第五百四十八話 南より
ナーレス=ラグナホルンが、その機知によってベレルをガンディアの支配下に組み込んだという報告がレオンガンドの耳に入ったのは、十一月も下旬に入ろうとした頃である。ナーレスはベレルからの救援要請を利用して、ベレルをガンディアへの服従を強いたのだ。ガンディアとベレルの間で戦争は起きず、だれひとり血を流すことはなかった。
ベレルとジベルの戦いでは両国共に相応に出血しているが、ジベルはハーレルを手に入れ、領土を広げることができたこともあり、ミョルンを手放すことになったとはいえ、利を得ている。一方のベレルは、ミョルンこそ取り戻したものの、ガンディアの支配を受け入れたことで、取り戻した意義さえ失ってしまったといえるのかもしれない。
もっとも、ガンディアとしては、ベレルを支配下に置くのならば、少しでも領土が広いほうがよく、ミョルンだけでも取り戻しておいたことに意味はあったのだ。
ベレルの使者がナーレスたちとともに王都に到着したのは、報告が届いてから数日後のことだ。王都は、《獅子の尾》とナーレスの帰還に大いに湧いた。稀代の軍師ナーレス=ラグナホルンが現場に返り咲いたということを喧伝するのに、これ以上に相応しい出来事はなかった。
レオンガンドを見限り、ザルワーンに流れた裏切り者は、瞬く間にガンディアの軍師としての顔を取り戻したのだ。
ベレルからの救援要請にも後ろ向きだった財務大臣ラシュフォード=スレイクスが、ナーレスの手腕を絶賛していたのが妙に記憶に残っている。ベレルやジベルとの間で戦争が起きなかったことは、ガンディアの国庫を預かる身としては、諸手を上げて喜ぶべきことなのだろう。戦争には金がかかる。ザルワーン戦争のような規模の戦いがいま起きれば、ガンディアの国庫も空になりかねないのだという。
レオンガンドがベレルへの救援要請に対して軍勢の派遣を渋ったのも、それが原因だった。結局、ナーレスに一任したのだが、その判断に間違いはなかった。救援に際しての費用の大半はベレルが受け持ってくれたこともあったが、戦いに発展しなかったということは、戦死者はおろか負傷者が出なかったということだ。
レオンガンドとしても、望むべくもない結果であり、喜ばしい報告だった。その上、ガンディアとベレルの間に従属関係が結ばれたのだ。ルシオンやミオンとの間に結ばれた同盟関係とはわけがちがう。ルシオンやミオンとは対等な間柄だが、ベレルに対しては常に強気に出ることができるのだ。ガンディアが望んだことをベレルは拒むことができないということだ。
もっとも、レオンガンドには、ベレルからなにもかも搾り取るというつもりはない。ガンディアの支配下にあり、ガンディアの意のままに動いてくれるのならば、特になにかを強いる気もなかった。ベレルの国民感情を逆撫でにするような手法を用いることもない。
ベレルがガンディアの支配下に入ったことは、ベレル国民にとっては衝撃的だったに違いない。が、ベレル国民の大半が、ベレル軍への不安と不信感を抱いていたこともあり、ベレル王イストリア・レイ=ベレルの決断を非難する声は少なかったようだ。むしろ、ガンディアの勢力下に入ったことで、近隣諸国の侵攻対象から外れるのではないかと囁かれており、《獅子の尾》とログナー方面軍第四軍団がルーンベレルから離れるのを惜しむ声があったほどだという。ジベルによって瞬く間にふたつの都市を失ったばかりだったのだ。そういう声が大きくなるのもわからなくはない。
「わたくしのようなものが、人質などという大役を任されるとは思いもよりませんでしたわ」
そういって自嘲気味に笑ったのは、ベレルの従属の証として大使とともに王都を訪れたイスラ・レーウェ=ベレルである。彼女はその名の通りベレルの王女であり、その立場故に人質に選ばれたのだろう。ガンディアがイスラを人質に寄越せといったわけではないが、いわずとも、王族が人質として差し出されるのは慣例だった。ログナーはザルワーンに第二王子アーレスを送り込んだが、それと同じことだった。
とはいえ、レオンガンドは彼女を人質としてではなく、客人として丁重にもてなすつもりでいた。いまさらベレルへの心証を気にするのは遅すぎるというものだが、無駄な軋轢を生む必要もない。それに、ナージュが彼女を一目見て気に入ってしまったというのもあるにはある。顔色の悪いベレルの姫君は、ナージュとその侍女たちに歓迎されたことに戸惑いを覚えたようではあるが。
なんにしても、ベレルの件は、ナーレスひとりが片付けたようなものであり、援軍として派遣されたはずのセツナも、ドルカ=フォーム軍団長らも、戦闘ひとつ起きなかったことには拍子抜けしていたようだった。
しかし、ナーレスひとりベレルに出向いたところで、なにひとつ解決しなかったのはナーレスも認めるところではある。《獅子の尾》とログナー方面軍第四軍団が背後に控えていたからこそ、ジベルとベレルは講和し、ベレルがガンディアの庇護下に入ったのだ。いかに軍師とはいえ、ひとりでは無力な個人に過ぎない。
セツナたちは、戦わずして勝利したということに実感を持てない様子だったが、それも仕方のないことだ。いままでの勝利は、実際に戦い、敵を蹴散らし、殺し尽くして手に入れてきたものだったのだ。戦力の関係上、そうせざるを得なかったのだが、これからはそうではない。
ガンディアは、ログナー、ザルワーンに勝ち、その版図を数倍に膨張させた。国力は増大し、戦力も以前とは比較にならないほど充実した。軍団長以上の人材は不足気味ではあるものの、部隊長以下の人員が足りなくなるということはあるまい。
もっとも、ザルワーン戦争ではザルワーン人が死にすぎたこともあり、兵員の補充に手間取っている事実もあるのだが、それにしたところで、兵力が以前より増大しているのは間違いなかった。
軍の編成を改める必要が出てきている。が、それに関しては、レオンガンドが口を出すことではない。大将軍アルガザードや軍師ナーレスが相談して決めてくれればいいのだ。なにやらザルワーン方面軍や全軍の人事でもめているという話も出てきているが、レオンガンドは口を挟まないようにしていた。
彼が口を出せば、どれだけ誤っていたとしても、その意見を通さざるを得なくなるものだ。
たとえば、セツナの王立親衛隊長への任命などがそうだ。軍としては、セツナこそ喉から手が出るほど欲しがった人材だったのだが、レオンガンドの意見が尊重された。結果的に《獅子の尾》は上手く機能しているものの、それはセツナたちの実力によるところが大きい。同じように口を出して、成功するとは限らないのだ。
レオンガンドは、自分に軍事的才能があるとは思ってなどいない。シウスクラウドやナーレス、アルガザードから学んだことは数あれど、それを生かせられているかどうかは疑問の残るところだ。
(なにはともあれ……だ)
レオンガンドは、ザルワーン戦争の終結以来、落ち込みがちだったナージュが多少元気を取り戻したことに安堵を覚えていた。ナージュが気落ちしていた理由は、レオンガンドにもよくわかっている。レマニフラからの返答が来ないからだ。
ナージュは、レマニフラの姫君である。ナージュ・ジール=レマニフラ。レマニフラは小国家群南部に位置し、南方都市国家同盟の盟主として知られる国だ。そんなガンディアから遠く離れた国の姫君が、なぜ、レオンガンドの側にいるのか。
それは彼女の父にしてレマニフラの王イシュゲル・ジゼル=レマニフラが、ガンディアとの同盟を希望したからである。どうやらログナーを飲みこんだガンディアに期するところがあったかららしく、同盟の使者としてナージュが遣わされたのだ。しかも、同盟だけではなく、ナージュとの婚約さえも望まれていた。
ナージュを気に入ったレオンガンドに、彼女との結婚を拒む理由はなかった。無論、レマニフラと同盟を結ぶことが、ガンディアの今後にとって良い選択だという確信があったからでもあったし、ザルワーン戦争に向けての戦力の確保という側面があったのも事実だ。つまりは政略結婚なのだ。そのことはナージュも重々承知している。それでも早く式を挙げ、正式な夫婦になりたいと思っているらしい彼女のいじらしさは、可憐ですらあった。
レオンガンドも、早く彼女を妃として迎え入れたいのだが、それには、レマニフラからの正式な回答を待たなくてはならなかった。
「レマニフラからの返答はまだか」
レオンガンドは、日に何度か聞いた。ナージュに感化されていることはわかっていたが、どうにも抑えられない自分がいた。
このまま十一月も終わるのではないかと思っていた矢先、十一月二十日、ガンディオンにレマニフラより返礼の使者が到着し、王都は一時騒然となった。
華美壮麗な軍集団が突如として出現したのだから、騒ぎになるのも当然であり、レオンガンドもその騒ぎを聞きつけて、怪訝な顔をしたものだった。その一団がレマニフラの使節団だということは最初からわかっていたものの、臣民の騒ぎぶりが普通ではなかったのだ。レオンガンドも市街に走り出したくなったが、周囲に止められた。使節団は王宮に向かっているのだから、じっと待っていればいいというのは正論ではあったが、レオンガンドとしては面白くもなんともない。
やがて、一団は王宮区画にたどり着く。
レマニフラ王の書状を携えた一団の壮麗さたるや筆舌に尽くしがたく、派手好みと揶揄されたガンディア軍の比ではなかった。まるで天軍が舞い降りたかのようであり、レオンガンドさえ息を呑むほどの様相だった。
「なんともお恥ずかしい……」
ナージュが恥ずかしがったのは、その派手さがいかにも田舎者臭く思えたかららしいのだが、レオンガンドはそうは思わなかった。
レオンガンドは、王としての正装を身に付けると、使節団の代表数名と面会した。その場には当然、レマニフラの人間としてナージュも同行したのだが、彼女は謁見の間に使節団の代表が足を踏み入れるなり、素っ頓狂な声を上げた。
「父上!?」
「だれに似たのか、礼節がなっておらぬぞ。ナージュよ」
まるで天軍の王のような出で立ちの人物は、ナージュの反応に大きくため息をついた。
イシュゲル・ジゼル=レマニフラそのひとであり、王みずから書状を携えてくるなど聞いてもいなかったレオンガンドは、ただただ呆気にとられた。