第五百二十九話 湯煙る郷に在りて(五)
「温泉って、本当に温泉なんだな。しかも露天だとは……」
セツナは、湯の中に肩まで浸かりながら、素直に感想を述べた。
宿所の裏庭に温泉が湧きでたのはつい最近のことらしく、設備も不十分だったが、むしろその不完全さが温泉に相応しい光景を作り出している。まさに露天温泉そのものであり、セツナの想像力を超えるようなものではなかったが、だからといって不満が生まれるようなものでもない。
宿所の裏庭は三方を岩壁に囲まれた広い空間で、全体が露天温泉になっていた。立ち込める湯煙と独特の匂いが元いた世界の想い出を喚起するかのようだ。湯船は大きなものがひとつしかないのだが、男女混浴というわけではなく、裏庭の中央に設けられた岩壁が空間をふたつに分けている。
更衣室からして別の部屋だったこともあり、ルウファも期待してはいなかったようだ。かくいうセツナも、混浴を期待してなどはいない。混浴ではないことに関しては、ミリュウだけが不満の声を漏らしていた。岩壁で仕切られているとはいえ同じ空間なのだ。大声は丸聞こえだったし、普通の話し声も耳を澄ませば聞こえるくらいだ。姿が見えずとも、混浴気分を味わうことも可能かもしれない。想像力が豊かならば、の話だが。
「どんなの想像してたんですか?」
「いや、だってさあ、ここは俺にとっちゃ異世界なんだぜ。なにか違うんじゃないかって構えるだろー」
「隊長の世界もこの世界も大きな違いはないってことじゃないんですかね」
「そういうことなんだろうけどさ」
ルウファの言葉に納得する。実際問題、この世界はセツナの生まれ育った世界と驚くほど似ている。まず、人間という生き物に違いが見受けられなかった。だからこそセツナはこの世界に順応することができたのだろうが、その人間の形成する社会そのものも、あの世界によく似ていた。もちろん、現代のあの世界とは違うところも大いにある。電気はないし、携帯電話だって使えない。なにもかも不便で、なにもかもが古めかしい。それなのに、セツナは、あっという間にこの世界に慣れてしまった。慣れてしまえば、あの世界の便利さも忘れてしまうものらしく、携帯電話の存在さえいつの間にか意識から消えていた。
忙しさが、あの世界のことを考えさせなくしているのかもしれない。
生まれ育った世界について、たったひとつだけ気になることがあるとすれば、母親のことだけだ。父親も兄弟もいないセツナにとっては、母親だけが肉親なのだ。たったひとり、家族と呼べるひとだった。彼女が幸福に生きているのなら、それでいい。自分のような重荷のことなど忘れて、自由に、なにものにも縛られることなく生きていてくれたら、どれだけ嬉しいのか。
忘れられるのは少し寂しいけれど、異世界に消えてしまったものに生き方を縛られるよりはましだろう。
(なに考えてんだか)
セツナは頭を振って、湯の中に沈んだ。熱が顔面を包む。その熱さがなにもかもを忘れさせるようだった。
晴れ渡った空の下、秋風が吹いている。山林の木々が揺れ、燃えるような紅い葉が舞う。そんな中で熱い湯船の中に浸るというのも、中々いいものだ。体中の疲れが取れていくようだし、心まで洗われていくような感覚があった。気のせいでも構わないという気分が、いまのセツナにはある。
疲れている。
この疲労は、きっと、戦いだけが原因ではない。
政治的なごたごたや、暗殺未遂事件の衝撃が、いまさらのようにセツナの意識を圧迫しているのだ。
「いい湯だねえ」
「ちょっと熱いですけどね」
「エミルの白い肌が真っ赤になってるー」
「ミリュウさんのだって!」
「まったく、子供じゃないんだから」
女湯から聞こえてきたのは、彼女たちが戯れる声であり、セツナは、ルウファの耳が反応する様を横目で見ていた。ルウファはなにを想像したのか、表情をだらしなく弛緩させる。
「エミルの白い裸……」
「……なにか間違っているような、間違っていないような」
「なにも間違ってませんよ!」
ルウファはそういって勢い良く立ち上がり、周囲に湯を飛ばした。そしてすぐさま背後の岩壁に向き直る。セツナは彼がなにを考えているのか想像できたが、制止するよりも彼の背中に注目がいった。武装召喚術師の鍛えあげられた肉体は、素人目に見ても惚れ惚れするものだが、彼の背中には強烈な傷痕が残っていて、そこに視線を向けざるをえないほどだった。
「それにしても、凄い傷だな……」
「ザイン=ヴリディアは強敵でしたからね。なんとか倒せましたけど、俺も危うく死ぬところでしたし……」
事実、ザイン戦の負傷が原因で、彼はザルワーン戦争の最前線から遠のくことになった。それほどの重傷を負ったのだが、いまでは普通に生活できているのだから、彼の回復力は凄いものがある。しかも、戦後、バハンダールに襲来した皇魔を迎撃するために出撃したという。命令無視もいいところだったが、戦いの経過を鑑みれば、彼の参戦なくしてバハンダールの防衛は難しかったようである。しかも、彼の活躍によってバハンダールでの《獅子の尾》の評判があがったらしい。
「ミリュウといい、そのザインといい、魔龍窟出身者っていうのは強力な武装召喚師が多いもんな」
「話を聞く限り、褒められたものではありませんがね。俺が魔龍窟に放り込まれたら、生き残れたかどうか怪しいもんですよ」
ルウファが少し暗い顔をしたのは、魔龍窟による武装召喚師の育成方法を思い出したからだろう。ミリュウに聞いた限り、この世の地獄といってもいいような環境だったという。ミリュウがザルワーンを憎み、父親を殺そうとしたのも、それが最大の原因だった。
血で血を洗い、死で死を拭うような――。
ミリュウが魔龍窟の話をするたび、苦痛に顔がゆがむのを思い出して、セツナは目を伏せた。彼女が苦しみから解き放たれる日は来るのだろうか。そのためにセツナができることなどあるのだろうか。力になってやるべきだ、と考えている。
それはミリュウだけではない。
ファリアが望むのならば、力になってあげたい。ルウファも、エミルも、マリアも。《獅子の尾》は、彼の隊なのだ。隊に入ったひとたちの力になりたいと思うのは、セツナの中では当然の考えだった。それがおしつけがましくなっては本末転倒かもしれないが。
セツナは、湯船に浸かりながら、ゆっくりと伸びをした。心地よい熱湯が筋肉を弛緩させていくかのように、全身を包み込んでいる。なにもかもがゆったりとしたときの中で、女湯から聞こえる嬌声だけが、心をざわつかせた。ルウファが反応するのもわからなくはない。
(男は煩悩の塊だからなあ……)
ふと見ると、ルウファは相変わらず岩壁と対峙しており、なにやら決意でもしているかのようだった。全裸だが、腰にはタオルを巻きつけている。セツナの位置からは彼の背中の痛々しさが目につくのだが、当の本人にはもはやどうでもいいことなのかもしれない。
「さて、行きますか」
「行くのかよ」
すかさず突っ込むと、彼はこちらを一瞥して、言い放ってくる。
「男にはやらねばならんときがあるのです」
「ねえよ。いや、あるかもしれないけど、いまじゃないだろ」
「ふふふ……領伯様ともあろうお方が、そのような甘い考えではなりませんぞ」
「なにがだよ」
「では、我が死に様、御覧じろ」
「死ぬのかよ」
ついていけないと思いながらも最後まで突っ込んだセツナは、ルウファが岩壁をよじ登る様を見て見ぬふりをした。彼の行動に付き合う必要はない。彼が協力を必要しているとしても、いまではあるまい。いや、たとえいま、ルウファにセツナの協力が必要だとしても、彼は全力で拒んだだろう。少なくとも、セツナには良識があり、自制心がある。
「なんだ、この程度か。ふっ……あっけないな」
あっという間に岩壁の頂点に辿り着いたルウファは、だれに対してか勝ち誇ったようにいった。すると、その声を聞きつけたのか、女湯で悲鳴が上がった。
「ルウファさん!? なにやってるんですか!」
「ミリュウ、やりな」
「ちょいなー!」
ミリュウが気合とともになにかを投げ放ったようだが、岩壁上のルウファはやすやすとかわしてみせた。
「ふっ、甘い甘い、その程度避けられいでかっ!」
岩壁上で勝ち誇る様は悪鬼魔人の如きであったが、つぎつぎと投げつけられるものを避けているうちに、彼は、足を滑らせた。
「あっ」
彼はその瞬間、タオルの直撃を顔面にもらい、男湯へと押し返されるようにして落下、盛大な水柱を上げた。セツナは、ルウファが負傷していないか確認するために着水地点に近づくと、彼が気を失ったまま浮かんでいる姿を見つける。こんなことで負傷されたら笑い話にもならないが、調べてみると、外傷は見当たらなかった。
とりあえず更衣室まで運び、あとのことを使用人に任せると、セツナはひとり温泉に戻った。すると、女湯から話し声が聞こえてきた。
「若さってやつかね」
「だとしても、幻滅です」
「わかった? 好きになるなら、あんなのよりセツナみたいのがいいのよ」
「あんなのって酷くないですか!? それに、年下はちょっと……」
「年が離れていても関係ないでしょ!」
「そういえば、結構離れていたね、あんたたち」
「わたしはまだ……」
「あんたも結構離れてるでしょ!」
「ミリュウほどじゃないわよ!」
「なんですってええええ!」
「まあまあ、いいじゃないですか、セツナ様が気にしないのなら」
「……そ、そうよね」
「セツナは気にしていないわよね……」
「気になるんなら、本人に聞いてみればいいんじゃないかい?」
「そ、そんなことできるわけないでしょ!」
「そうよそうよ!」
(丸聞こえなんだけどなあ……)
女湯の喧騒から耳を閉じるように、セツナは湯船に沈み込んだ。
「この地に温泉が湧いたのも、五百年前の大異変に起因するという事実を知っているものは少ない。なぜなら、多くの者は五百年もの長い時を生きることができないからだ」
聞き覚えのある声の妖艶さは、セツナの背筋に寒気を走らせた。
「……なんでだよ」
「だれもかれも、短いときの中を生きることしかできない。ひとも、動物も、皇魔も……。だがそれは仕方のないことだ。この不完全で未完成な世界では、無限に長く生きることなど、できるはずがないのだ」
湯煙の向こうから近づいてくる影がある。降り注ぐ陽光も、吹き抜ける風も、その女の正体を明らかにするためにセツナに協力してくれているようにしか思えなかった。
「やあ、竜殺し。わたしから二つ名を奪った気分はどうだ?」
緋色の髪の魔人は、一糸まとわぬ姿で超然と佇んでいた。