第五百三十二話 湯煙る郷に在りて(八)
「武装召喚!」
クオールが視界から消えた瞬間、ファリアは即座に呪文の結尾を唱えた。呪文によって練り上げられた魔力の奔流が異世界よりオーロラストームを召喚する。掲げた右腕に光が収斂し、巨大な射程兵器が出現した。怪鳥が翼を広げたような武器は、弓というにはあまりにも異形過ぎた。実際、矢を必要としないそれを弓と呼んでいいものなのか、議論のしどころではあるのかもしれない。
しかし、射程兵器であることに違いはなく、ファリアは右腕に生じた重量と全身の隅々まで行き渡る力の漲りに、意識を引き締めた。つぎの瞬間、前方に激突音とともに水柱が上がった。飛沫の中に漆黒の羽が舞う。クオールが、アズマリアに殺到したのだ。だが、そこにアズマリアの姿はなく、彼の拳は空を切ったようだった。
態勢を整えるクオールがこちらを一瞥する。冷ややかな輝きは、彼の精神状態を示している。
「ファリア。それ以上はやめておくことだ。君が彼女に弓を引けば、護山会議は躊躇なく君を処分するだろう。頑迷だからね、彼ら」
「わたしは……!」
「君には君の人生がある。アズマリア討伐はぼくらに任せておけばいいんだ。そうすれば、君はリョハンでの立場を失わずに済む」
「そんなこと、納得できるわけがないじゃない」
ファリアはいったが、クオールには届かなかったようだ。彼は空中にいる。後方に飛び退いたのだ。すると、直前までクオールがいた場所にいくつもの光弾が突き刺さり、水飛沫とともに岩片が舞った。アズマリアの攻撃が、温泉の底を抉ったのだ。視線を巡らせると、湯船の淵に悠然と佇むアズマリアの姿があった。魔人は武器を携えてもいない。アズマリアの攻撃ではないということだが、ファリアの視界に攻撃手の姿は映らない。しかし、召喚武装によって拡張された五感が、山林に潜む明確な敵意を捉えていた。
アズマリアの配下かなにかだろうが、どういった相手なのかはわからない。少なくとも通常兵器を携えた連中ではないことは確かだ。
「いったいどうなってんだい?」
「マリア先生とエミルは温泉から退避して、役所のひとに謝っておいてください!」
「退避はともかく、謝るって?」
「温泉、ぶっ壊れるかもしれないって」
「なるほどねえ。わかったよ。怪我したら診てあげるから、存分に暴れな」
「ルウファさん、無理はしないでくださいね!」
「わかってるよー!」
ルウファが素早く非戦闘員を退避させるのを尻目に、ファリアはオーロラストームの射線にアズマリアを収めた。一糸まとわぬ魔人は、雷撃の弓を向けられながらも、笑みさえ浮かべている。絶対的優位を確信しているのだろうが。
「わたしは、わたし自身のためにも、この手でアズマリアを討たなくちゃいけないのよ。でなきゃ、前に進むことなんてできるわけがない。わたしにはわたしの人生がある? そのとおりよ。これがわたしの人生なのよ」
ファリアの感情に呼応するかのように、オーロラストームの翼が発電を始めた。無数の結晶体がまるで歌うように雷光を生じさせ、怪鳥の嘴に収束させていく。
「このためだけに、生きてきた」
「でもだからって、そのあとの人生を棒に振ることはないだろう」
「それはわたしが決めることよ!」
迷いが振りきれたのは、そこにクオールがいたからかもしれない。彼がファリアの感情を逆撫でにするから、ファリアも意固地になってしまったのかもしれなかった。クオールも召喚武装を展開している以上、アズマリアを倒す意志があるということだ。きっと、彼がファリアの後釜なのだ。ファリアの代わりにアズマリア討伐の使命を与えられたから、アズマリアと接点を持つセツナを追尾していたに違いない。
「ファリア!」
気づくと、セツナが隣にいた。彼はいつの間にか黒き矛を召喚していて、ファリアの死角を庇うように立っている。ただそれだけのことで、力が湧いた。
彼をここまで頼もしく思えるようになったのは、いつからだろう。
「セツナ、いままでありがとう」
「え?」
「わたしは、ファリア・ベルファリア=アスラリア! アズマリア=アルテマックスを討つもの!」
オーロラストームの力は満ちている。解き放つ。けたたましい轟音とともに雷光が視界を灼いた。一条の雷光は、わずかに蛇行しながらアズマリアへと殺到する。直撃、閃光、爆音。立ち込める煙の向こうにアズマリアが立っていることを認識して、彼女はつぎの矢を充填した。おそらくなにかがアズマリアを護っている。その防御を打ち破るには、最大威力の雷撃を叩き込む必要があるのかもしれない。
アズマリアが流れるように左に移動するのに合わせて射線を移しながら、さらに全周囲を警戒する。アズマリアの手のものがどこにいるのか、わかったものではない。
「ファリア、君って奴は……本当に困ったひとだよ。ぼくは君の説得を命じられてきたっていうのに。これじゃあ護山会議に顔向けできないじゃないか」
「どんな報告をしてもらっても構わないわ。わたしは、メリクス=アスラリアとミリア=アスラリアの娘。父の仇を討ち、母の魂を解放するために人生を捧げたのよ。いまさら!」
戦いの後のことなど、いまは考えてなどいられなかった。いまはただ、アズマリアを討つことを優先するのだ。千載一遇の好機。今を逃せば、つぎがいつになるかわかったものではない。ただでさえ神出鬼没なのだ。セツナの側にいれば、つぎの機会も訪れよう。しかし、護山会議の意志を無視したファリアに、セツナの側にいる価値があるのかどうか。ただのファリアになんの意味があるのか。
「報告するのは後だ。こうなった以上、君と協力してでもアズマリアを討つ。ここでアズマリアを討てば、なにもかも終わる」
「そうよ、なにもかも!」
ファリアは叫び、高威力の雷撃を放った。凄まじい雷鳴が天地を轟かせたかと思うと、莫大な雷光の奔流がアズマリアに向かった。だが、アズマリアには届かない。雷光の帯は、アズマリアに触れる直前、虚空に出現した門の中に吸い込まれていった。ゲートオブヴァーミリオン。アズマリアの召喚武装。
(最初から詠唱済みだったのね!)
その力で配下を召喚していたのかもしれず、彼女は歯噛みした。力の充填を開始しながら、アズマリアの配下が温泉を包囲するように接近してきていることを認識する。
「もう、なにがなんだかわかんないわよ!」
「巻き込んでごめんね、ミリュウ」
「謝るようなことじゃないわよ。仇なんでしょ。だったら、手伝うわ」
「ありがとう」
「感謝されるいわれもないわ。ただし、全部終わったら、話してもらうからね」
「うん。そのときがきたら、全部話すわ」
ファリアは、ミリュウの気遣いに感謝した。セツナに対して隠していることも、全部、なにもかも、洗い浚い、話すことにしよう。そう決めた。隠し事をしていたわけではない。そのときはまだ、話す必要がないと思って話していなかっただけだ。例えば、アズマリアが母の肉体を依代としている事実など、セツナに説明する必要がなかった。話せば、セツナはきっと混乱する。セツナに余計な心配をさせたくはなかった。それはいまも同じだ。だからこそ、いまはなにもいえない。アウマリアを討ったあとならば、それもできる。
「アズマリア討伐には、《協会》に身を置く人間としては、協力せずにはいられませんな」
そういったのはルウファだ。彼はいつの間にかシルフィードフェザーを纏っている。よく見ると、ミリュウも召喚武装である真紅の剣を手にしていた。
「《協会》云々はともかく、ファリアの力になるさ」
「セツナは、それでいいの?」
「なにが?」
「あなたを召喚した張本人でしょ」
告げて、心苦しさを覚えたのは、その一点が気になっていたからだろう。セツナは、アズマリア=アルテマックスのゲートオブヴァーミリオンによって召喚された異世界の住人だった。彼がアズマリアに対して特別な感情を抱いていたとしても不思議ではなかったし、だからこそ、彼に協力を頼むという発想には至らなかった。
「そうだね。でも、だからといって、看過できる状況じゃない。あいつが、アズマリアが俺を元の世界に返す手段を持っているっていうなら別かもしれなかった。けど、全部いまさらだよ。俺はもう、この世界で生きるって決めたんだ」
セツナは、黒き矛を構えて、いった。
「それに、アズマリアは俺達に害意しかないんだ。だったら、戦うしかないだろ」
「よくぞ吼えた。それでこそ、わたしの愛おしいセツナだ」
うっとりと告げるアズマリアの周囲に、つぎつぎと気配が出現する。山林に潜んでいたものたちが集っているのだ。鎧兜を纏った亡霊のようななにものか。ゲートオブヴァーミリオンによって召喚したのか、それとも、この大陸のどこかから連れてきたのか。
セツナが声を張り上げた。
「気味悪いこといってんじゃねえ!」
「なにをいおうと、おまえはわたしのものだよ。おまえの人生、おまえの運命、おまえの生命、すべてわたしのものだ」
アズマリアが余裕を見せつけているのは、彼女の戦力が整ったからに違いなかった。
浴場に佇む魔人の周囲に数十人の戦士が布陣し、ファリアたちに対抗する構えを見せていた。