第五百五十三話 血と魂(一)
十二月四日。
二日後の結婚式に向けて、王都ガンディオンは、ガンディア始まって以来の賑やかさに包まれていた。
ガンディア始まって以来の盛況を記録するのは、当然だった。ガンディアという国の規模が、この半年で大きく変動している。以前は、ガンディア一国だったが、いまではログナー、ザルワーンをもガンディアの国土となっており、領土は当初の四倍以上に広がっていた。国土が広がれば、それだけ国民も増える。ガンディア人だけでなくなり、ログナー人、ザルワーン人がガンディアの国民として数えられるようになっている。
膨大化した人口、多様化した人種。
王都ガンディオンがガンディア人だけのものでなくなったのは、ログナー平定からではあるが、ザルワーン制圧後、ザルワーンからの流入者が増えたのは事実だった。ガンディア人になった以上、その首都で生活をしたい、と考えるものが少なからずいたという話だったが、王都の土地にも限界がある。
群臣街の一部を切り崩してでも市街を拡張するべきだ、と主張する声が罷り通るほどに、王都の人口が増えていた。だが、人口の増殖は、なにも市街に限った話ではない。王宮区画の住人も、群臣街の住人も、戦勝ごとに増えていた。
王宮区画には、ログナーとザルワーンの一部貴族が招かれていた。貴族は王宮区画で暮らすものだという古い慣習は、レオンガンドにもいかんともしがたいものがあるのかもしれない。貴族たちの派閥争いを監視できるという点では有用でもあるようだが。
群臣街には、ログナーやザルワーンからガンディア軍に入ってきた軍人も住み始めていた。もちろん、全員が全員、王都に住むわけではない。ガンディア方面軍に配置されたものか、軍の上層部に招かれたものくらいだった。それでも、土地があまりに余っているという状況はなくなっていた。
もっとも、王都がひとでごった返しているのは、レオンガンドの結婚式が最大の原因だった。
十二月に入ってからというもの、ガンディアからの招待に応じた各国首脳が、続々と王都を訪れ始めたのだ。
当然、各国首脳がそれぞれ少人数で来るはずもない。王侯貴族なのだ。王都こそ厳重極まる警備体制が敷かれているものの、ガンディオンに至る道中、なにがあるかわかったものではない。ガンディアの領土内であっても、安全とは言い切れない。この大陸には、皇魔という人類の天敵が存在する。
セツナは、獅子王宮外周城壁北側から王都の北部を眺めていた。手にはカオスブリンガーを握りしめており、彼の感知範囲は通常以上のものになっている。北側にいても、王宮全域くらいならば掌握できていた。ザルワーン戦争以前よりも感度も範囲も広がっているということに戸惑いを覚えたのも、今は昔の話だ。
いまは、その感知範囲の広さに感謝しなければならない。
これならば、王宮内でなにがあっても即座に対応できる。
(とはいえ、なにかあるのか?)
レオンガンドが招待状を送った国々のうち、参加を表明したのは、ルシオン、ミオン、レマニフラ、ベレル、ジベル、アザーク、メレド、イシカの八カ国である。
ルシオンからは王子夫妻が既に訪れており、レオンガンドとナージュの結婚を心から祝福していた。ミオンからは国王と突撃将軍が、ベレルからは国王夫妻が来訪する予定になっていて、レマニフラの王が遠く南方より王都を訪れたのは、記憶に新しい。イシュゲルとの会食に関しては、緊張しすぎてなにがなんだかわからないまま終わってしまったという記憶しかないが、ファリアやミリュウの話を聞く限り、セツナはへまをしなかったようだった。それだけでもほっとしている。
(だれがなにを企む?)
王宮内にレオンガンドの敵対勢力がいる。苦い記憶だ。セツナは、それらの暗躍によって死地をさまよったのだ。結果的に生き残ったものの、ちょっとしたボタンの掛け違えが、セツナを死に至らしめるところだった。
太后派。いや、いまは反レオンガンド派といったほうがいいだろう。太后グレイシアは、もはやレオンガンド派の掌中にあった。
セツナは、レオンガンド派の領伯という立場上、後宮に自由に出入りすることができるためなのか、たまにグレイシアに呼ばれることがあった。
グレイシア自身は母性愛に満ちた女性であり、セツナは、彼女に自分の母親の面影を重ね合わせてしまいがちだった。グレイシアはグレイシアで、実の母のように思ってくれても構わないというのだから困りものなのだ。
反レオンガンド派首魁ラインス=アンスリウスは、後宮をレオンガンド派に掌握されて以来、奇妙なほどおとなしくなっていた。真面目に政務をこなすだけの毎日であり、レオンガンドたちの足を引っ張るような行動も取らない。それは彼だけのことではなかった。反レオンガンド派に属するだれもが、まるでなにごともなかったかのように、職務に励んでいるというのだ。
『不気味よね』
『今度なにかあったらただじゃおかないわ』
ファリアが呆れ、ミリュウが憤慨したものだ。
(ラインス……またあんたが仕掛けるのか?)
セツナは、群臣街を北から進んでくる一団を見遣りながら、ラインス=アンスリウスの気品のある顔を思い浮かべた。決して悪い人間ではないと、セツナには思えるのだ。ただ、レオンガンドを憎むあまり、正常な判断ができないだけなのではないか。政治家としてのラインスが有能なのは、レオンガンドたちも認めるところなのだ。彼が改心し、ガンディアのために尽力するのならば、それもいいのではないか、とも思うのだが、オーギュストたちはそう考えてはいないらしい。
反レオンガンド派が改心することなどありえない、というのだが。
そのときになって、群臣街から王宮を目指す一団が、国旗を掲げていることに気づいた。
(ふたつの流れ星……アバードだっけ)
『アバードの獣姫には注意する必要があります』
といったのは、ナーレス=ラグナホルンだった。
『彼女には道理は通らないんですよ』
彼は、ザルワーン工作中、アバードに赴くことがあったらしく、そこで件の獣姫と対面したらしいのだが。
『なんとも手におえない方でして。セツナ様も注意を』
軍師殿が手に負えないというのだから余程の難人物なのだろうと思ったセツナだったが、不意にアバードの一団から聞こえてきた叫び声に首を傾げた。
「ったく……かったりーなー」
シーラは、肩まで凝ってくるような気分になって、軽く首を回した。周囲では、無数の人馬が彼女と歩幅を合わせるように移動している。実際、彼女の移動速度に合わせて歩いているのだが、それが遅々たるものであるため、遠くから見れば、黒山の人だかりがゆっくりと動いているように見えてもおかしくはなかった。
「姫様、そのような言葉遣いは、ここではやめていただきとうございます」
「そうはいったってなあ」
「姫様、ここはアバードではないのです。姫様がいかな御仁なのか知っている方は少ないと思われます」
「だから、なんだよ……」
侍女ウェリス=クイードの忠告を聞くほうがよほどかったるいという事実に行き当たり、シーラは、ただ肩を落とした。
晴れやかな空の下、吹き抜ける風は冷たく、馬車の中に籠もっておくのが正解だったということを身を持って思い知る。が、いまさら馬車に戻せ、とは彼女の性分としていえるはずがなかった。ここで寒さに負けては、シーラ・レーウェ=アバードの名が地に落ちるだろう。
徒歩になったのは、王都の市街を抜け、群臣街と呼ばれる区画に入ってからだ。それまではずっと馬車に揺られていたのだが、アバードからここに至るまでほとんどの時間を馬車の中で過ごしてきたのだ。さすがの彼女も我慢の限界がきていた。いや、シーラとしてはよく我慢したほうだった。自分で自分を褒めてやりたいと思うほどだった。
それもこれも、ウェリスが口うるさくいうからにほかならない。
侍女ウェリスとは長い付き合いだが、シーラとともに国外に出るのはこれが初めてのことであり、ウェリスとしては、シーラに恥をかかせないようにするために必死らしかった。その必死さに免じて、シーラも唯々諾々と彼女のいうことを聞いて、馬車の中でおとなしくしていたのだ。首都バンドールからガンディオンに至るまでの十数日間、ただじっとしているのがどれほど苦痛だったのか、シーラにしかわからないのかもしれない。
「姫様は王子ではないのです。王女、姫君でございます。女性らしく振る舞っていただかなければ、姫様の評判に関わります」
「どんな評判になろうがしったこっちゃねえよ……」
シーラは、ウェリスの強い口調に頭を抱えたくなった。ガンディオンでの結婚式に参列することが決まってからというもの、ウェリスは毎日、シーラに女性らしい振る舞い方を説いていた。男として育てられたシーラにしてみれば、いまさら自分に女らしさを求められても、という気持ちがある。もちろん、ウェリスの気持ちもわかるし、彼女がシーラの両親――つまりアバードの国王夫妻――に頼まれて、シーラを女性として教育し直そうとしているのもわかる。
八年前、両親に待望の男児が生まれた。王子である。王子はセイルと名付けられ、第一王位継承者として認定された。その十四年前に生まれたシーラが持っていた王位継承権は、一瞬にして過去のものと成り果てた。それまで王子として、男として育てられてきたシーラは、一夜にして王女に戻ってしまった。
彼女の中で混乱があった。
シーラが男として育てられたのは、父と母の間に次子が生まれなかったからだ。第一王女が誕生してから数年の間、子供が生まれる兆候すらなかった。
王位継承権は、当然、シーラに与えられることになった。そこまではいい。そこでなにを勘違いしたのか、アバードの国王夫妻は、彼女を王子として育てるようになったのだ。
王位を受け継ぐものは、雄々しくなければならない。
アバード王リセルグはそのように考えていたらしい。
果たして、シーラは、戦場で暴れ回る勇猛な戦士へと成長したが、アバード国王夫妻がそこまで望んだのかはわからない。
ともかく、彼女は、王女に戻ってしまったものの、それからも自分らしくあり続けようとしていた。つまりは、王子として育てられたことを忘れられなかったのだ。だから、いまでも男物の衣服を好んで身につけている。言葉遣いが荒っぽいのも、それが原因だった。
「知ってください。姫様はアバードの代表として、レオンガンド陛下の結婚式に参列するのですよ」
「わーってるよ」
「なにもわかっておられません。アバードだけでなく、ガンディアと友好的な国々からも、様々な方が来られるのです。姫様、これはいい機会なのですよ?」
ずい、と顔を寄せてきたウェリスの鼻息の荒さに、シーラは唖然とした。
「は?」
「ジベルしかり、ベレルしかり、アザークしかり……まだ結婚されていない王族の方々が来られるというのですから、姫様の結婚相手を見つけるには、これ以上の舞台はございません」
「な、なななな、なにをいってるんだ!?」
「姫様ももう二十二歳。王女として考えた場合、結婚するには遅すぎるといっても過言ではない年齢です」
シーラは、顔を真赤にしながらも、ウェリスのいうことはよくわかっていた。王位継承権を持たない王女といえば、政略結婚に使われるのが普通だ。他国との同盟のため、同盟の紐帯を強くするため、支配下貴族との繋がりを強めるため――理由は多々あれど、家のため、国のために他家に嫁ぐのが、この乱世の習わしといってもよかった。
しかし、シーラは、そういう話が持ち上がったことさえなかった。父リセルグがシーラを手放そうとしないから、ではなく、シーラを政略の道具として用いるよりも、戦略上の重要な駒として用いるほうが、アバードにとって有益だということを知っているからだ。
王子として育てられたシーラは、いずれ王としてアバードの陣頭に立つものに必要なすべてを叩きこまれている。戦闘技術、基本戦術、部隊指揮、軍団運営……彼女が獣姫と呼ばれるようになったのは、そういったことが主な原因なのだろう。
「だ、だけどよお……!」
「姫様の容姿だけは完璧といっても過言ではないのですから、女性らしく振舞っているだけで、殿方を虜にできるはずです」
「容姿だけってなんだよ……っていうか、そんなの無理に決まってんだろ!」
恥ずかしさで全身が焼けつくような気がして、シーラは叫び声を上げた。ウェリスはなぜ恥ずかしがっているのかわからないという様子だったが、ほかの侍女たちは、シーラの反応を可笑しがっているようだった。必死になって笑いをこらえているのだ。なにがおかしいというのか。
(おのれら……)
シーラは侍女団に襲いかかろうかと思ったが、やめた。場所が場所だし、ウェリスの忠告もあった。彼女のいうとおり、結婚相手を物色する気はないにしても、多少は女らしく振る舞おうと考えたのだ。ウェリスは、自分の職務を全うしようと必死なのだ。そういう彼女だからこそ、シーラは、ウェリスを遠ざけようとしなかった。
群臣街も中程まで来ると、王宮区画の外周城壁が見えてくる。ガンディオンは、三重の同心円を描くような構造をした都市であり、とても弱小国家だった国の首都とは思えないような壮観さを誇っていた。円周状の城壁は全部で三つあり、市街の外周を巡る城壁、市街と群臣街の境界を巡る城壁、そして群臣街と王宮区画を隔てる城壁である。もっとも巨大なのは市街の外周城壁だが、もっとも堅牢そうなのは、王宮の外周城壁だった。
ガンディオンの王宮区画には、王侯貴族が勢揃いしているというのだ。城壁も頑丈にしなければなるまい。
ふと、シーラの青い目が、城壁の上に立っている人物を捉えた。たったひとり、外周城壁の北門を監視しているとでもいいたげな佇まいだった。
「なあ、あれは……あれが、黒き矛か?」
目を凝らすと、漆黒の矛を手にしているように見えたのだ。しかし、いくら視力に自信があるといっても、彼女の居場所から王宮の城壁はあまりに遠かった、結論に自信が持てないのだ。
ウェリスが鞄から双眼鏡を取り出す。双眼鏡は、アバードが北から取り寄せたものであり、とてつもない高級品なのだが、シーラを監視するためという馬鹿げた理由でウェリスに与えられている。
「……確かに黒い矛を持っていますね。それにあの隊章は《獅子の尾》……」
「つまり、あれが黒き矛のセツナってやつか」
セツナ・ラーズ=エンジュール。ガンディアの王宮召喚師であり、王立親衛隊《獅子の尾》隊長であり、エンジュール領伯。
黒き矛の武装召喚師は、ガンディア躍進の象徴として知られ、ザルワーン戦争の活躍ぶりは、アバードにも伝わっている。
シーラは、黒き矛と手合わせする夢に見るくらいには、セツナに興味があった。それは単純に強者への好奇心であり、戦闘者としての極普通の感情だった。そこに雑念が入り込む余地はない。ただ戦いたい、刃を交えたいというだけの意志、それだけの想い。黒き矛の噂が真実ならば、刃を交えた瞬間には彼女は死んでいるのだろうが。
それでも、強い相手と戦いたいというのは、戦士ならば当然の感情ではないか。
シーラはそう思うのだが。
「敵愾心を燃やさないでくださいよ。セツナ伯も、姫様の結婚相手に相応しいひとりなのですから」
「だだだだから、なんでそうなるんだよ!?」
「セツナ伯は、ガンディアにおいてはたったふたりしかいない領伯。いまでこそエンジュールだけしか領地を持っていませんが、今後ガンディアが拡大すればさらに多くの領地を得ることは明白。陛下はガンディアと友好関係を結びたいと仰られておりましたし、姫様の嫁ぎ先としては十分考えられます」
「うがあああああああああ! もう、この話、終わり!」
シーラは、絶叫とともに一方的に会話を断ち切ると、きょとんとするウェリスを尻目に、王宮に向かってどしどしと進み始めた。
女らしく、などと考えるから駄目なのだ。
(俺は俺らしくやってやる!)
シーラは、頭を振って、考えを改めたのだった。