第五百三十四話 湯煙る郷に在りて(十)
「ファリアの……」
「お母さん?」
「どういうことなんです?」
三者三様の驚きに対して、ファリアはなにもいえなかった。答えてあげられる余裕がなかったのだ。思考が停止して、動くことさえままならなかった。呼吸だけが荒くなっていく。
十年前、彼女の前から消え失せた母が、あの頃のままの姿で眼前に現れたのだ。冷静でいられるはずがなかった。混乱は急激に膨れ上がり、ファリアの小さな頭の中を様々な感情で埋め尽くしていく。まるで洪水のようだった。情報の洪水。感情の奔流。涙がこぼれたけれど、その涙が何を意味するのかさえわからない。手が震えていた。射線がぶれた。
「ああ、立派に成長して……これじゃあ泣き虫のクオールに意地っ張りのファリアなんて、呼べないわね」
ミリア=アスラリアの口から発せられる言葉もまた、ミリア=アスラリアそのひとのものだった。十年前と何ら変わらない声音に、口調に、台詞。どれひとつとっても、ミリア以外のなにものでもない。アズマリア=アルテマックスの影さえ見えなかった。だからだろう。ファリアは、思わず見とれた。
「でも、動揺しすぎよ、クオール」
「ぐあっ」
ミリアのしなやかな足が鋭く伸びて、クオール=イーゼンの脇腹に突き刺さったかと思うと、これが鍛えあげられた成人男性の肉体かと信じられなくなるような軽々しさで持ち上げられ、無造作に投げ捨てられる。すべて、片足だけで行われた動作であり、その流れるような体術は、ミリア=アスラリアの真骨頂ともいえるものだった。
優しき母は、当時のリョハンにおいて最高峰の武装召喚師であり、戦士だったのだ。その事実を思い知らされながらも、ファリアは、警戒することさえ忘れていた。クオールが温泉の中に突っ込んでいくのを見ていることしかできなかった。
「訓練を最初から受け直す必要があるんじゃない? もちろん、ファリアもね」
「くっ」
ミリアが微笑んだ瞬間、衝撃がファリアの胸を貫いた。息が詰まり、視界が激しく流転する。転倒させられた。足払いだ。咄嗟に左手を湯船の底に叩きつけ、すぐさま態勢を整える。召喚武装の補助があるからこその超反応。飛び退き、オーロラストームの射線をミリアに合わせる。ミリアは、ゲートオブヴァーミリオンの前から動いているようには見えない。では、いまさっきの攻撃は何だったのか。胸部への打撃から足払いへと至る連続攻撃。間違いなく、ミリアの体術だった。ファリアに攻撃を叩き込んだ瞬間には元の位置に戻ったというのだろうか。
(なんていう力なのよ)
胸中でつぶやいたものの、記憶の中のミリアも寸分たがわぬ実力者であり、その事実は、ファリアに戦慄を覚えさせた。
「ファリア!」
「どういうことなの? 本当にファリアのお母さんなの? アズマリアが?」
セツナとミリュウが、ファリアを庇うようにして、彼女の前方に布陣した。ルウファはクオールの元へ赴いたようだが、クオールの姿は消えていて、ルウファは困惑したようだった。
ファリアは、ミリアに視線を戻すと、左手で自分の胸元に触れた。拳を叩きこまれた位置が痛みを訴えている。鈍い痛みだ。ちょっとやそっとのことでは忘れられそうにはない。なにより、実の母から叩きつけられた事が大きいのかもしれない。呼吸が荒いままなのも、それだ。
ミリアは、ファリアよりも余程長い青髪をかき上げると、その肉体美を魅せつけるようにした。ミリアは、一糸まとわぬ姿だった。アズマリアが全裸だったのだから、そうなるのは当然のことのように思えた。もっとも、アズマリアの姿がミリアに変化する原理がわからない以上、それを当然と言っていいのかも不明なのだが。
「あら、教えてなかったのね。教えてあげればよかったのに。わたしの愛しいお母様は、大陸に破壊と混乱を撒き散らす魔人だって。そうすれば、あなたの魔人退治にもっと協力してくれたんじゃないのかしら」
「黙って……」
ミリアの口から、ミリアの声で、ミリアの口調で語られる言葉に対して、ファリアはそう言い返すのが精一杯だった。思考が追いつかない。なにをいっていいのか、なにをどうすればいいのか、わからない。倒すべきはアズマリアだ。アズマリア=アルテマックスならば戦える。そのために訓練し、そのために精神をも鍛えた。
アズマリア=アルテマックスを殺して、なにもかもを終わらせる。
そのためだけに、今日まで生きてきた。
しかし、射線の先に佇むのは、紛れも無く、ファリアの母親だった。ミリア=アスラリアだった。メリクス=アスラリアとともにリョハンの双璧として知られた偉大な武装召喚師。十年前の戦いでアズマリアに敗れ、その肉体を新たな依代とされてしまった母親。その当時のままの姿は、ファリアの決心を鈍らせるには十分すぎたのだ。
「それは無理よね。あなたは誰にも嫌われたくなんてないものね。だからいい子の振りをしてきた。どんな困難な訓練だって、涼しい顔で乗り越えてきた。苦しくても、辛くても、泣き言一つ発さなかった。強くて賢くなければならないものね。それがファリア・ベルファリアの宿命。ファリアの孫娘のさだめだもの」
「だまりなさい……」
心音が、耳朶を叩く。腕が震える。射線が左右に揺れている。撃てない。いま撃てば、セツナかミリュウに当たってしまう恐れがある。ふたりは、すぐ目の前にいた。もちろん、ファリアの射線を十分に確保してくれてはいる。だが、ファリアのいまの精神状態では、その程度の空隙では不十分だといわざるを得なかった。
「本当は辛くて、怖くて、痛くて、逃げ出したかったけれど、祖母の手前、ファリアの孫娘である手前、そうするわけにもいかなかった。父の復讐を果たすことが正義だと信じこんだのも、そのせいよね? そのためには、自分の母親を殺す必要があるのだけれど、見て見ぬふりをした。直視すれば、自分が自分でいられなくなるから。自分が壊れてしまうから」
「黙りなさいよ」
「ああ、かわいそうなファリア……。愛する母親を自分の手で殺さなくてはならないなんて。そうしなければ、前に進めないだなんて、なんて哀れで、なんて愚かなのでしょう」
「これ以上、お母様の魂を汚さないでよ!」
怒りにオーロラストームが呼応する。最大規模の雷光が奔流となって、オーロラストームから吐き出された。視界を灼き尽くすかのような白光が、虚空を蹂躙しながらミリアへと迫る。が、ファリアの雷撃がミリアを焼くことはなかった。防がれたからではない。雷光の奔流が突如方向を変え、温泉の岩壁に激突したからだ。岩壁が爆散し、爆煙が立ち込める。
「ほら、殺せない」
冷ややかな声が聞こえた直後、ファリアはその場にへたり込んだ。湯船の中に肩まで浸かる。オーロラストームを構える気力さえ残っていなかった。怪鳥の弓は、湯の中に沈んでいる。ミリュウが、すぐ側まで寄ってきて、肩に手を置いた。彼女なりに気を使ってくれていることがわかる。けれど、どう反応していいのかがわからなかった。
ファリアの中で、なにかが音を立てて崩れ始めていた。
「あなたには無理なのよ。だって、わたしの娘ですものね。母親を殺すだなんてこと、できるはずがないわ」
「母親を……殺す」
ミリュウが苦しそうにつぶやく。
対して、セツナが怒声を発した。
「いったいどういうことなんだよ! わけがわかんねえよ!」
彼がなぜ怒っているのか、ファリアには理解できなかった。そもそも、彼には関係のないことだ。なにもかも、関係のないことだったはずだ。最初から最後まで、彼が関わる余地などないはずだった。巻き込みたくもなかった。彼を利用するということは、巻き込まざるをえないということもわかってはいたが、それでも、セツナを傷つけるようなことだけはしたくないというのは本心だった。
「わからなくてもいいのよ、セツナちゃん」
「あんたは本当にファリアの母親なのか? アズマリア=アルテマックスが?」
「……そうね、どういえばいいのかしら。わたしはわたしであって、アズマリア=アルテマックスではないのよ。わたしは、ミリア=アスラリア。ファリア・ベルファリア=アスラリアの母親であり、アズマリア=アルテマックスの肉体――つまりはそういうことだよ」
ミリアの全身がぼやけたかと思うと、アズマリアの姿に変容する。官能的な肢体は、ミリアのそれとはまったく質の異なるものだと思い知らされる。ミリアの体は鍛えぬかれた戦士のそれであり、アズマリアの肢体は、美を追求したもののように思えた。だが、強い。それだけはわかる。武装召喚師としての実力で彼女に敵うものが存在するのだろうか。紅き魔人。竜殺し。空を渡るもの。境界なきもの。数多の二つ名で飾り立てられる、無双の武装召喚師。それがアズマリア=アルテマックスなのだ。
黒き矛のセツナでさえ、まともに戦えるのかどうか。
「そうさ。ぼくらにミリア様を殺せるはずがない。そんなことはわかりきっていたことだろう?」
クオールの声は、頭上から聞こえた。ゲートオブヴァーミリオンの上にしゃがみ込むようにして、彼はいた。翻る漆黒の翼が、彼の姿を悪魔的なものに見せている。
「だからあなたを殺すんだ。アズマリア=アルテマックス」
「無理だよ。わたしを殺すことなど、不可能だ」
アズマリアは、笑いもしない。その冷静な態度が、彼女の言葉に真実味を持たせていた。
「考えても見たまえ。わたしはこうやって肉体を渡り歩くことができるのだ。いまのわたしを殺したところで、死ぬのは、ミリア=アスラリアだけさ」
「あなたの魂を破壊すれば、いいんだろう」
「できるものか」
「やってみるさ」
クオールの翼が光を帯びる。レイブンズフェザーが力を発揮する。超加速。クオールは、人知を超えた速度でアズマリアへと殺到した。ファリアはなにかを叫んだ。叫ぶしかなかった。声を上げるしか、目の前の現実に対抗する手段がなかったのだ。
母が死ぬ。
その事実を前にすれば、叫ぶか発狂するしかなかった。
クオールの飛翔を防ぐ手立てなど、存在しないのだ。