第五百四十一話 ベレルとジベル
セツナたち《獅子の尾》が、ナーレスらとともにエンジュールを出発したのは、翌日――つまり十一月三日のことだった。
セツナたちとの合流後、ベレルに直行することを考えていたナーレスらは、たった三人でエンジュールに訪れたわけではない。
ログナー方面軍第四軍団が随行しており、軍団長のドルカ=フォーム、副官のニナ=セントールも同行することになっていた。
『最強部隊とはいえ、たった六人だけでは、ベレル側も不安でしょうから』
オーギュストがセツナたちの心情を宥めるようにいったが、当のセツナたちはなんら気にしていなかった。たった六人の部隊だというのは事実だったし、そのうち二名は戦闘員ですらないのだ。救援を頼んだのに、わずか四人ばかりの援軍では、喜ぶどころか不安を煽るのは間違いなかった。たとえ、セツナたちの実力を承知していても、数の上では頼りがいがない。
『なんていうか……その……羨ましい限りですな!』
ザルワーン以来、久々に顔を合わせたドルカの開口一番がそれであり、ぶれないドルカの生きざまには感動すら覚えたものだ。ニナが睨んでいたのはいうまでもないし、《獅子の尾》の女性陣はだれひとりとして彼を相手にしなかったが。それでも執拗にファリアに絡んでいく相変わらずのドルカに、セツナも苦笑いを浮かべるしかなかった。
ガンディアとベレルの間に横たわる国境を越え、ベレルの首都ルーンベレルに到着したのは、十一月五日。エンジュールを発って二日しかかかっていないのは、アスタル発案の行軍方法で脇目もふらず走り抜けたからだった。
ベレルに辿り着くと、セツナたちは思わぬ歓迎を受けた。ベレルの軍人はおろか、平民に至るまで、ルーンベレルに翻るガンディアの軍旗に手を振り、歓声を上げたのだ。セツナは驚いたが、あとで戦況を知って納得したものだ。ベレルは、ジベルによって領土の四分の一を奪われていたのだ。国民がガンディア軍の到来を喜ぶのも無理はなかった。
到着直後、王宮に招かれたセツナたちは、ベレル国王イストリア、王妃ミスレとの会見に臨んだ。セツナは領伯という立場にある以上、そういう場に出なければならなかったし、なにより今回はレオンガンドの代理人としての立場もあった。
『なに、セツナ様は陛下の代理人としてどーんと構えていてくださればよいのです。なにも難しいことはありませんよ』
などとオーギュストは言い放ったのだが、わざわざ主君の代理人と明言された以上、セツナが緊張しないわけがなかった。
もっとも、ベレル国王との会見は、オーギュストとナーレスが進行してくれたおかげもあって、なにひとつ問題なく終わった。会見後、セツナたちは、王宮大広間で贅を尽くした料理を振る舞われており、まるで休暇の延長上にあるのではないかという錯覚に襲われたりもした。
夕食後、セツナたちはようやく今回のベレル救援に関する会議に入った。
「さて、状況をおさらいしましょう。ナーレス様」
「ああ、説明はわたしからしたほうがよろしいか」
オーギュストに名指しされたナーレスは、不承不承といった様子で、ベレル領内の地図を広げた。ベレルは、ガンディアとログナーの東に位置する国であり、領土内にルーンベレル、ベイルダール、ハーレル、ミョルン、カルバーンといった都市がある。そのうち、もっとも北に位置したハーレルがジベルの軍勢によって真っ先に落とされたことは、セツナたちも知っている。戦況はそこからさらに悪化しており、ルーンベレル北東の都市ミョルンも、ジベルの猛攻の前に陥落寸前だという話だった。ミョルンが落ちれば、ジベルがつぎに軍を差し向けてくるのは、この王都ルーンベレルであるのは間違いない。ベレルは、全戦力をルーンベレルに結集しているようなのだが、ハーレルとミョルンで散った戦力を補充できない以上、ジベルとの間に巨大な戦力差が生まれるのは必定であるという。まともにやりあえば、ベレルの勝ち目は薄いとナーレスは告げた。
「どうするんです?」
「どうするもこうするも」
ナーレスが困ったような顔をしたのは、セツナの頭の悪さを計算の中に入れていなかったからに違いない。
「はい?」
「わたくしがなぜ、セツナ伯にご出陣願ったのか、わかりませんか?」
「……はい」
「せんせー、わたしもわかりませーん」
隣のミリュウが元気よく手を上げると、ルウファがあきれたように笑った。
「セツナ伯は、御自分の影響力をわかっておられないようですね」
「影響力?」
「セツナ伯が援軍に来たと知れば、ジベルはこれ以上、ベレル領土を荒らそうとはしないでしょう」
「なるほど……抑止力なんですね、隊長は」
「そういうことだ。セツナ伯には、ジベルの侵攻を止める力になってもらうとともに、ジベルとベレルの講和の一助を担ってもらうつもりです」
「はい?」
「なにもしなくていいってことよ」
ファリアの耳打ちにも、セツナは納得できず、ミリュウともども憮然とした表情になった。
「講和の一助……」
「ええ、講和です。ベレルとしては、我々にジベル軍を追い払ってもらいたいところでしょうが、同盟を結んですらいない国にそこまでする義理はない。戦闘になれば、《獅子の尾》はともかく、ドルカ軍に被害が出る」
「それは間違いないですね。うん」
「陛下も、そのことを悩まれておられた。ザルワーン戦争で多大な犠牲を払ったばかり。自国の戦争ならばいざしらず、まったく関係のない国のために出血するなど、言語道断でしょう」
「それはまあ、わかりますけど」
だから、レオンガンドは、ナーレスにベレルのことを任せたのかもしれない。セツナにはナーレスの凄さはわからないが、レオンガンドはよく知っているのだ。彼に任せればうまくいくと考えているに違いないし、そうであればこそ、セツナもナーレスの策に従うことができる。レオンガンドが信用出来ない人物をどうして信じることができよう。
「戦闘行動は起こさない。戦わずして、勝つのです。そのために我々はこの都に乗り込んだのですから」
ナーレスが最後に言い放った言葉が妙に引っかかったものの、セツナには、彼の策を信用する以外の道はなかった。
「聞いたかね。ルーンベレルに、ガンディアの軍旗が翻っているそうだ」
制圧したばかりのミョルンの市街地を歩きながらハーマイン=セクトルがつぶやいたのは、ついさっき彼女たちの耳に飛び込んできた情報でもあった。なんでも、ベレルの王都にガンディアの軍勢がなだれ込み、ジベルに攻撃する構えを見せているというのだ。しかも、軍旗の中には、王立親衛隊《獅子の尾》の隊旗もあるという。
《獅子の尾》といえば、黒き矛のセツナが隊長を務める、ガンディア最強の戦闘部隊ではないか。
レム・ワウ=マーロウは、その情報を知ったとき、久々に血が沸き立つような感覚を抱いた。ハーレルの戦いでも覚えなかった感覚だ。そもそも、ベレルの雑兵など、彼女たちが戦うべき相手ではない。死神部隊は、ジベルが誇る最強部隊だが、その本来の任務は暗殺や破壊工作であり、戦争に投入されること自体、めずらしいことだった。それだけ、アルジュ王がベレル侵攻に本気だということだろうが。
(いえ、将軍閣下のほうかしらね、本気なのは)
レムは、前を歩くハーマイン将軍の横顔を盗み見た。アルジュ王の右腕にして、国政さえも取り仕切る偉丈夫の目は、刃のように鋭さで前を見ている。
その隣を歩く黒い仮面を被った男が、つぶやいた。
「ええ、もちろん。ガンディアが投入した戦力は、ログナー方面軍第四軍団と王立親衛隊《獅子の尾》だけのようです」
低く渋い声は、それだけでレムの耳を幸福で満たしてくれる。死神零号ことクレイグ・ゼム=ミドナスである。死神部隊の隊長は、レムよりも少し上背がある程度の、男としてみれば小柄な部類に入る人物だった。しかし、身に纏う威厳と圧力は、身長の低さなど気にさせなかった。なにより、死神部隊を統率するに足る実力がある。死神部隊の中で彼に敵うものはいないのだ。腕力や脚力といった局所的な能力では上回るものもいるのだが、彼と組手をすれば、圧倒的な敗北感に苛まれるだけだった。そこが、クレイグの魅力であり、レムが彼を唯一無二の主と仰ぐ理由だった。
「ほう、そこまで判明しているのか」
「数の上では問題はありませんな。ナーレス=ラグナホルンが指揮を取っているようですが……そこも大した問題ではない」
「確かにな。たかが千人増えたところで、兵力では我が方が大きく上回る」
「兵力では」
「その通りだ。兵力差では勝っても、戦力差を埋めることはできまい」
ハーマインが嘆息するように告げた。
レムは、隣を歩く鷹の仮面の男に尋ねた。
「どういうこと?」
「《獅子の尾》が出張られちゃあ、こっちに勝ち目はないってことっしょ」
「《獅子の尾》がなによ。あたしがひとり残らず殺してやるのに」
レムが息巻くと、クレイグが彼女を振り返った。黒い仮面の奥から、冷ややかな視線が注がれているのがわかる。その凍てついた刃のような冷ややかさは、レムの感性を刺激し、感情を高ぶらせるのだが、いまはそういう場合ではない。
「壱号、敵を過小評価するのがおまえの悪い癖だ。過剰に評価する必要はないが、冷静に相手の力量を測ることを怠ってはならない。怠れば、死ぬのはおまえだ」
「はい」
「おまえの死は、わたしにとって大きな損失なのだ。それを忘れるな」
「は、はい!」
レムは力強く返事をすると、顔面が急激に熱を帯びたことを認識した。仮面をかぶっていてよかったと心の底から思うのは、左右の仲間たちにその緩みきった表情を覗かれずに済んだからだ。レムは、クレイグがそういってくれるからこそ戦えるのだと思っている。
「それで、将軍はどうされるおつもりなのです」
「ガンディアと事を構えるのは得策ではない。ザルワーンをも飲みこんだ彼の国は強大だ。一時的に勝利することができたとしても、最終的には敗れ去るだけのことだ。ガンディアと戦うのであれば、ガンディアから勝利をもぎ取るつもりであれば、ジベルがより強大な国となるか、他国と力を合わせるか……」
「つまり」
「ルーンベレルへの攻撃は取り止めだ。ミョルンの部隊をハーレルへ退く準備もさせておく。ハーレルまで下がるかどうかはベレルの出方次第だが……ベレルとしては、最低でもミョルンぐらいは取り戻したいだろう」
「ガンディアの武力を背景に、ですか」
「卑しいことかね? わたしでもそうするがな。そして、ガンディアの最大戦力が目の前にいる以上、ベレルの要望は飲み込むしかあるまい」
ハーマイン=セクトルは肩をすくめてみせた。
「ハーレルの解放まで要求してきたら、どうなさるのです?」
「そのときは、君らに死んでもらうさ」
「なるほど」
クレイグはなにやら納得したようだったが、レムにはまったく理解できないことだった。ベレルがハーレル解放まで要求してきた場合、死神部隊には死ぬ覚悟で戦ってもらうということなのだろうが、死神部隊を失うだけの価値がハーレルにあるのだろうか。
「もちろん、冗談だよ。そんなことをすれば、わたしが陛下に死を賜る事になる」
「陛下にとっては、我々よりも将軍のほうが大事でしょうに」
「そうでもないさ」
ハーマインが叩く軽口はいまいち信用ならず、レムは首を捻った。隣で、鷹の面の死神が大げさにため息を付く。
「せっかく手に入れた街を手放すことになるのか。なんとももったいない話だねえ、まったく」
「仕方ないわ……黒き矛と戦うのは、わたしも嫌よ」
死神弐号ことカナギ・トゥーレ=ハランの心底嫌そうな声音は、武装召喚師と戦ったときのことを思い出したからだろう。彼女ほどの実力者が死にかけたのだ。彼女が武装召喚師に苦手意識を持つのは当然だった。
「ま、俺も、竜殺しなんかと戦場でまみえたくはないけどさ」
「戦場以外なら、か」
「レム、なにを考えてる?」
「なんでもないわ」
レムは適当に言い返すと、自分のその愚かな考えを意識の奥底に引っ込めた。そもそも、そんな好機が訪れるはずがないのだ。
セツナ・ラーズ=エンジュールの寝首を掻く好機など、あるはずがなかった。