていた。要塞を奪還した勢いに乗じて、ガンディアが攻め込んでくるという噂が、まことしやかに囁かれていたのだ。ガンディアと同盟国のミオンが力を合わせて攻め寄せてきたら、ベレルは一溜まりもない。
そんな折だった。ベレル南部のマージアという街を拠点にしていた彼の元に、ベレル国王イストリア・レイ=ベレルの使者が来たのは。そして、使者が携えてきたのは、王都ルーンベレルへの招待状に他ならなかった。
そう、あれはマージアを出発するための準備をしている最中だった。
アズマリア=アルテマックスの来訪。そして明かされた驚くべき――いや、予想してしかるべき――事実は、クオンをして激情に駆り立てるものだった。なんの目的か、彼女は、彼の友人をもこの世界に召喚していたのだ。神矢刹那。彼の大切な友人だった。
(そうなんだ。セツナ……)
クオンは、深く静かに空気を吸い込んだ。朝の新鮮な空気が、肺を満たしていく。もはや眠気は消え失せた。惰弱な化身はその姿を隠し、確固たる自信に満ちた己を自覚する。過信などではない、己の実力を把握することで生まれる自信は、過剰な自惚れとはまったく違うものだ。だれしも得手不得手はあるのだ。それを自覚することが大切なのだろう。
ベッドから降りると、彼は、着替えを探した。さすがに寝間着のままうろつくわけにもいかないだろう。それこそ惰性そのものだ。
クローゼットから衣服を物色する彼の頭の中を過ぎるのは、セツナの顔だった。いつだって卑屈に笑う少年の顔は、彼の胸を強く締め付けるのだ。薄汚れた捨て犬のような、そんな表情。
(どうして、そんな顔をするんだ? 君は……)
胸中に問いかけたところで、だれも答えてはくれない。それどころか、せっかく脳裏に浮かべた友人の笑顔さえも掻き消えてしまう。そして、そのまましばらく浮上してこないのだ。まるで嫌われてしまったかのように。
心が、揺れる。
(やっぱり、君なんだ……)
わかっていたことではある。確信がなかったわけでもない。かといって、だれかのせいにもしたくはなかったのだ。心の中に生じた揺らぎの原因を、自分自身の惰弱以外に求めるなど、彼の信念が許さなかった。
しかし、事実は事実だ。
セツナの存在が、彼の心にわずかな空白を作ってしまった。今の今まで満たされていたはずの心に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまったのだ。
セツナの存在を感じ取っただけで動揺したのだ。セツナが、アズマリアによってこの世界に召喚されたことが確定された以上、彼の心になんらかの影響が出るのは当然といえた。
(逢いたいよ)
逢って、どうするというのか。
彼は、嘆息した。
セツナは、ガンディアに属する武装召喚師であり、ベレルに雇われている彼とは、立場上敵対関係にあった。偶然に逢えることがあったとしても、それは戦場以外にないのではないか。
戦場で遭ったのならば、剣を交えるしかなくなるだろう。
「笑えないな」
声に出してつぶやいて、クオンは、苦笑した。くだらないことばかりが脳裏を巡る。せっかく気を引き締めなおしても、セツナのことを考えるだけで解けていく。どうしようもない。
ふと、彼は部屋の扉に目を向けた。なんの変哲もなければ飾り気のない扉。その向こう側で物音がしたような気がして、彼はくすりと笑った。イリスだ。彼が部屋で寝ている間、部屋の外で不審者がいないか見張っていたに違いない。
あの日――彼が激情の赴くままにアズマリアに挑み、完膚なきまでに敗れてからというもの、彼には常に護衛が付けられるように手配されていたのだ。どこへ出かけるにせよ、寝ている間にせよ、彼は、心配性な仲間たちによって見守られなければならなかった。それは少しだけ窮屈で、とてつもなく幸福な境遇なのだと、彼は噛み締めるように想っていた。
こうやっていつも支えてくれる仲間がいたからこそ、いまの自分は存在していられるのだ。
(ありがとう)
胸中でイリスを含めた多くの仲間への感謝を述べたときには、彼の脳裏からセツナの気配は消え失せていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
淡い青に染まった空から降り注ぐ朝日を全身に浴びながら、ルウファは、思い切り伸びをした。食後の一時をバルガザール邸の庭園で過ごすのが、彼の日課だった。
武装召喚師の修行を終え、この家に帰ってきた彼を待っていたのは謹慎処分であり、その間、なにをすることも許されなかったのだ。街を出歩くことくらいなら大目に見てもらえたのだが、基本的には邸内で過ごさなければならなかった。そのおかげでみずからの技術の拙さを見直すことができたのは大きかったものの、やはり、暇を持て余しがちだった。そんな日々で作られた生活習慣のひとつが朝食後に庭園で読書をするというものであり、今日に至るまでほとんど毎日続けていた。
庭園のちょうど真ん中に設けられた噴水の近くの椅子に腰掛け、心地よい水音を聞きながら書物を開く。テーブルには、給仕に運ばせたティーセットがあり、クレブールから取り寄せたバラク産の紅茶が、多分に香りを含んだ湯気を立ち上らせていた。
穏やかな朝。まるで数日前の喧騒など存在しなかったかのような静寂が、この王都を包み込んでいる。王都全域を巻き込んだお祭り騒ぎなど、もう二度と起きないような気がした。あれほどの衝撃と歓喜をもたらすような出来事など、そう簡単に起こるものでもないだろう。
あれは、ただの勝利ではなかった。半年にも渡って占拠されていた要塞を圧倒的な大勝を以て取り返したのだ。王都市民の心に蓄積した鬱憤を晴らし、なおかつ、レオンガンド王への不信を拭うほどの威力を持っていた。もちろん、すべての臣民が王の実力に信服したわけでもないだろう。未だにその能力や人格に疑問を抱くものがいたとしても不思議ではない。
あまりにも長い間、蔑まれてきたのだ。〝うつけ〟などという悪評を野放しにし過ぎたのだ。浸透しきったイメージ。たった一度の勝利で払拭できるものではない。ただの奇跡だと言い張るものもいるかもしれない。相手のおかげだというものもいるだろう。しかし、勝利は勝利だ。それが運であれなんであれ、ガンディア軍は勝利し、要塞を取り戻すことができたのだ。
それは、王都の人間にとって大きな不安が取り除かれたということにほかならず、レオンガンドの実力を疑うものでさえ、この一時の平穏を享受しているに違いなかった。そして、永続して欲しいと願っているのだろう。
それは構わないし、ルウファだってそう想ってはいた。このような穏やかな朝を迎えることこそ、至上の幸福なのだから。
「いよいよ明日ね!」
「わっ!?」
不意に背後から声をかけられたことに驚き、彼は、素っ頓狂な声を上げながら椅子から滑り落ち、地面に臀部を強く打ちつけた。拍子に手から離れた本が宙を舞い、痛みに顔を顰めるルウファの顔面に覆い被さってきた。呆れ果てたような声が、頭上から降ってくる。
「驚きすぎよ」
「すみません……つい」
反射的に謝りながら、ルウファは、顔面に覆い被さった本を手に取った。ファリア=ベルファリアの半眼が、いつになく痛く感じられるのは決して気のせいではないだろう。
ルウファは、立ち上がると、本をテーブルに置いた。紅茶をこぼさなかったのはせめてもの幸いかもしれない。ファリアに向き直る。彼女は、《大陸召喚師協会》の制服ではなく、動きやすそうな上下を着こなしていた。彼女がここにいるのは《協会》の仕事ではなく私用であるからというのが制服を着ない理由だという。《協会》の仕事よりも優先すべき私用とはなんなのか、ある程度の推測はできるものの、取り立てて話題にすべき事柄でもないだろう。その私用とやらのおかげで、ファリアという才能に満ちた個人と任務を共にすることができるのだから。
「つい……って」
「本を読むのに夢中になっていたんですよ」
「ふうん。感心はしないけど、まあいいわ」
ファリアが半眼を止めたのを見て、ルウファはほっとした。彼女にはやはり半眼は似合わないし、なにより、その冷ややかな視線は少しばかり痛かった。即座に話を変える。
「ところで、なんでそんなに嬉しそうなんですか?」
「セツナは嬉しくないの? 任務よ、任務!」
「セツナって……」
「いまの君はセツナ=カミヤよ。それ以上でもそれ以下でもないの。それは肝に銘じておくべきね」
ファリアのにべもない台詞に、ルウファは、憮然とした。彼女の言うことはもっともだし、反論の余地もない。その通り。完全無欠といってもいい。しかしそれでも、心の奥底から鎌首をもたげて主張してくるのが、自我というものなのかもしれない。
「すぐには慣れませんよ」
「ま、それもそうよね。というわけで、これ。今日中に目を通しておいてね」
あっさりとルウファの言い分を受け入れるとともに、彼女が差し出してきたのは一通の封筒だった。中には手紙か何か入っているのだろう。外から内容を把握できるはずもなく、ルウファは、彼女から受け取りながら問いかけた。
「これは?」
「ラブレターよ。わたしからの」
などと、にこやかにウインクを飛ばしてきたファリアに、彼は、ただ生返事を浮かべるしかなかった。予想だにしない返答には多少の混乱を覚え、彼女の軽やかな笑顔にはわずかな眩暈を禁じえない。
「はあ……?」
「じゃあ、わたしは白聖騎士隊の皆さんに挨拶してくるから」
「あ、ファリアさん、ちょ、ま――」
こちらの制止にまったく耳を貸すこともなく、颯爽と庭園を後にするファリアの背中を見遣りながら、彼は、ぼやくようにつぶやいた。
「ラブレター……って」
封筒を見下ろす。ラブレターなどといいながらも、封筒にはなんの飾り気もなかった。嘆息する。ファリアと話していると、どうも自分の調子が乱されてしまうような気がした。彼女の波動に飲み込まれてしまうような、そんな感じさえ受ける。それはさほど不快ではなく、むしろ心地良い部分もあるのだが、だからといって彼女の色を受け入れてしまえるほど、ルウファは大人ではなかった。
封筒の中を覗くと、丁寧に折り畳まれた一枚の書簡が入っていた。
「これ、術式じゃないか……」
手紙に書き記されていたのは、召喚法式に則った古代文字の羅列であり、その美しい筆跡にはルウファも目を奪われるほどだった。書き記された数多の文字は、まるで艶美な舞を踊っているかのようでありながら、決して読み難いわけではなく、武装召喚師ならばだれでも理解できるような筆の運びだった。彼女の遊び心が覗く一方で、技量の高さが窺える手紙だといえるだろう。
そして、その古代文字の羅列がルウファの網膜に入り込んだとき、彼の脳裏で構築されたのは、彼がセツナ=カミヤを演じるためにもっとも必要なものだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ワーラムは、アザークの代表的な都市である。
アザーク領北東部に位置するその大都市は、首都ザーク・レムにも匹敵するほどの壮麗さを誇るといわれており、人口もまた首都に次ぐという。たった一代で莫大な富を築き上げた豪商ロマーク=バードの生誕の地でもあり、彼の成功にあやかりたいという商売人が多く訪れるということでも知られている。
ワーラムは、ラクサスたちのとりあえずの目的地でもあった。
「国境を越え、ついにアザークに足を踏み入れたか」
ラクサスは、青空の下に広がる景色を眺めながら、だれとはなしに言った。ガンディア王国マルダールから伸びるベイル街道は、ようやくというほどのこともなく国境を越え、アザーク領に入っていた。景色にさほどの変化は見受けられない。他国に入ったとはいえ、隣国である。なにからなにまで変わるわけでもない。幅の広い街道が通る大地が、青々とした草原からだだっ広い平原に変わったくらいのものだ。
「馬車ん中ですけどね」
どこか怒ったような少年の声は聞き流して、ラクサスは、目の前に広げた地図に視線を戻した。セツナの言う通り、馬車の中である。多少の振動が、ガンディア周辺を描いた地図を揺らしていた。ガンディアとアザークの国境を問題なく通過できたのは、双方が矛を収め、一先ず休戦したからだ。
ガンディアにとっては、アザークとの小競り合いに兵力を割くのは得策ではなく、アザークとしても、衝突を長引かせるのは本意ではなかったのだろう。敵国がガンディアのみならば兵力の集中もできるのだが、そう上手くいかないものだ。なにより、対ガンディアに全力を展開したが最後、ガンディアの同盟国ルシオンが間髪を挟まずに侵攻してくるに違いないと判断したのだろう
「今日中にはワーラムに到着できるだろう」
「そりゃあんだけ早く出発したんですし、当然ですよね」
投げやりでぞんざいな口振りに、ラクサスは顔を上げた。視線の先には、幌馬車の側面に穿たれた大きな穴があり、その向こう側にのどかな風景が流れていくのが見える。幌は、昨夜襲来した皇魔によって切り裂かれていたのだ。それに気づいたのは、セツナとランカインの活躍によって皇魔を殲滅した後だった。幸い、馬にも馬車にもそれ以上の被害は及んでおらず、彼はほっとしたものだったが。
「……セツナ?」
「なんです?」
「なにをむくれているんだ?」
「むくれてなんかないですよ」
「いや、むくれているだろう」
「……じゃあ、ひとつ言っていいですか?」
「なんだ?」
「なんでここまでされなきゃいけないんですか!」
セツナの悲鳴のような大声に、ラクサスは、ようやくそちらに目を向けた。馬車の奥。多少の荷物が視界に入ってくる。道中に必要なだけの衣類や食料である。それらに紛れて、異様に膨らんだ布袋だろう。そして、セツナの叫び声はその袋から聞こえてきていた。
不意に、今の今まで黙していたランカインが、嘲笑った。
「君が血塗れだからだろう? 拭っても拭っても拭い切れないほどに」
「うっせー! てめえにゃ聞いてねえよ!」
布袋から頭だけ出していたセツナが、ランカインに噛み付くように叫ぶ様を見遣りながら、ラクサスは、彼らの間を取り持つことなどできないだろうという諦めにも似た確信を抱いた。セツナはランカインに敵意を剥き出しにしているし、ランカインはそんなセツナの敵意にむしろ嬉々とした殺意を放っているのだ。関係が悪化することはあっても、良好になることなどないだろう。それは奇跡に等しいような気がした。
「騎士殿、この小うるさい物体は外に捨てませんか?」
「あ! てっめ! ふざけんじゃねえ!」
「……静かにしたまえ」
ラクサスが冷ややかに一瞥すると、セツナは口を噤んだ。
嘆息する。この調子で、無事に任務を遂行できるのだろうか。能力は認める。セツナの実力は、昨夜の一戦でよく理解できた。想像以上といってもいい。多数の皇魔を相手にしてもまったく怖じる様子はなく、その戦い振りは、悪鬼だなんだと噂されるほどのことはあった。
目の当たりにしたことで、実感する。セツナは、ガンディアにとって大きな力となるだろう。レオンガンド王が欲するのも無理はない。彼が皇魔と等しい存在であろうと、それだけの力があるのならば、利用しない手はなかった。
しかし、人間的にはまだまだ成長途上だといわざるを得ない。ランカインを許せないという感情はわかる。ラクサスとてガンディアの人間なのだ。カランの人々が無意味に虐殺されたことへの怒りと哀しみは、セツナ以上であるはずだ。だが、彼は、みずからの感情よりも任務を優先することができる。そして、任務についている間は、ガンディア王家の騎士としての人格が彼から感傷を消し去った。
いずれ、セツナもそのようになるのだろうか。
(それは成長なのか?)
ふとした疑問もまた、騎士ラクサス=バルガザールの胸中で霧散した。
彼は、セツナに穏やかなまなざしを向けた。先ほどから沈黙を保ったままのセツナの顔面には、皇魔の返り血が張り付いていた。ランカインの言った通り、何度拭っても拭い切れなかったのだ。水で洗い落とせばいいのだろうが、あいにく持ち合わせの水はわずかな量しかなく、その上セツナの傷口を消毒する際にも使っており、顔や手についた返り血を洗うために使うのは憚れた。セツナ自身がもったいないといってきたのもあるが。
衣服はもちろん着替えているが、顔面や頭髪に降りかかった血の量は相当なもので、衣服が綺麗なため余計に目立っていた。彼が昨夜、どれだけの皇魔を殺したのか、全身に浴びた返り血の凄まじさで十分伝わるだろう。
「夜のうちに話しただろう? 彼の言った通り、君は血塗れだ。そんな君を事情を知らない人間が見たらどう想う? 我々の任務に失敗は許されないんだ。アザーク国内にいる間は、どんな些細な問題も起こしたくない。もうしばらくの間、我慢してくれないか?」
ワーラムに着けば、宿の風呂で洗い落とせる。それまでの辛抱だ、と付け加えると、セツナが、それでも納得できないといった様子で言ってきた。
「でもだからって、寝ている間に袋に押し込めることないじゃないですか」
彼の言うことももっともだと、ラクサスは、胸中でうなずいたのだった。