第五百四十四話 意図
「あれは不可抗力だったんだ……不可抗力だったんだよ……」
セツナがうなだれているのは、昨夜の出来事が原因だった。
真夜中、セツナが襲撃されるという事件が起きた。襲撃者は、死神壱号ことレム・ワ=マーロウと名乗ったというが、セツナの寝込みを襲ったのは、レム個人の判断であるとのことだった。ガンディアの圧力に屈し、休戦協定に応じたばかりのジベルが、ガンディアとの関係をこじらせるような真似をするとも思えず、レムの発言に嘘はないとナーレスは見ている。
そうである以上、ナーレスとしては、死神壱号によるセツナ襲撃事件はなかったことにするつもりだった。この事件を公にすれば、ガンディアはなんらかの対応に迫られることになる。そんなことをして、ジベルを刺激したくはなかった。いま、ナーレスがしなければならないのは、ジベルとの戦争ではない。
しかし、事件に関する情報を外部に漏らさないよう《獅子の尾》隊員を説得するのに骨が折れるのは、さすがの彼も予想外だった。隊長補佐のファリア=アスラリアと隊士のミリュウ=リバイエンが、ナーレスの説明に対しても非協力的だったのだ。セツナと死神壱号の間でなにかがあったようらしく、そのことでふたりは不愉快らしかった。もっとも、最終的には納得してくれており、ナーレスも安堵していた。
「なんにしても、セツナ様が無事で良かった。セツナ様にもしものことがあれば、ガンディアはジベルに報復しなければならなくなる。そうなれば戦争に発展するのは必定」
「ジベルくらい、相手にもならないでしょ」
ミリュウの言葉には、多分に毒気が含まれていた。余程、死神壱号とやらが気に食わないらしい。あとで死神壱号がセツナになにをしたのか、聞き出す必要がありそうだった。
「なんたって、ザルワーンを倒したんだから」
続く彼女の発言は、言い訳のようにも聞こえた。もちろん、それも本心ではあるのだろう。ザルワーンの支配階級に生まれた彼女にとっては、やはり大国ザルワーンを倒したガンディアがジベルとの戦いに苦慮するなど、信じたくはないはずだ。
「戦力的には、なんの問題もない。例えセツナ様が負傷し、戦線を離脱していたとしても、ジベルを下すことは必ずしも難しいことではないでしょう」
ガンディアは、ザルワーン戦争で多くの兵力を失ったが、ザルワーン軍を飲み込んだことで戦争前よりも戦力は増加している。総兵力は、いうまでもなくジベルを上回り、戦力の質でも、ジベルのそれを越えるだろう。
戦えば、勝てる。
「しかし、犠牲もなしに勝利することは不可能に近い。ザルワーン戦争での傷が癒えきっていないいま、無駄な出血はしたくないというのがレオンガンド陛下のお考えなのです」
ナーレスは、《獅子の尾》の一同に対して教鞭を振るっているような気分になった。特にセツナに対してはそうだ。
「それに、戦争など起こさないに越したことはない。力に訴えるのは下策も下策。最終手段といってもいい」
ナーレスは、静かに続ける。
「戦わずして国を落とせるのなら、それに越したことはないでしょう?」
ナーレスが微笑みかけると、セツナはたじろいだようだった。
「そんなことできるの?」
「そのためにあなたがたを動員したといってもいい」
「どういうこと?」
「すぐにわかる。しばらくは休暇の続きでも満喫していてください。時間がかかるかもしれません」
「帰らないんですか?」
「……手土産もなく国に戻れば、なにをいわれるかわかりませんのでね」
ナーレスは、策謀を胸に秘めたまま、その部屋を後にした。
ナーレスたちはその日のうちにミョルンを出ると、一路ルーンベレルに向かった。ベレルの首都は、ジベルが軍を引き上げたことに関する情報で蔓延し、喜びの声がある一方、ハーレルを取り戻せなかったことには嘆いてもいた。
「なんの犠牲も払わず、都市をひとつ取り戻せたのなら上出来だろうに」
ナーレスがつぶやくと、メリルがくすりと笑った。
「なにゆえ、ガンディア軍は国に帰られぬのか?」
ベレル王イストリアが不安げに問いかけたのは、ジベルの休戦協定が締結されてから三日後のことだった。
ガンディアの連中が、ミョルンからルーンベレルへ戻ってきたのはいい。イストリアへの報告は必要なことだったし、援軍の本隊はルーンベレルに残ったままだった。帰国する場合でも、合流したほうが何かと都合がいいものかもしれない。
しかし、ジベルとの間に講和がなされ、脅威が去ったのならば、すぐにでも帰国するものだとばかり思っていたイストリアには、ガンディア軍のゆるやかな動きは、気になってしかたがないのだ。
「ジベルが休戦協定を破らないとも限らないので、しばらくは様子を見守るとのことです」
「なるほど……さすがは軍師殿だ。後々のことまで考えておられたか」
「ええ。実に頼もしい」
宰相ジノ=レンドは、ジベルとの交渉の席におけるナーレスの振る舞いに感銘を受けたといい、自分も彼のように毅然と振る舞えるようになりたいといっていた。イストリアは、ジノには無理だろうと思ったが、言葉にはしなかった。たとえ不可能であったとしても、向上心を持つことは決して悪いことではない。
イストリアは、そんな風にして、ガンディア軍の動きへの不安を打ち消した。
が、イストリアの不安は、日に日に増大していく。
ガンディア軍がルーンベレルを去る気配を見せないからだ。
十一月十二日。
ミョルンでの休戦協定締結から五日が過ぎた。
既にジベル軍はベレル領土から完全に撤退し、ベレルとの国境沿いに展開していた部隊さえも国元へと引き上げていた。休戦協定を結んだ以上、ベレルからの攻撃も考慮する必要がなくなったのだ。その戦力を別方面に注力することができるという点では、ジベルにとっても悪い話ではなかったのかもしれない。
もっとも、あのまま戦い続けていれば、ルーンベレルさえも落とせていたかもしれず、ガンディアの横槍さえなければ、と悔しがっていても不思議ではなかった。
「ミョルンを無償で返せ、というのはやりすぎだったかもしれませんね」
すっかり参謀役が板についてきたオーギュストの口ぶりに、ナーレスは苦笑を禁じ得なかった。オーギュストといえばサンシアン家の当主であり、家格でいえばガンディア王家を凌駕するはずだった。そんな人物が、ナーレスの下についている。そのことが、彼にはおかしくてたまらなかった。
軍事に疎い彼を軍師付きの参謀に任命したのはレオンガンドである。レオンガンドにはレオンガンドなりの思惑があるのだろうが、ナーレスにはいまいち理解できない人事だった。ナーレスは、オーギュストのような小賢しい人物が好きではない。しかし、王命である以上、彼に拒否権などあるはずもなく、渋々ながらも使い倒すしかなかったのだ。
ところが、バハンダールでオーギュストと合流し、彼の人となりを見ているうちに、ナーレスは彼を気に入ってしまっていた。主君でさえ歯に衣着せぬ物言いで批評する彼の有り様は、凡百の貴族とはまったく違うものだったのだ。普通、貴族というものは、主君に対して阿るものだ。内心はどう思っていても、主君の耳に入った場合のことを考えて発言する。しかし、彼は、ナーレスの前でさえ、レオンガンドを扱き下ろすことに躊躇がなかった。もちろん、ただ否定するわけではない。肯定できる部分は肯定し、あるいは褒めそやすこともある。
その否定部分、肯定部分は、ナーレスの思うところと一致する部分が多く、つまりは波長が合ったのだろう。
「そのとおりだが、そうでもしなければ援軍に訪れた我々の面目が立たない」
「ベレル如き、とおっしゃっていたのは、どこのどなたですか」
「ベレル如きはどうでもいいのさ。問題は、ガンディアの威信だよ。評判といってもいい」
「評判なぞ、気にしなければならないものですか」
「評判が悪ければ、ザルワーンのようになる」
「ああ……」
一言で、彼は得心したようだった。物分りの良い男だと、ナーレスはいつも感心する。ザルワーンは、ガンディアとの戦争において、近隣諸国からの援軍を請うことができなかった。それはザルワーンの評判があまりに悪すぎたからだ。もちろん、ザルワーンを救うことの旨味が少なかった、というのもあるだろうが。
ジベルにせよ、アバードにせよ、ザルワーン戦争中の近隣国は、ザルワーンへの救援どころか、ザルワーンに対して攻撃的な行動を取っていた。ジベルはグレイ軍を応援し、グレイ軍が動き出せばスマアダとメリス・エリスを制圧しており、アバードも五方防護陣のひとつを攻撃しようと動いていた節がある。メレドはザルワーンを黙殺し、イシカとの戦争に明け暮れたようだが、それにしたって、ザルワーンの評判さえ良ければ、ガンディア軍の横腹を突き、ザルワーンを勝利に導いた可能性もあるのだ。
評判は大事だ。
しかし、そればかりに囚われて、大局を見失ってもならない。
「さて、そろそろ動くとしよう。ベレルもしびれを切らしている頃だろう」
「ええ。さっさと帰れと思っていることでしょうね」
「まったく、ひとに救援を頼んでおいて、事が終わればそれだ」
ナーレスは冷ややかに笑うと、メリルに外出の用意を命じた。