第五百五十六話 血と魂(四)
大陸暦五百一年十二月六日。
その日、ガンディアの王都ガンディオンは、歴史的な人出で賑わっていた。
都市警備隊のみならず、軍の手も駆り出さなければ警備にならないというほどの人数が、ガンディア各地、近隣諸国から訪れており、王都の市街からも溢れ出すほどだった。城壁外に新たな区画を急遽設ける必要があったほどであり、ガンディアの歴史に残る日になることはだれの目にも明らかだった。
なにより、ガンディアをここまで大きくした若き獅子王の結婚式なのだ。歴史に刻まれるのは当然であり、だからこそ、多くのひとが王都に集まったのかもしれない、歴史に残る瞬間をこの目に焼き付けたいだとか、歴史の証人になりたいだとか、純粋に国王の結婚式を見届けたいだとか、様々な想いが、王都を熱気で包み込んでいる。
そのためなのかどうか、冬の朝だというのに王都全体が熱を帯びているかのようだった。
空は快晴。まるでレオンガンドとナージュの結婚を祝福するかのような、雲ひとつ見当たらない空模様であり、天に昇りつつある太陽の輝きは、ガンディア王家の隆盛を象徴するようだというものもいた。
セツナたちの《獅子の尾》は、当初の予定通り、王宮区画の警備についていた。王宮区画の外周を巡る円環状の城壁、その四方にある門の上方から各所を警戒するというものであり、四人の武装召喚師が所属する《獅子の尾》ならではの任務だった。通常人ならば、城壁上から王宮の内外を警戒するのは難しいだろう。無論、望遠鏡などを用意できればいいのだが、この世界では望遠鏡は高級品であるらしく、数を用意するのは簡単なことではないらしいのだ。武装召喚師に頼るのも仕方なしといったところだろう。
もちろん、セツナたちだけが王宮の内外を監視しているわけではない。
王宮内部には、王宮警護と王立親衛隊《獅子の爪》が目を光らせており、結婚式の主役であるレオンガンドの身辺には《獅子の牙》がついている。レオンガンドに関しては、《獅子の牙》がついていなくとも、アーリアが護衛についている以上、心配は不要だが。
もうひとりの主役であるナージュ・ジール=レマニフラには、姫の父であるレマニフラ国王イシュゲルがレマニフラからつれてきた精鋭中の精鋭である紅貴隊が、彼女の警護についていた。また、ナージュの身の回りには、常に三人の侍女が控えており、ナージュの身に災難が降りかかるような事態はなさそうに思えた。
当然のことだが、護衛が必要なのは、主役のふたりだけではない。
レオンガンドは、ナージュとの結婚式を大々的に行うことによって、ガンディアの威信を小国家群に知らしめようとしており、近隣諸国の王侯貴族をその立会人とするべく、数多く招待していた。イシュゲルまで参列するとは予想外だったようだが、それ以外の参列者は、概ねガンディア側の予想通りといっていいようだった。
同盟国として付き合いの長いルシオンとミオンは無論のこと、敵対的な国として知られるアザークからも第二王子が王宮を訪れており、王子の身辺を警護するアザークの近衛兵は、並々ならぬ緊張感で顔面蒼白になっていた。第二王子自身はのほほんとしているようなのだが、それがまた、近衛兵の緊張を煽るのかもしれない。
ベレルの国王夫妻と王子、そして人質として王宮で暮らしている王女は、ベレルの騎士団に護られている。ジベルからは国王と王子が参加していて、身辺警護を死神部隊に任せていた。黒衣に獣の仮面を被った戦士たちは、それだけで異様な存在感を放っていたが、これだけ堂々と姿を表していると暗躍する可能性は少なそうに思えた。セツナは、死神部隊を王宮内で見かけただけで、直接言葉をかわしてはいない。
メレドからは国王とその親衛隊だけが、王都を訪れていた。国王の身辺はわずかばかりの親衛隊が護っているだけであり、メレドからガンディオンへの移動の際も、軍隊を用いなかったらしい。それほどまでに親衛隊を信頼しているのだろうが、メレド王の親衛隊を構成するのはどう見てもセツナと同年代か年下の少年たちであり、とても歴戦の強者には見えなかった。しかも、そのひとりひとりが見目麗しい美少年なのだ。少年たちは、男でもはっとするほどの色気を帯びており、中には少女と見紛うばかりの少年もいた。そんな少年たちがルベンを襲った皇魔軍団を撃退したという話を小耳に挟んだものの、セツナには、にわかには信じがたかった。
イシカからは王子が、弓聖と呼ばれる弓の名手とともにガンディオンに来ていた。弓聖の名は広く知れ渡ったものであり、一時期は黒き矛より余程有名だったらしい。それも当然だろう。セツナが黒き矛を振り回し始めたのは半年前のことだ。黒き矛以上に有名な二つ名があっても何ら不思議ではなかった。
アバードからは、ナーレスが持て余したという獣姫が、その軍勢とともに訪れている。獣姫ことシーラ・レーウェ=アバードは、一見すると美貌の王子のようであり、遠目からではお姫様には見えなかった。近くで見れば、シーラが男物の衣服を着こみ、男性的な髪型をしている女性であるということがよくわかる。見事な白髪は、アバード王家の血の証だということだった。
アバードの隣国であるシルビナにも招待状を送ったというのだが、シルビナからは返答すらなかったらしい。レオンガンドは、シルビナの無反応に対しては笑っただけだった。シルビナはグランドール、マルディアとの戦争の最中であり、結婚式になど参加している場合ではないのだ。
同様に、戦争の真っ直中にあるクルセルクには、招待状すら送っていない。それは、クルセルクが今後、ガンディアの敵になると想定されていたからだが、最大の要員は、クルセルクが皇魔を使うからだ。
皇魔を率いる魔王に対して、結婚式の参列を呼びかけることはできない。
『皇魔がこの世になにをもたらしたのかを考えれば、当然のことだ。あれらは、おまえとは違うのだ。セツナ』
レオンガンドの言葉が、セツナの耳に残っている。
『わたしが魔王と手を組むことなど、あるべきではない。たとえ魔王がクルセルクに人間と皇魔の共存する楽園を築き上げていたのだとしても、到底、受け入れられるものではないのだ』
皇魔がいかなる存在なのか、セツナもよく知っている。何度となく戦い、何度となく滅ぼしてきた。人外異形の化け物ども。セツナも異世界の存在ではあるが、彼らとはまったく別の生き物だということははっきりといえた。人間と見れば襲いかかり、殺戮するのが皇魔なのだ。セツナとは違う。少なくともセツナは、だれかを殺したいと思ったことはなかった。
皇魔とて、止むに止まれぬ事情があるのかもしれないが、そんなことは知ったことではなかった。人間は人間で必死なのだ。故に大陸中の都市という都市が堅牢な城壁で囲われることになったというのだが、それでもひとびとに安息は訪れていない。
皇魔はいつだって、人間の隙を窺っている。
「皇魔が攻めてくる可能性は……」
セツナは、黒き矛を握り締めると、力の開放を命じた。カオスブリンガーの能力は、ザルワーンの守護龍との戦いを経て、一段階も二段階も上がっているようだった。とてつもなく膨大な力が、黒く禍々しい矛から伝わってくる。とてつもなく破壊的で凶悪な力が、セツナの身の内でのたうち回り、衝動となって駆け抜ける。
意識が肥大する。五感の急激な拡張が、世界の変化のように感じられた。見えているものすべてが変化してしまったかのような錯覚。目に映るのは、王宮外周城壁北門から見下ろす群臣街の町並みであり、軍人や役人の家族でごった返す景色だった、その中にはバルガザール家の使用人がいたり、《獅子の尾》隊舎の改装に関わった大工がいたりして、そういったひとびとの関心が北門前の通りに集まっていることもわかった。視線まではっきりと認識できる。声も聞こえれば、足音まで鼓膜を叩いた。だが、聞こえすぎるのは問題もあった。罵詈雑言まで、セツナの耳に突き刺さるからだ。それは他の感覚にも言えることだ。一部の感覚はわざと低下させなければならないほど、黒き矛の補助は強烈過ぎた。
しかし、その強烈な感覚さえも支配するだけの力が、カオスブリンガーにはある。
(だからこそ……だな)
セツナは、王宮にも群臣街にも異常が見当たらないことを確認すると、黒き矛の力を制限した。強大過ぎる力に酔いかけている自分がいることに気づいたのだ。ただひたすらに圧倒的な力が見せる世界は、あまりに卑小だった。なにもかもが小さく見えてしまう。愚かなことに命を削っているのではないか、という疑問さえ湧いた。あのまま力を解放していれば、ミリュウのような事態になったのかもしれない。
(力に酔うな。酔えば、終わりだ)
自戒を込めてつぶやいた直後、眼下でどよめきが起きた。王宮のほうからだった。
王宮では、結婚式がそろそろ始まる頃だった。式場は王宮大広間である。そこに各国からの参列者が集っており、ガンディアからの参列者も集まっている。もっとも、ガンディアから結婚式に参加している人物といえば、貴族ばかりという印象が拭えない。
まず、軍の最重要人物である大将軍アルガザードは、ザルワーンから離れられないという事情があった。ザルワーンは安定したとはいうものの、それは大将軍という存在があってこそのものであり、容易に動くことはできないのだとか。そうなればアスタル右眼将軍も動けず、ガンディアの三将軍のうち、デイオン左眼将軍だけが参加するということになっていた。あとはガンディア方面軍の軍団長が参列するということくらいしか知らなかった。
ナーレスも参列するに違いないが、彼が軍に所属しているのかどうかはセツナにはわからない。大将軍に並ぶ地位にあるのは知っているのだが。
レオンガンドの四友も、軍属ではない。側近に取り上げられたエリウス=ログナーも、だ。
要するに軍関係者は極端に少ないのだ。それに引き換え、軍とは関係のない貴族は大勢参加していた。筆頭に挙げるべきは、太后グレイシアだが、レオンガンドの母親である彼女が参列しないはずもない。ラインス=アンスリウスを始めとする反レオンガンド派も、何食わぬ顔で式場にいるのだろう。ラインスはレオンガンドの伯父でもあるのだ。当然のような顔をしていても、不思議ではなかったし、それくらいの肝がなければ、セツナの暗殺など企てられるとは思えない。
ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールも、参加していた。ケルンノールの領伯であるジゼルコートからは、同じ身分のものとして挨拶されたものの、身分はどう考えても彼のほうが上だった。ジゼルコートは、先王シウスクラウドの弟――つまりレオンガンドの叔父に当たる人物であり、ガンディア王家の出身なのだ。セツナと比較するべきではない。
それでも、同じ領伯でありながら、式場に入ることを許されたジゼルコートが羨ましくないといえば、嘘になる。
(その場にいたかったな)
レオンガンドとナージュのたった一度の結婚式なのだ。主君と仰ぐだけでなく、心の底から信頼する人物の晴れの舞台でもある。結婚式に参列したかったと心から思ったが、セツナの役割を考えれば、それが無理だということもわかっていた。
『《協会》に君たちの代わりとなる武装召喚師を派遣してもらおうかとも考えたんだがな……わたしとナージュの結婚式を護るのは君たち以外にはあり得ないと思い直したんだ。黒き矛のセツナこそ、ガンディア躍進の象徴ということもある』
レオンガンドは、セツナの心中を察したかのようにいったものだ。だからセツナはレオンガンドが好きなのだ。無論、セツナは警備に関して不満や愚痴をこぼしたことなどない。レオンガンドは、ただ、セツナの気持ちを考えてくれただけのことだ。
その気遣いだけで、いくらでも戦える気がした。