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第五百三十一話 湯煙る郷に在りて(七)

 温泉を仕切る岩壁を乗り越え、湯煙の中に紅蓮の炎の如くうねるものを見出だしたとき、ファリアは、全身の血液が沸騰するような感覚とともに絶叫していた。

「アズマリア=アルテマックス!」

 隣のミリュウがぎょっとしたようだが、彼女は構わずに呪文を唱え始めると、岩場を蹴り、男湯に飛び降りた。もちろん裸だが、タオルを体に巻き付けてはいるし、もし全裸であったとしても気にしなかっただろう。ファリアの意識は、アズマリアに集中していて、そこが男湯だという事実など考えてもいなかった。

 着水と同時に再度跳躍し、殴りかかっている。拳はアズマリアの頭部に向かって伸びたが、赤毛を数本捉えただけだ。アズマリアの上体が視界から消えている。背後に飛ぶ。アズマリアの鋭い足払いが熱湯を巻き上げ、熱湯が壁のように立ちはだかる。

「あの女がアズマリア=アルテマックス……」

「そういえば、あんな感じの美女でしたっけ。以前王都で見たときは服を着ていたから気づきませんでしたが」

「顔で気づきなさいよ」

「いやだって、裸ですよ、裸」

「そんなんだからエミルに幻滅されるのよ」

「俺は! 自分に素直でありたいだけだ!」

 ルウファが声高らかに宣言するのを聞き流しながら、ファリアは半身に構えたまま動かなかった。熱湯の壁は既に崩れ落ち、湯気がもうもうと立ち込めている。魔人は、その湯煙を纏うように佇み、こちらを見ていた。血液とも炎ともつかない紅蓮の髪と、異彩を放つ金色の瞳は、彼女の感情を激しく揺り動かす。

「ファリア!」

 セツナの声にも、彼女の行動を止める力はなかった。胸の内に渦巻く激情が彼女を無意識に動かしていた。

 右足を振り上げて湯の飛沫を巻き上げ、その瞬間に左に飛ぶ。飛沫はアズマリアの視界を遮るはずだが、それだけで制圧できる相手ではない。呪文を素早く詠唱し、術式の完成を急ぐ。アズマリアが鼻で笑った。彼女の視線がファリアに突き刺さっている。ファリアはすぐさま飛び退いた。アズマリアの繰り出した打突が、ファリアの立っていた場所を貫いて水柱を上げた。凄まじい一撃は、アズマリアが超人染みた身体能力の持ち主であることを示している。

「ファリアの孫娘、懲りないな」

 アズマリアは、全裸であることを恥ずかしがるどころか、むしろその美貌と肉感的な肢体を誇るかのように敢然としていた。

 ファリアは、構えを解かないまでも、徒手空拳で挑むのは愚かだと悟った。自分の技量ではアズマリアを捉えることはできない。同時に、激情の中でも冷静な判断ができている自分を頼もしく思った。怒りに任せて自分を見失ってはいない。

(いえ……違う)

 胸中で頭を振る。

 自分を見失ったから、殴りかかったのではないのか。なにも考えられなくなったから、攻撃してしまったのではないか。

 その選択は、間違ってはいないのか。

 自分の人生にとって、この行動に過ちはないのか。

 クオール=イーゼンに突きつけられた刃のような言葉を思い出す。

『だが、護山会議の決定は覆らない。覚えておきなよ。君がもしアズマリアと接触したとしても、手を出すことは許されない。君は、アズマリア討伐任務から外されたのだから』

(だったら、どうしろっていうのよ……!)

 叫びたかった。しかし、彼女は呪文を紡がなければならなかったし、なにより、叫んだところで解決する問題ではなかった。事態を打開するには、リョハンに戻り、護山会議に具申するしかない。具申したところで、彼女の意見が通る可能性は低い。しかし、そうしなければ、状況が改善されることなどないのだ。

 彼女は、リョハンの人間なのだ。空中都市リョハンという背景があってはじめて、ファリア・ベルファリア=アスラリアという人間は成立する。

 護山会議の決定を無視すれば、リョハンのファリアはこの世から消えてなくなるといってもいいだろう。権威主義の護山会議にとって命令を無視するものなど、存在してはならないのだ。

 それに、アズマリア=アルテマックスの討伐は、リョハンにとって、護山会議にとって、《大陸召喚師協会》にとって宿願であり、悲願といってもよかった。武装召喚術の祖でありながら、リョハンを襲撃し、多くの召喚師やリョハンの住民を死に至らしめた悪魔。それがリョハンと《大陸召喚師協会》にとってのアズマリア=アルテマックスなのだ。かの魔人を討ち滅ぼすことは正義であり、そのために討伐部隊が結成された。リョハンの誇る凄腕の武装召喚師のうち、特に優れたものだけが選ばれ、アズマリア討伐任務を与えられたものこそ、リョハンを代表する武装召喚師であるとさえいえた。

 ファリアもまた、討伐任務を与えられたひとりだった。《協会》に身をおきながら自由気ままに行動できたのは、討伐部隊に席を置いていたからにほかならない。討伐任務を理由にすれば、大抵のわがままは通った。アズマリアとの接触の可能性があるかもしれないという理由でセツナの側にいることができたのも、それだ。

 そういう立場から外されたという事実を知ったのは、つい最近のことだ。セツナが刺された夜、リョハンの使者“吸血鬼”クオール=イーゼンから知らされた。ファリアの人生が根底から覆されるような大事件は、しかし、セツナの暗殺未遂という大事件によって塗り潰された。そう、塗り潰されたのだ。セツナが意識不明の状態にある間も、この問題からは目を逸らすことができたのは、やはり自分の中でセツナの存在が大きくなっていたからだろう。

 セツナが意識を取り戻し、動けるようになると、途端に彼女の意識はリョハンへと向けられ始めた。このエンジュールへの道中もずっと、そのことばかり考えていた。考えなくてはならなかった。彼女にとって、これほど重要なことはなかった。

 人生の岐路に立たされたのだ。

 苦悩があった。

 だれかに打ち明けられるような問題ではない。他人を頼ることはできない。セツナに救いを求めることなど、彼女の自負が許さない。セツナに救いを求めるのはミリュウで、セツナに助けを求められるのがファリアなのだ。そうでなくてはならない。それが自分の立ち位置なのだという考えが、自分の思考を狭めていることも理解している。それでも、そうせざるを得ない。

(それがわたしなのよ)

 自分が自分であるために護らなくてはならないことがある。

 ファリアは、呪文を紡ぐうちに、自身の精神力が魔力の奔流となって世界への干渉を開始したことを認識した。魔力は世界に干渉し、異世界への門を開く。異世界に辿り着けば、呪文が描く召喚武装を探しだし、この世界と紐付ける。そして、異世界からこの世界へと移送し、召喚は果たされるのだ。

 それが武装召喚術の原理というのだが、呪文が生命力、精神力を魔力へと変換する原理は、解明されてはいなかった。アズマリアならば知っているのかもしれない。彼女が、武装召喚術を発明し、基礎を作り上げたのだから。

「なんなんだい? いったい……」

 マリア=スコールの声が頭上から聞こえた。岩壁を登り詰めたということだろうが、軍医の彼女でも難なく越えられる岩壁に存在価値があるのかはわからない。

「マリアさん! 素晴らしい眺めです!」

「あんたねえ……」

「ルウファさん……最低です!」

「エミル! 俺には君しか見えない!」

「ルウファさん……!」

「こいつら……」

「ミリュウ、落ち着いて!」

「セ、セツナってば積極的過ぎよ!」

「俺がなにしたっていうんだよ!」

 背後の喧騒も、いまは気にもならなかった。

 ファリアは呪文の詠唱で忙しかったし、一瞬たりとも敵から目を逸らせない状況にあったからだ。ルウファとエミルが惚気合おうと、ミリュウがセツナにちょっかいを出そうと、知ったことではない。いまは、目の前の敵を注視しなければならないのだ。

(それで、どうするっていうのよ)

 自問したところで、答えは出ない。

 ここでオーロラストームを召喚し、攻撃を行えば、その瞬間、ファリアはリョハンの掟を破ることになる。護山会議の決定を無視したことになる。リョハンのファリアはいなくなり、ただのファリアと成り果てるのだ。

「まったく、馬鹿げた状況だ。しかし、まあ、いいだろう。武装召喚師が四人。しかも、ひとりはわたしの召喚物で、ひとりはファリアの孫、それにオリアスの娘もいる。そうそうたる顔ぶれ、というのは言いすぎだがな」

「オリアスの娘?」

「おまえのことだよ。ミリュウ。ミリュウ=リヴァイア」

「……あたしのこと、知ってる? でも、リヴァイアってなによ。あたしの家はリバイエンっていって、由緒正しい家なんだけど」

「なんだ、まだ聞かされていないのか。ならばわたしからはいうまい。弟子が秘匿している情報を明らかにするのは、師匠としてはあるまじきことだ」

「弟子……お父様のことね? じゃあ、オリアスってまさか」

「……いわぬといっただろう」

「父の名がオリアス=リヴァイア……? 聞いたこともないわよ、そんな話!」

 ミリュウが叫んだが、アズマリアは肩を竦めただけだった。本当にそれ以上なにもいわないつもりなのだろう。ファリアにとってはどうでもいいことだが、ミリュウは憤懣やるかたないといったところに違いなかった。

 そんなときだ。

「なんていうか、絶景ではあるね。どこもかしこも美女だらけ。まったく、羨ましい限りだ」

 どこか皮肉めいた口ぶりに、ファリアは頭上を仰いだ。岩壁の上、マリアの隣に黒ずくめの男が佇んでいる。黒衣の背中からは一対の翼が生えていた。闇よりも黒い翼。レイヴンズフェザー。

「クオール!? どうして!?」

 ファリアが彼の名を叫ぶことができたのは、呪文の詠唱が完了していたからに他ならない。もし呪文が完成していなければ、彼女は彼の登場にも黙殺を貫いただろう。あとは末尾を唱え、術式を完成させればいい。それだけのことだが、機会を逸した。

「さあ? どうしてだろうね。一、君をつけていた。二、君を監視していた。三、君を見守っていた。どれだと思う?」

「どれも同じでしょ!」

「つまり、全部正解ってことさ」

 彼は悪びれることもなく告げると、ファリアの視界から掻き消えた。

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