第五百五十話 風鳴
耳鳴りがする。
上天まで突き抜けるような青空の下で、ルウファは、ひとり立ち尽くしていた。
王都ガンディオン獅子王宮、外周城壁の上に立って、王宮区画、あるいは群臣街を見回してはため息をついた。澄み渡る青空が、ことさらに目に染み入るようだった。
群臣街に立ち並ぶ無数の屋敷や邸宅、隊舎は、ガンディア王家に忠誠を誓う軍人や役人が生活しており、バルガザール家の屋敷もその中にある。ここからは見えないが、軍人としては名門といってもいいバルガザール家の屋敷は、周囲の家々を圧倒する巨大さを誇っている。
もっとも、彼はここのところ、特別な用事でもなければ実家に戻ることさえなかった。《獅子の尾》の隊舎か、あるいは王宮区画で寝泊まりすることが多いのだ。それ以外は王都の外に出ている時間であり、要するに実家に戻る暇もないといった忙しさがあった。
《獅子の尾》は王立親衛隊なのだ。レオンガンドの身辺が慌ただしくなれば、自然、《獅子の尾》副長の仕事も増えるというものだ。
「陛下の結婚……か」
ルウファはつぶやき、大きく伸びをした。まるで彼の意志に反応するかのように、背中から生えていた翼が外套へと変化し、彼の体を包み込む。シルフィードフェザー。彼の召喚武装であり、平時でさえ有用な召喚武装として、彼は毎日のように召喚し、酷使していた。
そして、シルフィードフェザーを召喚するたびに、彼は言いようのない不安に苛まれるのだ。苛立ち、怒りといってもいいのかもしれない。召喚武装に身を包んだことによる感覚の肥大がそうさせるのか、それとも、召喚武装を装備していながら、あのような醜態を晒した事実への無念さが無意識に彼の心を責め立てるのか。
いずれにせよ、召喚武装を展開したまま平常心を保てるようにならなければ、《獅子の尾》の副隊長としての面目が立たない。
だからこそ、彼はこうしてシルフィードフェザーを召喚しているのだが。
風のざわめきが、ルウファの有り様を嘲笑うように聞こえてならなかった。
頭を振る。いつまでも大気のうなりに振り回されている場合ではない。
(なにごとも起こらなければいいのだけれど)
ルウファが危惧しているのは、レオンガンド王とナージュ姫の結婚式のことだ。
いま、ガンディア国民の最大の関心事が、王と姫の結婚式であるのは疑いようがない。ナージュ・ジール=レマニフラがガンディアに訪れて数ヶ月。彼女がレオンガンドと婚約を結んだのも、数ヶ月前のことであり、臣民はふたりの結婚をいまかいまかと待ち望んでもいたのだ。レマニフラの王がガンディオンを訪れ、ふたりの式の日取りが正式に決まれば、国内の話題がそれ一色に染まるのは必然ですらあったし、そのことにはなんの疑問もない。喜ばしいことであり、王宮の内外も陛下と姫の式に関する話題や情報で溢れていた。
《獅子の尾》が急激に忙しくなったのも、それが原因なのだ。
結婚式は、王都ガンディオンの王宮区画で行われることが決まっており、そこにはガンディアの貴族、重臣だけでなく、同盟国、属国、近隣諸国からの招待客が集まるのだ。警備体制を固めるために、王宮警護、王立親衛隊だけでなく、都市警備隊や軍も駆り出されることになっていた。
《獅子の尾》は、戦闘要員が武装召喚師のみで構成されるというその特性から、王宮区画外周城壁上から王宮区画全域と群臣街内周を監視するという役割を与えられている。ルウファがこうして外周城壁上にいるのも、当日の警備をどのように行うべきなのかを確認するためでもあった。《獅子の尾》のほかの三人も、城壁上を歩き回っているはずだ。
セツナは北側を、ファリアは西側を、ミリュウは東側を担当しており、ルウファは王宮の南側を監視する役目を担っている。武装召喚師は、常人よりも広大な感知範囲を誇り、その精度も優れている。監視員としてこれほど相応しいものもいないだろうが、もちろん、《獅子の尾》だけでは完璧な警備体制とはいえない。
式の当日は、軍や警備隊、王宮警護に王立親衛隊を総動員し、極めて厳重な警備体制がしかれることになるだろう。それこそ、鼠一匹、蟻一匹通さないような密度に違いない。もう二度と、晩餐会のようなことがあってはならないのだ。
ルウファは、無意識に歯噛みしている自分に気づき、はっとした。
晩餐会の夜、王宮の警備は完璧だったはずだ。王宮警護と王立親衛隊が厳重な警備網を敷いていた。どの時間帯、どの場所にも穴はないはずだった。しかし、現実には穴があり、セツナは刺された。危うく殺されるところだったのだ。オーギュストの警告がなければ、ルウファたちが間に合わなければ、セツナが死んでいたのは疑いようがない。
セツナのことを想うたびに胸が痛むのはなぜだろう。
セツナの心情を考えるだけで、心苦しくなるのはどうしてなのだろう。
耳鳴りが強くなる。
ザイン=ヴリディアとの戦いに辛くも勝利して以来、ルウファの耳を苛む音は、風精の嘲笑のようでもあった。戦線を離脱せざるを得なくなったルウファを嘲笑う声。《獅子の尾》の副長という立場にありながら、セツナたちの戦いになんら寄与できない自分への苛立ち、怒り。ルウファの周囲で風が渦巻き、空に舞い上がっていった。
「ルウファ殿!」
不意に呼びかけられて、ルウファは背後を見やった。眼下、王宮側の地上から、だれかがこちらに向かって手を上げていた。長身痩躯に長衣を纏う人物といえば、ひとりしか思いつかない。
ナーレス=ラグナホルンだ。
結婚式の警備に関する相談だろう。
ルウファは、シルフィードフェザーの翼を展開すると、城壁から地面に向かって飛び降りた。
ルウファが《獅子の尾》隊舎に戻ったのは、夕日が空を紅く染め上げる時間帯だった。
十一月下旬も下旬である。季節が冬へと移り変わろうとしているまっただ中であり、日が暮れるのも夏に比べて格段に早くなっていた。午後五時を回ってもいないのに、既に日は沈みかけ、西の空を紅く燃え上がらせているのだから、時の移ろいというのは恐ろしい。
隊舎の正門を抜けると、庭のほうからなにやら掛け声が聞こえてきた。どうやらセツナが訓練でも行っているらしく、ルウファは小さく笑った。一日の仕事が終わっても訓練を欠かさないのはセツナらしいが、無理をしすぎないように注意しておく必要があるのではないかとも思った。セツナは、無茶をし過ぎるきらいがある。
そうでもしなければ立派な武装召喚師になれないという考えはあながち間違ってはいないのだが。
身も心も鍛えあげなければ、召喚武装を支配し、制御することはできない。ルウファは武装召喚術をものにするために、どれだけ肉体を酷使し、精神をすり減らしてきたのか。思い出したくもない日々が脳裏を過る。素晴らしい師匠ではあったが、訓練の苛酷さは、他の追随を許さなかったに違いない。
おかげで、ルウファは立派な武装召喚師になれたのだが。
(自分で言ってりゃ世話ないよな)
苦笑をもらしながら庭に向かうと、《獅子の尾》の面々だけでなく、《蒼き風》の幹部連中の姿もあった。《獅子の尾》の面々というと、隊長補佐ファリア・ベルファリア=アスラリア、隊士ミリュウ=リバイエン、専属医師のマリア=スコールに助手のエミル=リジル――つまりは勢揃いである。
《蒼き風》からは団長のシグルド=フォリアーと副長ジン=クレールが庭の中心を眺めており、ふたりの視線の先に突撃隊長こと“剣鬼”ルクス=ヴェインが立っている。銀髪の“剣鬼”が手にしているのは木剣であり、対峙しているセツナの手にはルクスの木剣よりも長い木の棒が握られていた。いままではセツナも木剣を振っていたのだが、矛の使い方を学ぶには、木剣よりも木槍のほうがいいと判断したのだろう。
「ルウファさん、お帰りなさい。遅かったですね」
「ただいまー。みんな、俺がいない間に帰ってるんだもん、普通にへこむよね」
「そうだったんですか? 皆さんはルウファさんが見当たらないから先に帰ってきたと仰っていたのですが」
「いやまあ、確かにそうなんだけどさ」
ルウファは、エミルがごく自然に手荷物を受け取ってくれていることに感激しながら、曖昧に笑った。確かに、セツナたちになにもいわず城壁から姿を消したのはルウファのほうであり、悪いのはルウファだといえるのだが。
ナーレス軍師に呼ばれたのだ。《獅子の尾》副長としては、ついていくしかない。ファリアかミリュウにでもいっておくべきだったのだろうが、ふたりはルウファから遠く離れた場所にいたのだ。仕方がなかった。
「で、なにやってんの?」
「見ればわかるっしょ。セツナの特訓よ、特訓」
長椅子に腰掛けたミリュウが、こちらを一瞥した。隣にはファリアとマリアが座っているが、なにもしていないのはミリュウくらいのものだった。ファリアは書類に目を通していたし、マリアはいつものように医学書を開いている。
「特訓なんていつものことじゃないっすか。なんで今日はみんなで見てるんです?」
ルウファの疑問に答えてくれたのは、シグルド=フォリアーだった。
「ルクスが張り切ってんだ。竜殺し殺しに俺はなる、とかなんとか」
野性味あふれる大男は、間近で見るととてつもない迫力があった。さすがは歴戦の傭兵団長だとルウファは思った。
「そんなこと、いついったんですかねえ。俺は王都についたばかりで疲れているんですけど」
「はは、まあいいじゃねえか。久々に会えたんだ、訓練ぐらい付き合え、師匠なんだからさ」
「竜殺しに師匠なんていらんだろうに」
ルクスの愚痴ももっともだ。セツナはあのドラゴンを倒したのだ。これ以上の訓練など不要だ、と判断されたとしても、なんら不思議ではない。
しかし、そんなルクスに対して、セツナは不満顔だった。
「俺はまだまだ強くなりたいんですよ、お師匠様」
「はん……相変わらず、目だけはいいな」
ギラついた目は、お互い様、としかいいようがない。
「目だけですってえ?」
「ミリュウ、口を挟まないの」
「だってえ」
ファリアに怒られて悄気返るミリュウにマリアが笑いを堪えきれないといった様子を見せている。そんな光景を見やりながら、ルウファはつぶやいた。
「なんていうか……本当に賑やかだなあ、うちは」
「ええ、本当に。ここに来てよかったって思います」
「俺も、隊長に会えて良かった。みんなに会えて」
ルウファは、実感を込めて、いった。《獅子の尾》の一員になれたことは、彼の人生でも素晴らしい出来事のひとつだ。こんなにも賑やかで、緩やかな部隊がほかにあるだろうか。その上、強い。ガンディア最強の部隊なのだ。その一員としてここにいられることの幸福は、ルウファにしかわからないのかもしれない。
(俺は……)
ルウファは、セツナとルクスが同時に動き出したのを見て、隊舎の正面玄関に向かった。セツナの個人的な訓練に付き合う必要はない。セツナも、ルウファに見届けてほしいなどとは思ってもいないだろう。
ルウファには、やらなくてはならない仕事がある。
『太后派について、どのようにお考えです?』
耳の奥に、ナーレスの声が残っていた。
「ガンディアの王が結婚式を挙げるそうだが」
ユベルが突然話題に出したのは、魔王軍の戦勝報告に宰相クラン=ウェザーレが訪れた時のことだ。魔王軍と反魔王連合の戦いは、いまのところ魔王軍の連戦連勝に終始している。当初一万余の軍勢に過ぎなかった魔王軍は、ニウェール領内を席巻する中で膨大化を始めており、今では二万余りの大軍勢となって反魔王連合を圧倒し始めている。
そして、反魔王連合の脆弱さは、ユベルが想定したよりも酷いものだということが明らかになりつつある。四国間の士気の違い、足踏みの揃わなさ、連携の稚拙さ……どれをとっても、クルセルクと敵対するにはあまりにお粗末だったのだ。戦場から届く報告の中には、敵の弱さに対するオリアスの愚痴ともいえるようなものも多く、そういう手紙を見つけるたびに、ユベルは苦笑を漏らすしかなかった。
「レマニフラの王女と、ようやく結婚なされるとか」
「レマニフラ……遠い国だ」
「果たして、ガンディアに利はあるのでしょうか」
「ガンディアがそこまで頭の回るような国ならば、レマニフラなどと同盟を結んだりはしないだろう」
ユベルは、ガンディアとレマニフラの同盟を、目先のことしか考えていないレオンガンドの勇み足と見ている。つまり、ザルワーンとの戦いに際し、少しでも多くの戦力を欲したがために、レマニフラという遠方の国と同盟を結んだ、と。
レマニフラがガンディアとの同盟を結ぶための条件として、王女ナージュとレオンガンドの婚約を掲げていたことは、いまや有名な話だ。レオンガンドは、わずかな戦力を確保するためだけに、大切な后の枠を使ってしまったということだ。
レマニフラは南の国だ。ガンディアが北進を続ける上で邪魔にはならないが、役にも立たないという位置にあり、毒にも薬にもならないといってよかった。アバード辺りの姫君を后に迎えていれば、ガンディアの北進はさらに加速しただろうが。
「結婚式?」
リュスカが首を傾げたのは、言葉の意味がわからないのではなく、結婚そのものが理解できないからだろう。リュウディースには、結婚という概念そのものがない。
「盛大なものになるようだ」
「近隣諸国に招待状を送っていることもありますし、ガンディアの同盟国、属国の王族が参加するのは間違いないでしょうな。それこそ、国を上げての一大事行事となりましょう」
「我が国にも来たか?」
「まさか。来るはずがありますまい」
クランは一笑に付した。国交を閉ざしている国にまで招待状を送るほどの愚かしさは、さすがのガンディアも持ちあわせてはいないのだ。
「だが、贈り物ならば、受け取ってくれよう」
「さて……」
「ガンディア王の新たな門出。魔王なりに盛大に祝ってあげようというのだ。無下にはすまいよ」
そういうと。クラン=ウェザーレはなにもいわなかった。彼が内心、なにを思っているのかはわからない。少なくとも、ユベルの言葉を真に受けてはいないだろう。彼との付き合いも長い。リュスカのほうが長いが、彼に仕える人間の中では最長といってもいいのではないか。クランは。ユベルにとって気の置けない数少ない人間だった。
「それに、ガンディアも一枚岩ではない。反魔王を掲げるクルセルク人がいるようにな」
「勇者を気取る連中ならば、一網打尽にする手筈は整えてあります」
クランは顔色一つ変えず、驚くべきことを告げてきた。さすがは魔王の影と呼ばれる男だと、ユベルは思った。軍事以外は、彼に任せておけば安心だった。国政に関しても、彼ならば何事もそつなくこなしてくれる。軍事面では、オリアスに一任していればいい。反魔王連合との戦いの経過を見る限り、オリアスには将の器も実力もあるようだ。
ユベルの目に間違いはない。
「準備のいいことだ。では、それが済み次第、レオンガンド陛下への贈り物を準備しよう。どうした? リュスカ」
「ユベル、結婚、しない?」
「俺にはおまえさえいればいいのさ。おまえが魔王妃になりたいというのなら、話は別だがな」
ユベルが笑うと、リュスカは首を左右に振った。その慌てたような反応が愛おしくて、ユベルは彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
魔王城の謁見の間である。
クランのみならず、配下の人間どもも多数いるのだ。
そういう場にあって、彼はリュスカに触れることはなかった。
魔王とは、そういうものだろう。