第五百三十三話 湯煙る郷に在りて(九)
「勝手なことばかりいってんじゃないわよ! なにがわたしのセツナよ!」
真っ先に突っ込んだのは、だれあろう、ミリュウだった。彼女はいつの間にか紅玉を思わせる刀身が特徴的な太刀を召喚武装として呼び出していた。魔龍窟の術式が使えなくなった彼女が独自に編み出した呪文によって召喚されたものであり、名前はまだつけられていなかった。召喚武装にとって命名は大事なことだが、名付けるために時間を要するのもまた、彼女らしいのかもしれない。
彼女は、ファリアと同じくタオルを体に巻きつけてはいるものの全裸に近い状態だった。それでも周囲の視線を気にしないのは、彼女が戦士であることの証明なのだろう。戦いに集中すれば、恥も外聞もなくなるものだ。そして、戦士にとっては戦いがすべてだ。戦いの結果こそが自己の存在価値なのだ。もちろん、内容も大事だが、外見など、どうでもいいことだ。
「あたしのよ!」
ミリュウが湯船の中から飛び出し、アズマリアの布陣へと突出する。抜身の刀身が淡く輝いていた。彼女の太刀は召喚武装の例にもれず、特異な力を秘めている。ただの刀などとは断じて違う。強度も切断力も上なのだが、それ以上に凶悪な能力を持っていたとしても不思議ではなかった。とはいえ、ファリアはミリュウに先を越されるつもりもなく、オーロラストームの矢を放った。怪鳥の嘴から放たれた雷光の帯がミリュウを追い抜き、ミリュウに対応した謎の戦士を打ち据える。謎の戦士は、それこそ奇怪な声を発して吹き飛んでいく。ミリュウが着地とともにこちらを振り返った。彼女の刀は、別の敵戦士の攻撃を受け止めている。
「ファリア!」
「なによ!」
「セツナを感電させちゃ駄目よ!」
「わかってるわよ!」
無意識に言い返しながら、ファリアははっとした。確かにその通りだ。ここは温泉なのだ。雷撃の撃ちどころを間違えれば、セツナだけではなく、自分もルウファも感電させてしまう可能性が高い。激情に苛まれ、冷静に物事を判断できなくなっていたようだ。反省とともに右に飛ぶ。敵戦士の放った矢がファリアに向かって飛来してきたのだ。
難なくかわすと、視界を三つの影が横切った。セツナとルウファ、そしてクオール。クオールはともかく、セツナとルウファまでアズマリアを敵と認識しているのは、どういうことだろう。ミリュウはわかるのだ。セツナにぞっこんの彼女にしてみれば、セツナの占有権を主張する魔人を許せないのは当然だろうし、なにより、自身の出自についても問いただしたいところだろう。ルウファも、考えてみればわからなくはないのかもしれない。彼もまた、《協会》に属する武装召喚師なのだ。《協会》が敵と認定しているアズマリア=アルテマックスの暴挙に対抗するのは、必然か。
だが、セツナは違う。セツナは、彼女によって召喚された。魔人のゲートオブヴァーミリオンによって召喚されたのだ。ファリアの父親メリクス=アスラリアのように。魔人の周囲に蠢く戦士たちのように。
戦士――としか形容しようのないものたちだった。実体を持っているのかどうかすらあやふやな存在だった。人間と同じような五体を持っているようにみえるのだが、背後の景色が透けて見えるくらいに不安定なものを体といっていいのかはわからない。かろうじて輪郭があり、異形の鎧兜を纏っているからこそ、それを戦士として認識できるのだ。もし、なにも身につけていなければ、目の錯覚としか思えなかったかもしれない。
そのようなものがこの世界のどこかに住んでいるとは考えにくい。よって、アズマリアがゲートオブヴァーミリオンの能力を用いて召喚した生物だと断定する。異世界の生物。皇魔のようなものだ。それをいえば、セツナも皇魔のようなものであり、ファリアもまた、皇魔のようなものの血が流れているといえるのだが。
それでも、セツナはファリアに協力するといってくれたのだ。その厚意を無駄にするべきではなかったし、セツナが協力してくれることほど心強いことはなかった。事実、敵陣深くに切り込んだセツナの嵐のような攻撃は、敵戦士を瞬く間に切り飛ばし、無数の悲鳴を上げさせた。エンジュールの山間に奇怪な断末魔が反響する。エンジュールは大騒ぎになるだろうが、仕方のないことかもしれない、《獅子の尾》あるところに騒ぎの起きないことなど、あるはずがない。
自嘲とともに弓を引く。狙い澄ました雷撃は一瞬にしてアズマリアへと到達するが、またしてもなにかが魔人を庇った。雷撃はあらぬ方向へと飛んで行く。
「まったく、どいつもこいつも……《獅子の尾》ってのは、余程暇なんだね」
クオールが敵戦士の攻撃をさばきながら、嘆くようにいった。それは単に彼の目的を果たすには、《獅子の尾》の存在が邪魔だったからに違いない。そして、その点においては、ファリアの思いも一致している。セツナたちは頼りになるし、心強い味方だ。しかし、彼らが視界に入るだけで、彼女の決意が鈍った。
(でも……!)
行動したことを取り消すことはできない。
クオールは、ファリアの行動を見たのだ。職務に忠実な彼が、ファリアの今回の行動を見逃すはずがない。たとえクオールがファリアに対して同情的であっても、だ。彼には彼の立場がある。立場を護るためには、非情に徹しなければならない時もある。いや、むしろ非情こそが“吸血鬼”の専売特許ではなかったか。
ファリアが護山会議の命令を無視したという報告がリョハンに届けば、ファリアのリョハンでの立場は殆ど完全に失われるだろう。そうなれば、自分はどうなるのか。アズマリアへの復讐だけを拠り所に生きていくしかないのか。アズマリアを殺し、人生を完結させるのか。
(それがわたしのすべて)
ファリアは、再び矢を放った。変則的な軌道を描く三条の雷光が、つぎつぎとアズマリアへと襲いかかる。だが、オーロラストームの雷撃はすべて、敵戦士に受け止められる。体で受け止めたのだ。敵戦士が三体、吹き飛んでいく。限界近くまで圧縮した雷撃だ。受け止めたからといって、無事で済むはずがなかった。
「あんたはなんなんだよ? ファリアを付けていたって?」
セツナが食って掛かったのは、クオールの言い様が気に食わなかったからだろう。
「ああ、これは失礼しました、わたしはクオール=イーゼン。リョハンを取り仕切る護山会議に仕える武装召喚師ですよ。よろしくお見知り置きを、領伯様」
「こ、これはどうも丁寧に」
「戦闘中になにやってんのよ!」
「え、でも、だって」
「領伯様! そんなことしている場合じゃないですってば!」
ルウファが悲鳴を上げたのは、アズマリアの後方に巨大な門が出現したからだ。荘厳な紅蓮の門こそ、ゲートオブヴァーミリオン。百万世界の門とも呼ばれる、このイルス=ヴァレと数多の異世界を繋ぐ召喚武装。そう、それは門の形をした武装なのだ。能力は未知数。少なくとも、異世界から生物を召喚するだけではないはずだ。
アズマリアがゲートオブヴァーミリオンを具現したのは、戦士の数が減ってきたからに違いなかった。セツナ、ミリュウ、ルウファ、それにクオールが召喚武装を振り回しているのだ。いかに異世界の存在であっても、圧倒されるのは火を見るより明らかだった。だからこそ、アズマリアも奥の手を出してきたのだろうが。
「そうだな。戦闘中、他に気を回していてはいけない。目の前の戦闘に集中できないものに、勝利は訪れない」
ゲートオブヴァーミリオンの門扉が開く。門の向こう側に覗くのは、背後の景色ではない。もっと別の世界だ。なにかおぞましい気配が温泉内に流れ込んでくる。なにを召喚しようとしているのかはわからないが、謎の戦士よりも凶悪ななにかを呼びだそうとしていることは明白だ。
「んなことぐらい、知ってるさ!」
「だったら、もう少し気張ることだ。それでは、わたしに一撃を食らわせることもできんぞ?」
アズマリアがセツナの攻撃をかわしながら告げる。流麗極まる体術は、さすが武装召喚師の始祖と呼ばれるだけのことはあるだろう。とても鍛え抜いた肉体には見えないが、その官能的な肉付きの下にはきっと筋肉が詰まっているのだ。でなければ、黒き矛のセツナとまともにやりあうことなどできまい。
もっとも、アズマリアとて召喚武装の恩恵を受けていなければ、セツナとカオスブリンガーの相手をしようなどとは思うまいが。
「なんなんだよ、あんたは!」
「わたしはアズマリア=アルテマックス。空を渡るもの、境界なきもの、紅き魔人、竜殺し、異世界交信者、時の旅人……」
「自己紹介なんて、地獄でしてなよ」
クオールは、アズマリアの台詞を断ち切るように告げた。彼はいつの間にかアズマリアの懐まで飛び込んでいて、その漆黒の翼が濡れたように輝いていた。アズマリアが目を細めた。ファリアはその隙を逃さず雷撃を放ったが、今度はクオールの召喚武装に阻まれる。クオールの周囲に舞い踊る黒い羽が、オーロラストームの雷撃を拡散させたのだ。
「なにを……!?」
ファリアは、クオールが意識的に邪魔をしたのだと理解して、愕然とした。
「あなたが死ねば、すべては丸く収まるんだ。それだけで、なにもかもね」
「なにもかも?」
アズマリアが発した声を耳にした途端、凄まじい衝撃がファリアの胸を貫いた。懐かしく、しかし、いつまでも忘れないであろう声だった。そして、つぎの瞬間、さらなる衝撃が彼女を待ち受けていた。紅蓮の髪に金色の目の美女という魔人の容姿が、瞬く間に別のものへと変わったのだ。
青みを帯びた髪が特徴的な女性は、慈愛に満ちた顔でこういうのだ。
「あなたがわたしを殺すというの? クオール」
「ミリア様……!」
「お母様!?」
ファリアは、母との予期せぬ再会に呼吸を止めた。