第五十四話 王都発、敵国行――紅蓮の記憶――
「武装召喚!」
鋭い叫び声とともに、セツナの体に光線が走り、次の瞬間、全身に複雑な紋様が描き出された。そして溢れ出したのは、夜の闇を焼き払いかねないほどの閃光。召喚の光。この世界イルス=ヴァレと、数多ある異世界の何処かと繋がったことの証明。直に力の召喚が始まる。いや、既に始まっているのか。
獰猛な力の奔流が、爆発的な光となってこの場に顕現する。目にするだけで気圧されそうなほどに強烈な光は、暴れ回るようなこともなく少年の手の内に収斂していく。化け物どもの咆哮が聞こえた。威嚇か、虚勢か。圧倒的な力の具象を目の当たりにして、人外の物どもとて気が気ではないのだろう。
収束した光の中から現れたのは、長大な矛だった。黒き異形の矛。その姿はさながら悪魔のように禍々しく、見るものに畏怖と嫌悪を抱かせるほどの威容を持ってその存在感を発揮していた。少年の手に余るかに見えるが、しかし、扱いきれないものが召喚されることはないはずだった。
通常ならば。
(術式は要らぬ……か)
かつて目撃したのと同じ現象に、ランカインは、目を細めた。セツナが行使したのは、間違いなく武装召喚術である。召喚術と同様の原理を以て、異世界から望むがままの力を召喚したのだ。しかし、原理は同じでも、その方法はランカインを含めた他の武装召喚師とはまるで異なっていた。
武装召喚術を発動するには本来、術式が必要不可欠なのだ。セツナのようにただ一言叫ぶだけで召喚できるほど簡単な技術なら、もっと広く普及しているだろう。そしてその場合、大陸の勢力図は大きく塗り変わっていたのかもしれない。
武装召喚術は、物量差を覆す可能性を秘めている。
(例えば、そう……彼のように)
ランカインは、黒き矛を構えたセツナの姿に眩暈さえ覚えた。それは恐ろしさからではない。喜悦であった。武者震いといってもいい。少年の手の内に強大な力が渦巻いている。それは明らかにランカインの望む類の力だった。傲然たる破壊の力。殺戮のための力。
召喚の光が消え去ると、周囲には再び闇が訪れる。直前よりも深く暗く感じるのは、単純に召喚によって生じた光が眩しすぎたからだろう。視覚が狂わされたのだ。だが、それでも、闇の中に蠢く化け物どもの紅い眼光を見逃すような真似はしない。
ランカインたちを包囲するのは、ブリークという識別名で呼ばれる皇魔だろう。一体につき四つの眼光という情報から特定できる。青い表皮に覆われた四足獣とでもいうべき化け物は、鉈のような爪を持ち、背にある一対の突起物から電撃を発して人間を攻撃するのだ。
セツナが、地を蹴った。闇の中、なんの迷いもなく敵陣へと突っ込んでいく。それはまるで矢のようだった。大気を貫き、目標へと殺到する一条の黒き矢。だが、その矢は目標に突き刺さるだけでは終わらない。黒き矛の穂先がブリークの頭蓋を貫いた瞬間、化け物が奇異な悲鳴を上げたが、少年は当たり前のようにそれを無視した。そのまま矛を旋回させ、皇魔の頭部を破壊すると、彼は即座に別の敵へとその矛先を変えていた。
(なるほど。素晴らしい)
皇魔の群れを物ともせずに得物を振るう少年の姿は、ランカインに紅蓮の猛火を想起させた。
そう、あの炎だ。
カランという小さな街を焼き尽くした真紅の炎。建物という建物を燃え上がらせ、多くの人間を焼き殺し、あまつさえ天をも赤く染め上げていた。
それは、彼の命をも飲み込むはずだった。暴走した力は、なにものにも制御できない。
だが、ランカインは、炎と消えることはなかった。生き残ってしまったのだ。
あの少年が現れたからだ。
セツナ=カミヤ。
『ただの通りすがりの正義の味方さ』
彼は、不意にセツナの台詞を思い出した。くだらない。実にくだらない口上だった。実際、その言葉を聞いたとき、ランカインはあまりのくだらなさに笑ったのだ。笑う以外にどう反応しろというのだろう。
燃え盛る炎の中、ともすれば命を失いかねない状況で、そんなことを口走ってきたのだ。正気の沙汰ではない。彼を駆り立てたのは狂気に違いなかった。義憤と呼んでもいいのかもしれないが、だとしても、その怒りの炎がみずからの血肉をも焼き尽くすのを理解した上での行動なのだとしたら、狂気以外のなにものでもない。
そして、戦闘。
ランカインの召喚武装・火竜娘が、その口腔から吐き出した爆炎共々に切り裂かれ、彼は、驚愕の中で意識を失った。敗れたのだ。圧倒的な敗北だった。だが、彼は死ななかった。おかしなことに。不思議なことに――。
(――生きて……いる?)
鈍痛を伴う緩やかな覚醒とともに思い知ったのは、自身が生きているという混乱を招きかねない事実だった。あの少年に殺されなかったのだ。怒りに駆られ、炎に焼かれることさえ厭わなかったあの少年にだ。
(いや、殺せなかったか……?)
義憤に駈られて戦いを挑んだものの、最後の最後で非情に徹しきれなかったのか。あるいは、彼を殺しきるほどの力も残っていなかったのか。力尽きたのだとしても不思議ではない。少年は、ランカインの繰り出した炎の中を突っ切ることで接近してきたのだ。紅蓮の炎に全身を焼かれ、意識を保っていられるはずがない。
なんにせよ、ランカインが怪訝な表情になったのは、それでもなお死んでいないという事実に対してだった。
燃え盛る炎の中、意識を失ったものが辿る末路などひとつしか考えられない。
死だ。
命の結末。天に召されるにせよ、地獄に落ちるにせよ、彼に訪れるべきは死であり、それ以外の未来など存在し得なかったはずだった。あの少年が彼を助けるはずもない。そもそも、彼が生きているとも考えられなかった。
ならば、なにがあったのか。
ランカインの疑問はそこに集約される。自分の身になにが起きたのか。あの街になにがあったのか。意識を失う寸前まで地獄のような光景が広がっていたのだ。紅蓮の炎が、天も地も焼き尽くそうとしていたのだ。
燃え盛る炎が取り除かれたとでもいうのか。
(それが答えか……)
それ以外の可能性を考慮する必要はなさそうだった。
額は未だに鈍痛を訴えてくるのだが、それはあの少年の矛を叩きつけられたからだ。頭蓋は割られなかった。意識を吹き飛ばすほどの衝撃を受けたはずだったが、大怪我を負うほどのものでもなかったらしい。痛みは、額のそれだけであり、五体満足この上なかった。
呆れ返るほどの軽傷だった。
「どういうことだ……?」
そこは、白い天幕に覆われた空間だった。急遽用意されたテントなのだろう。剥き出しの地面に置かれた寝台の上に、彼は寝かされていた。もちろん、手足は拘束されている。当然だろう。街を焼き、住民を殺戮した男だ。せっかく捕らえたのに逃げられたのでは溜まったものではない。
彼は、小さく笑った。
この生に何の意味があるのか。
捕縛された以上、この身に待つのは極刑以外有り得ない。
それは構わない。死は、恐ろしくはないのだ。死ほど、彼にとって親しいものはなかった。死は隣人であり、眷属であり、同胞であった。彼の始まりとともに在り、終わりのその時まで寄り添い続けるものであった。
だからこそ、炎の中で死ねばよかったのだ。みずからの杖が生み出した炎に巻かれ、灰と消える。それでよかったのだ。
しかし、ランカインは、生き延びてしまった。紅蓮の業火は瞼の裏の夢と消え、胸の内に燻る残り火もいずれは消えてしまうだろう。
死を与えられるまでには。
ランカインは、己の脳裏を錯綜したいくつかの情景を鼻で笑うと、背後から忍び寄ってきていた化け物を振り返るなり、靴の爪先を紅い光を漏らす眼孔に突き刺した。殺気を隠しもせずに背後を取ったつもりでいたのかもしれないが、彼は、感傷に浸って敵の気配を見逃すほど愚かではなかった。
眼孔に靴を埋め込まれたまま蹴り上げられて、皇魔が悲鳴を上げる。奇怪な叫び声は、人間の神経を逆撫でにする類のものであり、耳を塞ぎたくなるのは当然の心理なのだろうが。
「心地良い」
ランカインは蹴り上げた体勢のまま小さく告げると、奇声を発しながらもあざやかに着地した化け物を一瞥した。彼を目標と定めたブリークは、それ一体だけではない。敵意に満ちた無数の視線が、ランカインの感覚を震わせていた。しかし、彼が昂揚しているのは化け物たちのおかげではなかった。
耳朶に触れる黒き矛のうなりが、鼓膜を揺らす皇魔の断末魔が、視界を掠める漆黒の軌跡が、脳裏に生まれる深紅の飛沫が、ランカインの本能を呼び覚まそうとしていた。
「実にいい夜だ」
彼は、笑った。眼前には無数の化け物が蠢いていて、頭上には満天の星空が広がっている。風は穏やかで、心地良い調べを奏でている。街道の外れ。皇魔が棲み付いていた小さな森の近く。草原。化け物の体液を撒き散らしながら闘争を踊るのは、黒き矛の少年。剣を翳した騎士は、馬車の防衛に徹している。幌馬車を引く二頭の馬は、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。それは御者の男が、常人ならば卒倒するか恐慌を起こしてしまいそうな状況の中にあって、泰然と振舞っているからかもしれない。
ランカインは、不意に足に伸びてきたブリークの爪を前方への跳躍でかわすと、そのまま化け物たちの頭上を飛び越えてみせた。口ずさむ。
「アラク・ウルクラウム・ウェステル・ハルマリストネイア・ハルマウォルクスネイア・ハルマゼムウェステル」
彼が紡ぐのは、古代言語の羅列。召喚の呪文。眠れる力を呼び起こし、天へと解き放つ魔法の言葉。
「ナキ・レーブルフィアタスムアトラクネイア・ハルマクリズムコードロウラミウン・セオンマスキス」
ランカインは、着地とともに皇魔の群れを振り返ると、化け物どもがこちらに向き直るより素早く後ろに跳んだ。距離を稼ぎながら、詠唱を続ける。彼の視線の先では、セツナに群がるブリークたちが、背中の突起から雷光を発したところだった。閃光が闇夜を引き裂き、球状に集束したいくつもの雷光の塊が、中空に躍る黒き矛の使い手へと殺到していく。
直後、漆黒の矛が金色の光を帯びたのをランカインは見逃さなかった。といって詠唱を止めるわけにはいかない。彼ひとりに任せるのも手ではあるのだが、それではこの昂ぶりを静めることもかなわないのだ。
「ディオンラクシウ・セラムドゥーラマナタリテス・ウゼアダルクス・アインラクシアラミウセルテス・サクラムリエドアトラクス」
前方――金色に輝く矛を手にしたセツナは、目前に迫る雷光球を次々と跳ね返して見せた。飛び散った雷光塊は皇魔の群れの中に突っ込むと、炸裂。閃光と爆音の嵐が、夜の草原に戦場の光景を浮かび上がらせていく。
悲鳴が上がった。化け物のものではない。馬だ。今にも我が身に災禍が及び兼ねないこの状況に、ついに耐え切れなくなったのだろう。空気を引き裂くような嘶きとともに、御者の慌てる顔が目に浮かぶが、彼は別段反応することもなかった。彼にとってどうでもいいことだった。
ランカインは、術式の完成と敵の攻撃のみに注意を払えばよかった。
「アラク・ウルクラウム・ウェステル・ハルマフュークラン・ハルマルクスメイル・ハルマウェステルゼイン・ザム・フィアレルテイドクラーブルネイア」
彼は、口の端に笑みを刻んだ。呪文の結尾を口にしたことで、ようやく彼の内に眠る力が覚醒の咆哮を発したのだ。それは、人間だれもが持つ力だといわれている。いや、すべての生命に宿る力なのかもしれない。
それは、世界に干渉する力だという。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ちっ!」
セツナは、弾き返した雷光球が、けたたましい爆音とともに草原を火の海へと変えていく様を目の当たりにして舌打ちした。黒き矛を思うがままに振るった結果がこれである。彼は己の考えのなさに憤りを感じながらも、迷うことなく矛を振り下ろした。眼前に飛び込んできた皇魔を切り捨てる。皇魔の死体が体液を撒き散らしながら地に沈むと、視界が開けた。
既に爆音は止んだものの、炎の勢いは衰えていなかった。街道沿いの草原を焼き尽くすほどの勢いで、その侵略を加速させていく。馬が悲鳴を上げた。見ると、二頭の馬と馬車、それに御者とラクサスが炎と皇魔に取り囲まれ、逃げ場を失っていた。セツナの活躍もあって皇魔の数はかなり減っているとはいえ、脅威には違いない。それにラクサスひとりで馬二頭と御者を護り抜くには無理があるだろう。
「セツナ!」
ラクサスの呼び声は、化け物の奇声や馬の悲鳴に掻き消されることはなかった。
セツナは、強くうなずくと、こちらへと殺到してくる皇魔の群れへの威嚇として矛で地を薙ぎ払うと、化け物たちがたじろいだ瞬間を見逃さずに跳躍した。皇魔の群れの隙間を縫うように、火の海を渡るように跳んでいく。渦巻く熱気は、彼にランカインとの戦いを想起させたが、しかし、今のセツナはラクサスの元に急行することに全力を注いでいた。不意に、鋭い痛みが彼の右足を襲う。皇魔の攻撃を受けたのかもしれない。が、止まれない。
痛みは急速に広がるが、そんなことに構っている暇はなかった。目的地はもはや目の前。馬車を背後にした騎士は、長剣を構え、皇魔との間にある種の結界を作っていた。しかし、彼の剣気が作り得た領土も、数で勝る皇魔にじりじりと狭められている。さらに周囲は火の海である。馬は、逃げ出したくても逃げ出せない状況に発狂しかけている様子だった。
セツナは、何度目かの跳躍でラクサスの目の前に辿り着くと、彼に声をかけるわずかな時間さえも惜しんで化け物の群れへと向き直った。赤々と燃える草原に蠢く無数の皇魔を前に、微塵の恐怖も感じなかった。皇魔特有の神経を逆撫でにするような殺気を叩きつけられても、怖れを抱くということはなかった。だが、それは彼の精神が平衡を保っている証明にはならなかった。
黒き矛を握る掌から伝わる膨大な力が、セツナを昂ぶらせていた。
「皇魔のことは頼めるか?」
「任せてください!」
背後からのラクサスの問いに力強く返答すると、セツナは、眼前の敵に向かって矛を振り上げた。数にして五十体は下らない皇魔が、既にその無数の視線を彼に集めていた。のっぺりとした顔面に穿たれた四つの眼孔。その奥底から漏れる紅い光は、敵意と狂気に満ちている。攻撃を仕掛けてこないのは、こちらの出方を伺っているからなのか、それともなにか策でも練っているのか。皇魔にどれほどの知能があるかはわからないが、少なくとも集団行動を取れるほどの頭はあると見るべきだろう。
実際、セツナに向かって雷光球を発射してこないのだ。それはセツナの矛に弾き返されたからだと見てもいいだろう。その程度の思考力はあるということだ。
不意に、一体の皇魔が奇声を発した。不愉快な雑音が、紅蓮と燃える闇に響き渡る。セツナは身構えたものの、皇魔たちが襲い掛かってくることはなかった。一斉に散開したのだ。
(なにが狙いだ?)
セツナは、慎重に敵の目的を探った。彼から見て前方広範囲に散らばった皇魔たちだったが、特にこちらになにかを仕掛けてくるような素振りもなかった。その姿からは、セツナへの警戒さえも怠っている様子すらあった。
「なんだ……?」
皇魔たちの突然の変化に違和感を覚えながらも、セツナは、矛を握る手に力を込めた。仕掛けてこないのならば、こちらから出向くしかない。皇魔が退散しない以上、なにかを企んでいるには違いないのだ。ならば、戦うしかない。ここを切り抜けなければ、任務を果たすこともままならない。
地を蹴る。同時に右足に痛みが生じるが、今はどうすることもできなかった。戦闘の最中だ。傷の手当をしている暇はない。
セツナは、前方、一足飛びで届く距離にいた皇魔を矛の一突きで絶命させると、瞬く間にその周囲に潜んでいた化け物どもを血祭りに上げた。なんの反応もなければ、反撃さえしてこなかったことに違和感を抱いたものの、彼は、周りに点在する敵意を殲滅することを優先した。全滅させれば、皇魔がなにを企んでいたとしても同じことだ――そんな安易な思考の下でも、セツナの矛は、ただひたすらに冴え渡った。
漆黒の一閃が、草原を焼く炎諸共に皇魔の肉体を斬り裂き、頭蓋を貫き、胴体を両断した。断末魔の絶叫が幾重にも響く中、彼の技は留まるところを知らない。縦横無尽。手当たり次第に敵を斬り伏せる彼は、やがて大量の返り血を浴びていた。
そのとき。
「ん……?」
セツナが動きを止めたのは、彼が斬り殺した皇魔の尾が地中に潜っていたことに気づいたからだ。
セツナは怪訝な表情になったが、ふと思い立って背後を振り返った。彼の背後には、黒き矛で殺戮した皇魔の死体が無数に転がっている。目を凝らすと、そのどれもが尾を地に突き刺したままで死んでいるのがわかった。草原を這う炎に照らされた亡骸は、軽く三十体を超えているが、それは彼の働きによるものに他ならない。
セツナは、周囲を見回した。残る皇魔の数は、それでも二十以上はいるだろう。それらが尾を地中に潜らせてなにをしようとしているのか皆目見当もつかないが、少なくともセツナたちにとってぞっとしない企みに違いない。
馬車を見遣ると、ラクサスと御者のふたりが、二頭の馬を懸命に宥めているところだった。その周囲に広がるのは火の海が広がっているが、皇魔の姿は見当たらない。散開後、馬車付近に潜んでいた皇魔はセツナが殺していた。とりあえずは、馬も人も無事であることに安堵する。
瞬間、なにかがこちらに向かって飛来する音が、彼の耳朶を擽った。左後方。振り向き様に矛を振り上げる。視界に飛び込んできたのは、尖端が研ぎ澄まされた帯状の物体だった。
それはまさしく、皇魔の尾だった。
「そんなもので!」
セツナは、高速で接近する尾を避けるためにその場を飛び離れようとした。しかし。
「なっ」
セツナは、足が動かせないことに驚き、愕然とした。動かないのではない。動かせないのだ。なんらかの外的要因が、彼の足を地面に縛り付けていた。尾は、眼前に迫っている。いや、高音を発しながら飛来するのは、それひとつだけではなかった。無数の尾が、セツナの周囲あらゆる方向から殺到してきていた。
(避けられない!)
絶望的だった。足がまったく言うことを聞かないのだ。避けることはおろか、態勢を整えることすらままならない。そんなことを考えている間にも、セツナと尾の距離は迫っていく。追従する無数の尾も視界に入り、危機感は増大するが、セツナにできることといえば矛を振り回すことくらいだった。それにしたって前方からの攻撃を防げるかどうかというものに過ぎない――。
「つまりはそう、これが運命というものなのか?」
ランカインの自問するような声がセツナの耳に届いたのは、いつだったのだろう。今までにない窮地が彼にもたらした小さな混乱は、記憶を曖昧にさせる程度のものではあった。なにが起こったのかは、理解している。
轟音とともに大地が揺れ、次の瞬間、セツナの目の前の地面が大きく隆起したのだ。砂埃を舞い上げながら彼の視界を覆うほどに隆起した岩石は、次々と飛来する皇魔の尾のことごとくを受け止めきると、瞬く間に崩れ去った。尾の攻撃を受けなかったところを考えると、左右と背後でも同様のことがあったのだろう。
皇魔たちが追撃を諦めた理由はわからない。岩石に衝突したことで攻撃する力を失ったというわけでもないだろうが。
セツナは、状況を把握すると、頭を振った。わずかに揺れる意識の中で、前方から近づいてくる足音を認識する。悠然とした足取りだった。まるでここが彼にとって歩き慣れた場所であるかのような歩調。事実そうなのかもしれない。その男にとってしてみれば、炎に抱かれた戦場など、自分の庭に等しいのかもしれなかった。
ランカインは、セツナが視認できる距離にまで辿り着くと、静かに口を開いてきた。
「どう想う? 少年」
「なにがだ!」
「怒鳴るものでもないだろう? 君の命を救って差し上げたのだ」
ランカインの鷹揚な口調は気に障ったものの、事実は事実である。それは認める。が、セツナは、そっぽを向いた。顔も見たくはなかった。戦いの最中、気が立っている。彼は、相手の眼を見るだけでどうにかなってしまいそうな危うさを自分の中に認めていた。冷静さを見失ってはならない。
セツナは、小さく告げた。
「……感謝はしている」
「らしくないな」
ランカインが、嗤う。ひどく穏やかな嘲笑だった。つまりは狂っている。
セツナは、ランカインを見遣った。彼の右手には、斧が握られていた。片手で扱えるほどの大きさの斧だった。斧頭には竜の頭を模した装飾が施されている。どうやらそれもまた彼の召喚武装であるらしい。カランの街を焼き尽くした杖を召喚しなかった理由はわからないが、その手斧にも大きな力が秘められていることは目の当たりにしている。その力のおかげでセツナは窮地を脱することができたのだが。
「なに?」
「そこは君ならば、刃を以て報いてくれるところではないのか?」
「なにを言っているんだ?」
「俺が憎いのだろう? 憎くて憎くてたまらないのだろう? 殺したいのではないのか? 殺したくてたまらないのではないのか? カランの街を焼き尽くし、何百人もの人間を殺戮したこの俺を、この世から消してしまいたいのだろう?」
ランカインの瞳に浮かぶのは、狂気そのものだった。純然たる狂気が渦巻いていた。一片の正気さえも見出せないほどの狂気の中で、男は、セツナを見据えていた。嗤っている。こちらの心の奥底まで見透かしているかのようなランカインの口振りに、セツナは、一瞬我を忘れそうになった。
「ああそうさ……!」
歯噛みして、自我を保つ。彼の脳裏を駆け抜けたのは、紅蓮に彩られた小さな街の光景だった。まるで地獄のような有様は、彼をして憤怒に駆り立てるほどのものだった。なにもかもを飲み喰らう真紅の猛火。いまこの草原を焼く炎とは比べ物にならなかった。そこには希望など見当たらない。絶望だけがその猛威を振るっていた。
死が、舞い踊っていた。
セツナは、きっ、とランカインを睨みつけると、矛の切っ先を相手に向けた。禍々しい悪魔的な矛は、セツナの号令を待ち侘びているかのよう。
「俺はおまえを許せない! なにがあっても! 陛下が許しても! 俺だけは……!」
「ならば、来い。俺はきっと、そのために今日まで生かされてきたのだ」
ランカインが、その笑みをさらに深いものにした。嘲り、侮蔑しながらも、どこか恍惚とした喜悦が入り混じっているような笑み。それはとてつもなく異様な笑みであり、地獄の鬼さえもたじろぐのではないかというのが、セツナの抱いた感想だった。
「それが運命って奴かよ……馬鹿馬鹿しい!」
セツナは、ランカインから目を背けると後方を振り返ろうとしたが、足が自由に動かないことに気づいて足元に視線を落とした。なにかが、右足に絡み付いていた。目を凝らさずとも理解する。皇魔の尾だ。セツナの身動きを封じるための作戦だったのだろう。絡め取られていたことに気づかなかったのは、右足に生じていた痛みのせいだ。しかし、その尾も今や力を失っているらしく、セツナが軽く力を込めるだけで解けてしまった。
周囲を一瞥すると、火影の中に蠢く皇魔の姿は見当たらなかった。それどころか、皇魔特有の気配すら感じ取ることはできなくなっていた。逃走したのか、それともランカインが殲滅したのか。
「なぜだ。なぜ来ない? 君の憎むべき敵はここにいるぞ? 狂おしいほどに殺したい相手が、ここに」
セツナは、ランカインの言葉を聞き流そうとした。だが、夜の闇を紅く染める炎の色彩が、彼の感情を昂ぶらせるのだ。理性は残っている。冷静さを見失ってはいない。しかし、叫ばなければやりきれなかった。
「勝手なことばっか言いやがって! おまえを殺してどうなるってんだ! おまえを殺したって、なんにも変わらねえじゃねえか! おまえが殺した人たちは! 死んだ人間は……!」
思いつく限りの台詞をぶつけながら、セツナは、自分もまたどれだけの命を奪ってきたのかと考えていた。ランカインを責めるだけ責めていい気になれるような、そんな人間ではない。数多の皇魔を屠り、無数の人間を殺してきたのだ。炎を以て戦場を焼き払い、一振りの黒き矛で幾多の命を奪ってきたのだ。戦場とはいえ、戦争とはいえ、あまりにも多くの命を散らせてしまっていた。数え切れないほどの人生が、セツナの眼前で露と消えた。
無念だっただろう。だれも死にたくなどなかったはずだ。戦場に駆り出され、セツナと剣を交えたばかりに未来を失ってしまったのだ。永久に。
「死んだ人間は……」
セツナは、愕然としながらも、草原を見回して状況の把握に努めた。皇魔の放った雷光によって焼き払われた草原には、無数の皇魔の死体が転がっている。炎の勢いは多少衰えたとはいえ、このままでは一帯が焼け野原になってしまう可能性があった。
馬の悲鳴が聞こえないところを見ると、なんとか宥めることができたのだろう。
その点に関してだけは安堵して、彼は、黒き矛を掲げた。
炎を吸うのだ。あのときのように。
「生き返ったりはしないんだ――」