第五百三十九話 彼女の居場所(三)
真夜中。
だれもが寝静まった時間帯、星空というには雲の多すぎる空模様は、夜の闇を深いものへとしていた。肌寒く、寝間着だけでは、夜風を楽しむなどという芸当はできそうにない。秋だ。うだるような夏は、とうに過ぎ去ってしまっている。
ザルワーンにいたころは季節感を肌で感じる、ということはなかったといってもよかったが、ここエンジュールでは秋の景色がセツナたちの目を楽しませてくれていて、夜中に薄着で出歩いてしまったのは、セツナの不注意以外のなにものでもなかった。
人気のない庭の中を歩いている。小さな池があって、雲隠れしようとする月が水鏡に移りこんでいる。池には鯉でも泳いでいるのかと思ったが、そうではないようだった。
宿所は、アズマリアの騒動があってからというもの、強烈な警備体制が敷かれかけたが、セツナが阻止した。自衛能力のあるセツナたちを護るために大事な人員を割くなど、以ての外だと説得したのだが、ゴードンとしてはセツナにもしものことがあったらと考えると、ぞっとしないに違いない。それでも、厳重な警備の監視下に置かれていては、休暇を満喫することもできないというセツナの本音を優先してくれたゴードンとは、上手くやれそうな気がした。
「眠れないのかしら?」
唐突に問われて、セツナは後ろを振り返った。多少厚めに着込んだファリアが、館の中からでてきたところだった。ミリュウがついてきていないところを見ると、彼女は寝てしまったらしい。
「そういうわけじゃないけど」
セツナが苦笑交じりに答えると、ファリアは小首を傾げた。
「ふうん?」
「……ファリアのことを考えてた」
「わたしのこと? どうして?」
ファリアが目を丸くしたのは、予想外の返答だったからだろうが、セツナは本当のことをいったまでだった。彼女のことを考えるために静けさを求めているうちに、庭に出てしまった。ただそれだけのことだ。
「ずっと、気になっていたからさ。王都にいるときから、心ここにあらずって感じだっただろ?」
「……わかってたんだ」
「わかるさ。だって、ずっと見てるからね」
「……うん」
ファリアが視線を俯けた理由はわからない。セツナはただ事実を述べているだけだ。ファリアをいつも見ているから、些細な変化にも気づくことができる。当たり前のことだ。だからといって褒められることではないのは、彼女に頼ってもらえなかったという事実からもわかる。頼られなかっただけではない。自分から手を差し伸べることもできなかった。そんな無力さが、いまになってセツナの胸を締め付けている。
ファリアは今日まで苦悩をひとりで抱え込んでいたのだ。それはとても苦しくて、重い悩みだった。彼女の人生に関するもの。セツナが頼れないのも当然といってもいいような代物。
「ごめん」
「なに? どうしてセツナが謝るのよ。セツナはなにも悪くないわ」
「ファリアの異変に気づいていたのに、なにもできなかったから」
「それは……わたしの問題でしょ。わたしが他人を頼らない人間だったから、だれも手を差し伸べなかった――ただそれだけのことよ。セツナが悪いわけでも、ほかのだれかが悪いわけでもない。全部、わたしが、わたしという人間が抱える問題にすぎないわ」
「ほら、またそうやって、なにもかも自分のせいにする」
「でも、事実じゃない」
ファリアは自嘲するでもなく笑った。素直な笑顔は、素敵としかいいようがない。ファリアがここまで素直に笑っている姿を見るのは本当に久々だった。セツナは自分まで救われた気分になって、笑顔を返した。
「そうかな」
「そうよ」
ファリアはそういうと、闇の中で伸びをした。あくびが漏れて、その色っぽさにどぎまぎするのだが、彼女は気づいてもいないようだった。
「でも……ありがとう」
「さっきも聞いたよ」
「なんどでもいうわよ。ありがとう。セツナたちが受け入れてくれるから、わたしはここにいることができるのよ。感謝する以外に、この感情を表現することなんてできないわ」
「くすぐったいよ」
「なるほど。領伯様におかれましては、感謝の言葉が弱点であられますか」
「……怒るよ」
「冗談よ」
そういってひとしきり笑うと、彼女は、ゆっくりと息を吐いた。気温が下がってきたとはいえ、まだ息が白く染まるようなことはなかったが。そもそも、冬がきたとして、そこまで気温が下がるようなことはあるのだろうか。セツナは、小国家群の季節がどうなっているのか、いまだに理解していなかった。
不意に周囲が明るくなったと思ったら、頭上で月を隠していた雲が流れていた。青白い月の膨大な光が、なによりも強く闇を払っていく。そして、その青白さは、ファリアの青みがかった髪を神秘的に照らしている。
「リョハンの立場を失ったわたしには、もうなにもないって思っていたわ。わたしはリョハンの“ファリア”であることがすべてだったから。この名前が、偉大な祖母の名前が、わたしの人生を決定づけていたのよ。それがすべてで、それ以外の道なんて考えられなかった。わたしはいつかリョハンに戻り、お祖母様の後を継ぐことになるんだって思っていた。アズマリア討伐も、父の仇討ちも、その一環に過ぎないんだって、ね」
セツナは、ファリアの独白を聞きながら、彼女の横顔を見ていた。月を仰ぐファリアの横顔は、青白い月影に曝され、青く白く染め上げられている。
「でも、そうじゃなかった。リョハンに戻ることはできなくなって、その代わり、ここにいるという道ができた。不思議ね。いまならそれも悪く無いと思えるわ……ううん、そうじゃなくて、それでいいって思えるのよ。これでよかったって」
ファリアが、こちらを見た。エメラルドグリーンの瞳が見えた気がしたが、すぐに影に隠れて見えなくなってしまった。つまり、表情もわからなくなったということだ。
「考えて見れば、道なんていくらでもあったのよね。どうして、それしかないって思っていたのかしら。思い込んでいたのかしらね」
「不思議だな」
セツナは、他に言う言葉も見当たらなかったが、脳裏にはある女の慟哭が反響していた。
『道なんてあるはずないじゃない』
そういったエレニア=ディフォンは、すべてを失う覚悟でセツナを刺した。が、セツナを殺せないまま、囚われの身となり、暗殺計画に関する情報をすべて吐き出した上で死ぬことを望んだ。道なんてないといった女には、未来など不要だったのだろう。
しかし、セツナは、彼女の死を望まなかった。無闇矢鱈に殺すことを拒んだ、初めての意思表示といえるのかもしれない。戦場でならばいくらでも殺そう。どんな敵でも殺そう。男でも女でも、老人でも子供でも、敵とあらば殺そう。
それがレオンガンドの望みならば。
それが黒き矛の役目ならば。
だが、戦場以外では、極力人殺しをしたくなかった。
手を見下ろす。傷だらけの掌はすでに血に汚れきっている。何百何千の敵兵の命を切り捨ててきたのだ。いまさら偽善を吐くつもりもないが、それでも、殺さなくていいのならそれでいいのではないか。無駄に命を奪うことになんの意味があるのか。
殺し続けてきたからこそ、その虚しさに気づく。
ガンディアの勝利のためならばいい。
レオンガンドの望み、主君の願いを叶えるためならば、矛を振るうことに躊躇はないのだ。
だからこそ、戦場以外では極力命を奪うという結論は避けたかった。
その結果、エレニアは死罪を免れた。もちろん、無罪放免などではない。このエンジュールのどこかで、軍に監視されながら残りの人生を過ごすことになっている。それが彼女にとっていいことなのか、悪いことなのか、セツナには判断のしようがなかった。
(なんで……?)
どうして、エレニアのことが思い浮かんだのか、セツナ自身にもわからなかった。