第五百三十話 湯煙る郷に在りて(六)
「なんであんたがここにいるんだよ」
セツナが声を潜めたのは、女湯にいるファリアを刺激したくなかったからであり、アズマリアとの再会を無駄にしたくなかったからでもあった。
ファリアがアズマリア討伐の使命を受けていることも知っているし、彼女の力になってあげたいという気持ちも本心だが、セツナにはまだ、アズマリアのことがよくわからないのだ。善人とは思えないし、悪人と断定してもいいのだが、しかし、アズマリアによってこの世界に召喚された以上、彼女の目的をもっと深く知る必要がある。
いまここで大声を上げてアズマリアの存在を知らせることは、彼女から話を聞き出す機会を失うことになる。つぎにいつ目の前に現れるのかわからないのだ。この機会を無駄にするわけにはいかなかった。ファリアに報せるのは、話を聞いてからでも遅くはない。
「わたしもたまには人間らしく温泉に浸かりたかった、それだけのことさ」
アズマリアは、艶然と微笑を浮かべると、その肉感的な肢体を惜しげも無くさらしながら、湯の中に入ってきた。燃えるような赤い髪は、ミリュウを思い出させるが、アズマリアの頭髪は彼女の赤毛とは明らかに違う色彩を帯びている。炎と血を混ぜたような真紅は、闘争の匂いがした。
「嘘だろ」
セツナは目を逸らしながらつぶやいた。魔人とはいえ、絶世の美女だ。その裸体は目に毒以外の何者でもない。それも猛毒であり、一度味わうと、そう簡単には治せない危険性を秘めていそうだった。男ならだれもが生唾を飲み込む様な状況で、それでもセツナが冷静さを失わずにいられるのは、彼女がただの美女ではないということを理解していたからだろう。
アズマリア=アルテマックス。紅き魔人以外にも多数の二つ名で呼ばれる武装召喚師である。武装召喚術を発明した人物であるといい、何十年も変わらぬ容姿を保っているらしく、その時点で通常人ではないことがわかる。化け物かもしれない。ザルワーン戦争後、セツナを呼び表す言葉として使われ始めた竜殺しの二つ名は、本来彼女を指し示す言葉だった。アズマリアが倒したドラゴンがどのようなものだったのかは不明だが、少なくとも、二つ名になるくらいには凶悪だったのだろう。
「本当だよ」
「信じられるか」
「なにが信じられない?」
「なにもかもさ」
セツナは、魔人が湯船に肩まで浸かるのを待ってから、そちらを見た。魔人らしくない、極めて人間的な振る舞いには奇妙な笑いがこみ上げてくる。なんとも不可解な光景だ。しかし、普通に考えれば類まれな美女と混浴しているという状況であり、ルウファが知れば羨ましがることうけ合いだった。そんなことを考えている場合ではないのだが。
異彩を放つ金色の目が、こちらを見つめていた。綺麗な眼だ。まるでこの世のものとは思えないくらいの美しさがそこにある。そして、ほんのりと紅く色づいた肌が、魔人の色気を増幅しているのがわかる。湯煙もまた、彼女の美貌を演出する効果的な装置として機能していた。
はっとする。
危うく、アズマリアの色香に惑わされるところだった。
「あんたは世界を救うためとかいってるくせに、ファリアの父親を殺したそうじゃないか」
「……ファリア?」
アズマリアは、少し考えたようだった。彼女にとってファリアという名は、セツナの考えるファリアとは別人を指すものだったのだ。それも、知ってはいる。ファリア=バルディッシュ。ファリアの祖母であり、リョハンの戦女神と謳われる大召喚師。ファリアの名はその偉大な祖母から取られている。
「ああ、ファリアの孫娘のことか。紛らわしい名だ」
「んなことはどうでもいい。どういうことなんだよ」
「殺した理由か?」
「否定はしないんだな」
「殺したのは事実だ。事実を否定するほど愚かなことはないよ」
セツナは、アズマリアを睨んだが、彼女は一切動じなかった。むしろこちらの心情を嘲笑いながら、湯の中から立ち上がる。完璧といっていいほどの肢体が湯気の中に浮かび上がり、セツナは一瞬目を逸らした。しかし、すぐに視線を戻す。要は、体に目を向けなければいい。目を見据えておけばいいのだ。だが、魔人の眼力に対抗し続けていられるものかどうか、セツナにもわからない。
「さて、なにが気に入らない? わたしがその娘の父親を殺したことと、世界を救うという大義が相反するとでも云うつもりか? わたしは人間を救うために戦っているわけではないのだよ。この世界を、このイルス=ヴァレを元に戻すために戦っているのだ。そのためならば多少の犠牲はやむを得ないな」
「多少だって?」
「そうだ。この狂った世界が正常化するのだ。人間のひとりやふたり死んだところで、なんの問題がある。それにアレはわたしの召喚物だったのだよ。わたしのために、わたしのためだけに召喚したというのに、アレはわたしを裏切った」
「……あんたについていけなくなっただけだろ」
セツナの言葉は、アズマリアには届かなかった。
「アレも、おまえと同じように異世界から召喚した生き物だった。この世界の人間に酷似していたために、この世界に溶け込み、人間と結ばれ、子を成した。不自然なことだとは思わないか?」
「あんたの都合で召喚しておいて、そんなことがよくいえたもんだな」
「わたしは一度だって、この世界に順応しろとはいっていなかったんだよ。だが、もう過ぎたことだ。アレがこの世界に残したものが、この世界を救うために有用ならば、それもいい。ファリア・ベルファリア=アスラリア……あの娘も良い武装召喚師だ」
「ファリアも利用するっていうのか」
セツナは無意識に立ち上がると、拳を握った。拳を構えたところで、どうすることもない。セツナにはアズマリアと戦う理由が薄い。王都に皇魔を解き放ったことを理由に戦うこともできるのだが、それもいまさらだった。なにもかもが、いまさら過ぎる。
「世界を救うためだ」
「……それしかいえねえのかよ」
「それだけだからな」
そうつぶやいたアズマリアの表情が、少しばかり寂しげに見えたのは、漂う湯煙のせいだったのか、どうか。セツナには判断がつかなかった。アズマリアの表情は次の瞬間には変わっていたし、超然としたまなざしに挑発的な立ち姿からは、そういった空気を感じ取ることはできなくなっていた。
「あーっ!?」
天地がひっくり返るような大声に振り向くと、こちらを指さしたまま硬直したルウファの姿があった。気絶から回復し、即座に温泉に戻ってきたところだったのだろうが、それにしても間が悪すぎた。セツナが、茫然としていると、アズマリアが小さく笑い声を上げた。その笑い方が心底楽しそうで、セツナはより憮然となるのだが。
ルウファの悲鳴を聞きつけたのだろう。女湯から続々と反応が届く。
「ルウファさん、どうしたんですか!?」
「なになに! なにがあったの!?」
「落ち着きなさいよ、ふたりとも」
「どうせまたろくでもないこと思いついたんだろうさ」
エミルとミリュウが騒ぐ中、ファリアとマリアは落ち着いたものだった。が。
「美女と混浴なんてずるいっすよー! 隊長!」
硬直から回復したルウファが発した一言が、広い裏庭に静寂をもたらしたのは言うまでもない。
遠く吹き抜ける風と木々が揺れる音が聞こえるほどの沈黙を破ったのは、女湯の声だった。
「美女?」
「混浴?」
なにかを確認し合うような声の後、
『はあああああああああっ!?』
ファリアとミリュウが怒り狂ったような叫び声を発した。浴場全体が震撼したのは気のせいに違いないにせよ、ふたりの怒気が岩壁を貫通してセツナに突き刺さったのは疑いようのない事実だった。あまりのことにその場で転倒し、湯の中に顔から突っ込む。鼻から熱湯が入り込み、その痛みが、この状況が現実であることを思い知らせるようだった。すぐさま立ち上がると、アズマリアの裸体が視界に飛び込んでくる。が、いまはその官能的な肢体を凝視している場合ではない。
魔人は、魔女のような笑みを浮かべていた。
「さて、セツナ。おまえはこの状況をどうする?」
「なんで俺に聞くんだよ。窮地はあんたのほうだろ」
「窮地?」
彼女は素知らぬ顔をしてはいたが、それはつまるところ、理解しているということにほかならないのではないか。
「アズマリア=アルテマックス!」
ファリアの叫び声は、岩壁の上から降ってきていた。