第五百三十六話 湯煙る郷に在りて(十二)
「もう、行くんですか?」
セツナがクオールに尋ねたのは、温泉での出来事が終わり、ゴードン=フェネックたちに事情を説明してからのことだった。もっとも、大半の説明はルウファが済ませていたのだが。彼は、アズマリアとの戦闘が長引くことはなさそうだと推測すると、すぐさま浴場を出て、使用人やゴードンの秘書に話をつけたらしい。浴場への接近を禁じるとともに、不測の事態に備えることを訴えたのだ。ルウファの迅速な行動のおかげで、セツナたちは説明に煩わされることはなかった。
宿所の温泉はしばらく使えなくなったものの、損害というほどのものはなかった。男湯と女湯を隔てる岩壁が崩れたくらいだ。すぐに使えるようにさせるとゴードンが息巻いていたが、そこまでする必要はなかった。エンジュールにはほかにも温泉があるのだ。
戦闘の爪痕といえるようなものは、それくらいだった。アズマリアが使っていた謎めいた戦士たちの死体は愚か、それらが用いていた剣や盾も消え失せてしまっていたのだ。まさかアズマリアが回収に訪れたわけではなかろうが、後片付けも説明も不要なのは、ありがたくはあった。
もっとも、アズマリアとの間で戦闘があったという事実は、レオンガンドに報告しておかなければならないだろう。リョハンと《協会》、それにファリアとアズマリアの問題なのだ。大きな問題になることはないだろうが、報告しておくことに越したことはない。
ファリアはというと、ミリアの姿のままのアズマリアが門の向こうに消え、門そのものも消えたあと、彼女は悄然としていた。まるでなにもかもを失ってしまったかのような様子は、ザルワーン戦争後のミリュウの姿と重なって、セツナの胸を締め付けた。そのファリアをミリュウに任せてクオールの姿を探し回ったのは、気になることがあったからにほかならない。
クオール=イーゼンという名前は、アズマリアが消えたあと、クオール本人から聞いていた。彼が空中都市リョハンの武装召喚師であるということ、リョハンの統治機構である護山会議の使いだということも聞き出している。エンジュールはセツナの領地であるとともに、ガンディアの国土なのだ。見知らぬ来訪者の身元を確認するのは当然のことだ。
場所は、宿所の庭先だった。クオールは、浴場にいたときと同じように召喚武装を身につけているのだが、どうやらそれが彼の常態であるらしい。召喚武装を常時召喚するというのは、精神的、肉体的負担が凄まじいはずなのだが、クオールは苦痛さえ見せていない。なんらかの秘密があるのかもしれなかった。
「ええ。結局アズマリアは取り逃してしまいましたが、報告はしなければなりませんからね。アズマリアと遭遇したことだけではなく、ミリア様の意識が生きていた事実や、ファリアが護山会議の意思を無視したことも」
「ファリアはどうなるんです?」
「どうなるかは、護山会議のお偉方次第でしょうね。でも、頭の硬いひとたちのことだ。彼女の居場所を奪うのは間違いない」
「居場所を奪う?」
「リョハンでの居場所、という意味ですけどね。とはいえ、ガンディアでの立場は変わらないでしょう。領伯様がその権力で彼女の立場を潰そうとでもしない限り」
「そんなこと、するわけないだろ」
セツナが口を尖らせると、クオールは、少しばかり安心したように表情を綻ばせた。
「それを聞いて安心しました。ファリアのこと、よろしく頼みます。俺では、彼女の力になってあげることもできませんから」
「……クオールさんは、ファリアとどういう関係なんです?」
「気になりますか?」
「そりゃあもちろん」
セツナは、すかさずうなずいた。ファリアのことだ。気にならないわけがなかった。
「ファリアとは、武装召喚術を同じ師匠に学んだ関係……つまり、兄弟弟子みたいなものです。もっとも、同時期に学び始めたから、どちらが上とか、そういうのはないんですが。俺やファリアの師匠は、リョハンでも最高峰の武装召喚師だったメリクス様とミリア様。つまり、ファリアの両親ですね」
メリクス=アスラリアとミリア=アスラリア。メリクスのことは話の中でしか知らないが、ミリアについては、ついさっき、当人と会ったことになるのだろうか。アズマリアが変容したことで出現したミリアが、本当に本物のミリアなのだろうか。ファリアもクオールも素直に受け入れているのだが、セツナはどうも信用できなかった。アズマリアのすることだ。なにもかも信じ込むのはどうだろうか。とはいえ、ファリアたちが信じるに足るだけのものがあるのは間違いない。姿形だけでなく、言動もミリア=アスラリアそのひとだったのだろう。
「メリクス様とミリア様を師匠と仰ぐ連中の間では、アスラリア教室とか呼んでいましたよ。みんな、多芸で多才だった。その中でも一際才能に溢れていたのがファリアだったんですよ。いや、才能だけじゃないな。人間的な魅力も大きくて、常に教室の中心にいたんです。みんな、彼女に憧れ、彼女を羨んだものですよ」
「そう……だったんだ」
「恋慕するものもひとりやふたりじゃなかったな」
「れ、恋慕?」
「もっとも、だれも彼女と恋仲になんてなれなかったけれどね。考えてもみてください。彼女の祖母はリョハンの戦女神であり、偉大なる召喚師。両親は直接の師匠なんですよ。恋い焦がれても、近づくことだって、できるわけがない」
クオールの苦笑には、青春の日々の残光が垣間見えて、セツナはすこしばかり妬ましくなってしまった。彼は昔のファリアを知っているのだ。セツナの知らないファリア。どんなひとだったのだろう。昔から、いまみたいな女性だったのだろうか。そんなことばかりが気になった。もちろん、彼女に懸想したというひとたちのことも気にかかったが。
「クオールさんも……?」
「……どうかな? 俺は、ただ、彼女の力になってあげたいとは思っていますよ。でも、俺には俺の使命がある。俺は護山会議の狗。翼を持った狗に過ぎない。彼女の力になってあげることはできないんです。だから、あなたに頼むんだ」
彼は、語気を強めていってきた。
「領伯様、どうか、ファリアのことを見ていてあげてください。たとえなにもできなくとも、見ていてくれるひとがいるということは、大きな力になるはずですから」
「わかったよ。でも、なにもできないなんてのは嫌だな。俺はファリアに随分助けられたんだ。これからは、俺が力になってあげないと」
「頼もしい言葉だ。信じていますよ」
「ああ」
力強くうなずいてみせると、クオールはセツナに向かって微笑んだ。そして、漆黒の翼を広げ、目の前から掻き消えるようにして飛翔していった。
強風に煽られたと思うと、彼の姿はあっという間に視界から消え去り、セツナは、しばらく呆然と夕焼けに染まる空を見ていた。
セツナが宿所の広間に戻るなり、ファリアが声をかけてきた。
「彼、帰ったのね」
「うん。リョハンに戻るってさ。忙しいひとだね」
セツナは、手近にあった椅子に腰掛けながら答えた。広間には、《獅子の尾》の面々だけが揃っている。宿所の使用人やゴードンの秘書の姿はなく、彼らが気を使ってくれていることが窺える。教育が行き届いているともいうのかもしれない。
広間の真ん中に置かれたテーブルの上には、山盛りの菓子とお茶が置かれていて、それぞれ思い思いの場所でくつろいでいた。一番大きなソファにはファリアがミリュウに付き添われるようにして座っており、反対側の席にルウファとエミルがいる。マリアは少し離れた場所でニーウェの相手をしていた。
「そりゃそうよ。だって彼は護山会議の使いだもの。それこそ、大陸中を飛び回らなくちゃならないのよ。寝る暇もないんじゃないかしら」
「そんなに?」
「ええ。レイヴンズフェザーが優秀だったばっかりに、扱き使われてるのよ」
「まるで俺みたいっすね」
「そういや、ルウファも情報伝達役で飛び回ってたな」
「笑い事じゃないっすよ。結構大変なんですよ?」
「ごめんごめん」
「まあ、使われるのが仕事ですからね、不満なんてないんですけど」
「さすがはルウファ」
「褒めたってなにもでませんよ」
ルウファがむくれている様が少しおかしくて、セツナは笑いを噛み殺す必要に迫られた。ここで笑えば、ルウファを余計に怒らせてしまうかもしれない。
「そっか……もう、帰っちゃったのね……」
「どうしたの?」
「わたし、全部無くしちゃったかもしれないわ」
ファリアはミリュウに対して笑ったつもりだったようだが、その表情は泣き顔以外の何物でもなかった。