第五百四十話 休暇の終わり
「はあー……なんともいい気なもんよねえ。日がな一日、温泉巡りしてればいいんだからさ」
「しかも、ここはセツナ様の領地で、どこにいっても諸手を上げて歓待されるなんて」
「なんていうか、地位を持つ人間が堕落していくのも、理解できるってもんさね」
ミリュウはソファに寝転び、エミルは菓子を頬張り、マリアは椅子に座って書物を広げている。三者三様のくつろぎ方だが、だれも文句をいうものはいない。
エンジュールに到着して、十日が経過している。大きな事件があったのは初日だけで(あんな事件が頻繁に起こるわけもないが)、それから十日あまり、平穏と安息に満ちたひびがつづいていた。天候も悪くはない。二、三日、雨が降ったものの、そんなものがセツナたちの休暇を阻害するようなこともない。
毎日のように温泉を巡ったり、街の中を散策したり、たまには訓練をしたり、武装召喚術の勉強をしたりもした。エミルがいったように、エンジュールの領伯であるセツナが歩きまわると、それだけで騒ぎになったりもしたが、それも数日続いただけだった。慣れたのだろう。いまや、セツナたちが出歩いていても、エンジュールの住人が人集りを作るようなことはなくなっていた。とはいえ、セツナが訪れた温泉旅館などは、全力を上げてもてなしてくれたし、領伯やその従者に粗相がないようにと最新の注意を払ってくれてもいた。
そんな風にして、セツナたちは、レオンガンドから与えられた長期休暇を満喫していた。ザルワーン戦争から今日に至るまでの疲れが、少しずつではあるが、確実に流れ落ちていくのが実感としてわかるほどだった。
「エリナも連れて来れば良かったのに」
ミリュウがぽつりとつぶやいた。
「エリナを?」
「うん。あたし、エリナと友達になったのよー!」
「そうだったのか」
ミリュウとエリナが友達というのは、不思議な感じがした。接点はともかく、年齢も価値観もまったく違うであろうふたりが、どのように仲良くなったのか、興味がわく。
「エリナもさ、セツナのことが大好きで、セツナの力になりたいっていっていたわ。武装召喚術を教えて欲しいってさ」
「まさか、教えるつもり?」
「エリナにその覚悟があるのなら、あたしが師匠になってあげてもいいって思ってるわ」
「エリナが武装召喚師に……ねえ」
なにやら資料に目を通していたファリアが、遠い目をしながらも反対しなかったのは、セツナには少し不思議に思えた。ファリアならば猛反発するのではないかと思ったのだが。どうやら、セツナの中のファリア像とファリアの実像はかけ離れたものであるらしい。
「なれたとしても、当分先の話よ。一年二年で身につけられるもんじゃないでしょ?」
ミリュウがうんざりとしたように告げたのは、彼女が武装召喚術を身につけるために費やした時間を思ったからかもしれない。ファリアとルウファがうなずくのを見やりながら、セツナは、なんの気なしにいった。
「俺は一瞬だったけどな」
あれをもって、武装召喚術を身につけたといえるのかどうかは疑問の残るところではあるが。
「あんたは特別でしょ」
「そうよ、卑怯な」
「卑怯って、酷い言い草だな」
セツナが憮然としていると。廊下のほうから物凄い足音が迫ってくるのがわかった。セツナは寝そべっていた体を起こすと、手近にあった椅子を引き寄せ、腰掛けた。いくら休暇中とはいえ、だらけきった姿を部外者に見せるのはよしたほうがいいだろう。とくにセツナはこのエンジュールの領伯なのだ。領伯が自堕落な少年では、領民も不安を抱くに決まっている。
「セツナ様! たたたた大変です!」
勢い良く扉を開け放ったのは、ゴードン=フェネックだ。エンジュールの司政官は、毎日のようにセツナたちの宿所に尋ねてくるのだが、今日ばかりはいつもと様子が違った。
「どうしたの? ゴードンさん」
「ナ、ナーレス様、オーギュスト様がエンジュールに参られまして、セツナ様にお会いしたいと仰られております!」
「ナーレス様にオーギュスト様って」
「軍師様に参謀様よね?」
「いくらなんでも突然過ぎない?」
「突然なのは、当然なんですよ。急を要する事態が持ち上がったものでしてね」
セツナたちが顔を見合わせていると、オーギュスト=サンシアンが口を挟んできた。三人は驚きながら貴人を迎え入れると、彼の背後に控える人物の様子にさらに驚愕した。
長身痩躯の男が美しい少女を伴い、部屋に入ってきたのだ。セツナは、その男がナーレスで、少女がその妻メリルであることを直感的に理解したものの、あまりの年齢差に飽いた口が塞がらなかった。もちろん、メリルがナーレスと結婚したときの年齢を知ったときの驚きに比べれば小さいものだったが。
「突然の訪問、どうかご容赦のほどを。セツナ・ラーズ=エンジュール様」
稀代の軍師と呼ばれた男が恭しく頭を下げてきたので、セツナは思わず椅子から飛び上がるようにして立ち上がった。
「様だなんて、そんな……」
「なにをおっしゃる。セツナ様はエンジュールの領伯であらせられるのです。この小さな街と周辺地域の支配者といってもいいのです。もっとふんぞり返っておられても、問題はないのですよ」
「はは……そんなの、無理ですよ」
セツナは、ナーレスの発言を冗談と受け取ると、彼のまなざしの鋭さに辟易した。まるで心の奥底まで見透かすような視線だった。無論、敵意や悪意があるわけではない。しかし、ただ鋭いだけの視線は、ときに敵愾心を抱かせるものだ。
もっとも、セツナがナーレスに悪感情を抱くようなことはなかったが。
ナーレス=ラグナホルン。レオンガンドが幼少の頃から活躍していたガンディアの軍師であり、ザルワーン攻略のために、五年に渡り内部工作を行ってきた人物である。彼がミレルバスに拘束されたことがきっかけとなって、ザルワーン戦争は始まった。だれもが彼の生存を諦めていたが、龍府の地下に幽閉されていたところをミリュウたちが発見し、一命を取り留めたという。そういう意味でミリュウは彼の命の恩人らしく、ナーレスはミリュウに一礼し、メリルはミリュウに駆け寄って、親しげに言葉を交わした。
メリルは、ミレルバス=ライバーンの娘なのだ。ライバーン家、つまり五竜氏族の出身であり、ミリュウとは子供の頃に遊んだ仲らしい。ザルワーンを毛嫌いしているミリュウだが、メリルには優しい顔を見せていた。その様子が微笑ましくて、いつまでも見ていたかったが、セツナはナーレスとオーギュストに応対しなければならなかった。
「急を要する事態、というのは?」
セツナが改めて問いかけたのは、場所を宿所の広間から応接室に移してからのことだ。広間には菓子類が散らかっている上、マリアやエミルもいて、とてもナーレスたちと話し込むような状態にはなかったのだ。
その点、応接室は、話し込むにはぴったりの場所だった。広間よりも狭いし、椅子の数も少ないが、少人数で話し合うこともあってなんの問題もなかった。セツナ側は、セツナとルウファ、ファリア、それにゴードンが参加し、ナーレス側はナーレスとオーギュストのふたりだけが、応接室に入った。
「ジベルがベレルへの侵攻を開始したという話は知っていますね?」
「ええ、もちろん」
セツナは、オーギュストの問いに即答した。ジベルもベレルもガンディアの隣国だ。ジベルはザルワーン戦争のどさくさに紛れ、スマアダやメリス・エリスといった都市を占領していった国であり、ガンディア側から見れば火事場泥棒以外のなにものでもない国だった。もっとも、ジベルがグレイ軍を支援してくれたおかげで、ガンディア軍はザルワーンを蹂躙できたのだが。
そういう経緯もあり、ガンディアはジベルによる火事場泥棒的行為になんら言及することはなかった。
一方、ベレルは、小国家群でも目立った動きのない国であり、自国領土さえ維持することができればそれでいいといった気分の強い、保守的な国だった。ザルワーン戦争前まで《白き盾》と契約していた国でもあり、ベレルの騎士長であったグラハム・ザン=ノーディスが国を追われ、《白き盾》の団員になった話はよく知られている。
どちらも、ガンディアと隣接した国ということもある上、エンジュールからほど近いため、両国の情報はよく入ってきていた。二十四日、ジベルがスマアダに軍を展開し、ベレル北部の都市ハーレルへの攻撃を開始したという情報も、二日後の二十六日にはセツナの耳に届いている。それは、ゴードンたちが情報収集に力を入れているからでもあるが。
二十四日といえば、セツナたちがエンジュールに到着した翌日のことであり、九日前のことでもある。ハーレルはよく持ち堪えたが、ジベルが死神部隊を投入した二十八日、ついに陥落したといわれている。ジベルは余勢を駆ってベレル各地に部隊を展開、ベレルの各地で小競り合いが起きているという。
「それがどうかされたんですか?」
「ベレルからガンディアに救援要請があったのですよ」
「救援要請?」
「もちろん、同盟国でもなければ、なんの関係もない他国のことです。捨て置いても構わないのですが、みすみすジベルを肥え太らせる必要もありませんし、ベレルに恩を売るのも悪くはないでしょう。なにせ、隣国ですからね」
「つまり、救援に向かうということですね?」
「そしてその援軍にわたしたちが加わる、と」
「ええ。《獅子の尾》は陛下の親衛隊ですが、ガンディアの最強部隊という側面も持っていますので。それに、セツナ様が隊長を務めておられますから」
オーギュストが慇懃な態度を取るのがセツナには奇妙に思えた。サンシアン家の当主ともあろうものが、セツナに対して頭が上がらないというのが、不思議でしょうがなかった。それはオーギュストに始まったことではない。エンジュールに到着してからずっと感じていたことだ。違和感がある。しかし、その違和感にも慣れていくのだろうということが少しだけわかっている。
「本来ならばレオンガンド陛下にご出馬して頂きたかったのですが、なにぶん、お忙しい身。たかがベレルの救援如きでは、陛下の大切な時間を使うのもいかがなものかと考え、セツナ様を陛下の代理とすることにしたのです」
ナーレス=ラグナホルンは、そういうと、冷ややかなまなざしをセツナに注いできた。