第五百四十三話 死の虜囚
「結局、あたしたちの出番はなかったわねえ」
「これなら、隊長ひとりでよかったんじゃないですか?」
「そうよねー……セツナひとりで十分だったかも」
ミリュウ、ルウファ、ファリアの無責任な発言には、セツナも頭を抱えたものだ。
しかし、彼らの発言ももっともだと想ったのも事実だった。確かに、このようなことならば、セツナひとりでも十分だったかもしれない。《獅子の尾》ではなく、黒き矛と第四軍団でも、十分に威圧できたのではないか。そうは思ったものの、やはり《獅子の尾》は、全員揃ってこその《獅子の尾》なのだと考えを改めながら、セツナは寝床に入った。
十一月七日、セツナたちはミョルンに泊まることになったのは、予定通りではあった。交渉が長引く可能性も考慮しており、交渉が終わったとしても、移動疲れを少しでも軽減するために、一泊することは決まっていた。
交渉が成功裏に終わったとはいえ、ミョルンはまだ、ジベル軍の占領下にあるといってもいい状態だった。それでも、ミョルンの住人は、解放の喜びを隠せない様子で、街のいたるところで騒いでいた。
そんな喧騒を遠くに聞きながら、セツナは、自分が領伯という立場にあるということを再認識させられるような豪勢な部屋にいた。ベッドから調度品に至るまで、すべてが高級品であるということが一目瞭然の部屋であり、セツナは扉を開けた瞬間、部屋を間違えたのではないかと思ったものだ。
話によれば、ベレルの宰相ジノ=レンドの計らいによるものらしいのだが、そのような気遣いは不要だと、セツナは声を大にして言いたかった。しかし、ナーレスは、そういう待遇にも慣れるべきだというのだ。
『セツナ伯はガンディアの中でも特別な地位にあるということ忘れてはなりません』
『そうですよ。セツナ様は、陛下の寵愛も深いお方。ベレルの宰相が特別扱いするのも、当然というものですわ』
ナーレスとメリルに説得されるまま、セツナは、この部屋で寝ることになったのだが。
(眠れねえ)
闇の中、彼は、奇妙な興奮と緊張の中にいた。
緊張もするはずだった。主君であるレオンガンド・レイ=ガンディアの代理人として、このベレルまでやってきたのだ。ナーレスのいった通り、なにもすることはなかったものの、セツナの一挙手一投足は、ベレル中の注目を集めているといっても過言ではなかった。ちょっとした言動が波紋を投げかけ、大きな反響となって返ってくる可能性もある。物見遊山気分でいい、というオーギュストの発言ほど信用ならないものはなかった。気を抜けば、ガンディアの評判そのものに関わるのではないか。
そもそもセツナは、エンジュールを賜った領伯なのだ。言動には常に気をつけなければならない立場にあった。親衛隊長に任命された頃から気をつけてはいたのだが、より一層気をつけなくてはならなくなったし、窮屈な思いをすることもしばしばだった。
とはいえ、別段疲労を感じることは少ない。
気心の知れた仲間がいるということが、大きな支えになっていた。
ファリア、ルウファ、ミリュウ、それにエミルとマリア。ニーウェも、仲間に入れてあげるべきだろう。ベレルにまで連れてきているのだ。彼だけ仲間はずれにするのは、かわいそうだった。
大切な仲間たち。
《獅子の尾》という絆が、セツナの精神状態に安定をもたらしていることがわかる。居場所がある。ただそれだけで、生きているという実感に繋がった。だからこそ、セツナはミリュウやファリアの居場所になろうと思えた。
彼女たちが居場所を欲しているというのなら、その居場所になってあげればいい。それで彼女たちの魂に安らぎが訪れるなら、心の平衡を得ることができるのならば、なんだって出来る気がした。
(俺が……そうだったからかな)
天蓋付きの豪奢なベッドの上で、セツナは闇を見ていた。部屋の明かりは愚か、携帯用の魔晶灯さえも消灯したいま、彼の寝床には深い闇が落ちてきていた。窓の外も暗く、星明かりが差し込んでくる様子もない。入ってくるのは風だけで、冷ややかな風に揺れるカーテンの白さが、闇の中でも鮮やかに見えた。
(風……?)
セツナは、疑問を抱いたと同時に動いている。右へ転がり、ベッドの脇へ。なにかが高級な寝台に叩きつけられる音がした。破壊的な衝撃音は、わずかに眠りかけていたセツナの意識を完全に覚醒させるに至る。さらに右に転がりながら、気配を探る。広い部屋だ。侵入者との距離を取るのは、難しいことではなかった。
「へえ、案外やるじゃない。見た感じ、ただの子供なのに」
軽薄な女の声に、セツナは襲撃者の居場所を特定すると、すぐさま立ち上がり呪文を唱える。
「武装召喚」
全身から光が拡散し、網膜の裏が灼かれるような感覚があった。爆発的な光は一瞬にして収斂し、セツナの右手の内に冷ややかな重量となって顕現する。黒き矛カオスブリンガー。禍々しい切っ先を暗殺者のいるであろう方向に向けて、牽制する。五感の急激な膨張と意識の拡大が、一種の呪いのようにセツナの頭を苛んだ。
「うっそ、なによそれ。聞いてないわよ」
「暗殺する気なら、対象の情報は調べあげておくものだろ」
非難がましい女の声に、セツナは冷酷に告げた。とはいうものの、セツナが武装召喚術を呪文もなしに行使できるという情報は、いまだに広まりきってはいないのだろう。そもそも、武装召喚術に疎いものには、呪文の有無がどれほどのものなのか理解できないことではある。セツナ自身、武装召喚術はこういうものだと思っていたのだ。ファリアに驚かれて、やっとこれが異常なのだということに気づいた。
「そうね。その通りだわ」
女の声が冷ややかさを帯びると、気配そのものの質も変化した。明確な殺意が肺腑を抉るような鋭さでセツナに突き刺さる。セツナは、黒き矛を握る手に知らず知らず力を込めていることに気づき、ふっと息を吐いた。室内に落ち込んだ闇も、いまのセツナには障害にすらならない。相手の目がたとえこの闇に慣れていたとしても、セツナのほうがよく見えているのは疑いようがない。それは過信ではない。確信だった。黒き矛への信頼でもある。
相手の輪郭が見えている。
小柄な女だ。少なくとも、ファリアやミリュウのよりも低い。身につけているのは、闇に溶けるような黒衣で、大きな鎌を手にしている。まるで死神のようだと、セツナは思った。そして、死神部隊という単語が脳裏に浮かんだ。
ジベルの特殊部隊。
「なるほどな。ジベルがあっさり引き下がった理由がわかったよ」
セツナは、黒き矛を軽く旋回させた。剣風が起こり、シーツが舞い上がる。大鎌が一閃し、シーツが両断される。一瞬、相手の視界が塞がれ、付け入る好機が生まれたが、セツナは攻撃を仕掛けなかった。
相手がジベルの特殊部隊ならば、殺していいのかどうか。
まだ、判断がつかない。
「ん?」
「俺達の油断を誘ったってわけだな」
「はい?」
「油断して寝入っている俺達を始末すれば、ジベルはガンディアに対しても優位に立てると思っていたんだろうが、そうはいかない」
セツナは女を睨みながら、黒き矛がいつも通りの力を与えてくれている事実に感謝した。
「……なんていうか、あなた馬鹿でしょ」
「なにがだよ」
「あたしがあなたの寝込みを襲ったのは、あたしの独断よ。ハーマイン将軍にしても、死神部隊にしても、もうミョルンを離れているわ。ミョルンの駐屯部隊も、それに続いている。明日中には、この街はベレルのものになるわ」
「独断……?」
「そうよ」
「それが、ガンディアとジベルの関係を悪化させるとは考えなかったのかよ」
セツナは口を尖らせた。彼女は、自分がジベルの人間だということを明らかにしてしまっている。セツナがこの事を表沙汰にすれば、大問題に発展しかねない。いくらガンディアがジベルと戦いたくないとはいえ、領伯が狙われたとあれば、なにかしらの行動を取らざるをえない。
「あなたさえ殺すことができれば、それでも良かったんじゃない? どうせ、ガンディアなんてあなたひとりで保っているような国なんでしょ」
「それは買い被りすぎだ」
「世間は、そう思ってはいないわよ。セツナ・ラーズ=エンジュール様」
「……世間がどう思っていようと、俺ひとりがガンディアを支えているわけじゃないのは事実だ」
セツナの脳裏には、ガンディアのために血反吐を吐く想いで戦うひとびとのことが浮かんだ。真っ先にレオンガンドがあり、つぎにアルガザード大将軍やアスタル右眼将軍、エインやドルカ、グラードなどが過る。もちろん、《獅子の尾》の仲間たちもだ。
「まあ、世間の評判なんてあてにならないのは事実だけど、あなたの評価に関しては、ひとつだけ、間違っていないことがあったわ」
「なんだよ」
どうせろくでもないことをいうつもりなのだろうと警戒していると、女が近づいてきた。ベッドを乗り越え、きわめて気楽な足取りで距離を詰めてくる。そこに敵意もなければ、殺意もない。大鎌を後ろ手に持つことで、攻撃する意志はないと示しているようでもあった。
近づくと、女が仮面を被っていることがわかる。獅子の仮面
「あなたが強いということ。強い男は好きよ。子供でもね」
女が鎌を手放した。鎌の刃が床に突き刺さり、柄頭がゆっくりと落ちていく。その光景が緩慢に見えたのは、そこから先のことが衝撃的に過ぎたからだろう。
「いい目ね。いくつもの死線を潜ったものだけが持つ目よ。どれだけの敵を殺せば、そんな目になることができるのかしらね」
「知るかよ」
セツナはぶっきらぼうに告げたが、女の接近を阻むことができなかった。彼女に敵意はない。武器も手放している。どこかに暗器を潜ませている可能性は皆無ではないが、だとしても、黒き矛を手にいている以上、晩餐会の夜のような失態を繰り返す心配はない。それもあって、セツナは成り行きを見守った。
女は、間近まで来ると、己の仮面に手をかけ、外した。仮面の中から現れたのは、息を呑むような美少女であり、セツナは、衝撃のあまり言葉を失った。大きな黒い目に吸い込まれていく。まるでブラックホールだと思った。なにもかもを吸い込んでいしまうような、魅力を秘めた瞳だった。
「!?」
一瞬、なにが起きているのかわからなかった。
気が付くと、唇を奪われていたのだ。やわらかな感触が電流となって五感を刺激し、脳細胞が活性化するような感覚さえあった。生まれて初めてのことではないにせよ、驚愕と衝撃で意識が真っ白に塗り潰されるのは、当然だったのかもしれない。
脱力していて、セツナはしばらく、女のなすがまま、されるがままだった。ただそれでも、女がわずかでも殺意を覗かせれば、黒き矛は女を貫いただろうが。
女は、殺意の片鱗さえ見せなかった。
「な、なんなん……なんなんだよ……!」
ようやく女の体を引き離すことができたのは、およそ数分後のことだ。正確な時間はわからない。もっと短かったかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
女は、仮面を被りなおしながら、少し不満そうにいってきた。
「あら? なんでそこまで驚くの? もしかして、セツナ様ってば、恋愛経験もない?」
「よ、余計なお世話だ!」
「結構可愛らしいところもあるじゃないですか」
女の態度が急変したことに違和感を覚えたものの、いまのセツナには対処することなどできるはずもなかった。最初の殺意が嘘のようだった。
彼女は、こちらとの距離を取るように後退りすると、床に突き刺していた大鎌を軽々と持ち上げ、肩に担いだ。そして、いうのだ。
「そうそう、申し遅れました。あたしはレム・ワウ=マーロウ。またの名を死神壱号。つぎこそ、あなたの人生、頂きに参りますわ」
女は、悠然とした足取りで窓辺に向かうと、ためらいもなく窓の外へと跳躍した。二階である。飛び降りられない高さではないものの、落下地点の様子を確認することもなく飛び降りるのは、簡単なことではない。
死神は、やはり常人ではないのだ。
そんなことを思いながらも、セツナは彼女の唇の感触を思い出して、茫然とした。
翌朝、セツナを起こすために部屋に忍び込んできたミリュウとファリアが部屋の惨状に悲鳴を上げ、つぎにセツナの唇に残っていた紅の跡に激怒したのは、いうまでもない。