第五十二話 王都発、敵国行――狂気との合流――
マルダールは、城塞都市と呼ばれている。
城塞化が推し進められたのは、半年前のバルサー要塞陥落した直後である。それ以前は、王都ガンディオンに次ぐ第二の都市として知られ、王都に引けを取らないほどの殷賑と喧騒に包まれていたという。
半年前、先王の死とバルサー要塞の陥落という情勢の急激な変化は、マルダールから活気を奪う一方で、重い緊張をもたらしたのだ。当然だろう。ガンディア北方の守備の要であるバルサー要塞が落とされたのだ。マルダールは一夜にして最前線となり、ログナーがいつ攻め込んでくるかわからないという緊迫感の中で城塞都市として作り変えられていったのだという。
といって、以前の面影を消し去ることなどできるはずもない。一から作り直したわけではないのだ。かつての名残はそこかしこにあるらしい。が、以前のマルダールを見たこともないセツナにはわかるはずもなかった。
セツナとラクサスのふたりを乗せた馬車が、王都の北東に位置するこの城塞都市に到着したのはつい半時間ほど前のことだ。
マルダール南側の大門を通り抜け、城壁に囲まれた都市の中へ。今回は、厳戒態勢を敷いていた前回のときとは異なり、馬車に乗ったまま通過することが許されていた。バルサー要塞を奪還できたのだ。敵軍の侵攻を恐れる必要もなければ、緊張する謂れもなくなっていた。市内には活気が戻ってきているらしく、セツナの記憶にある空気の張り詰めたマルダールとは大きく様子が違っていた。
まず、ひとが出歩いていた。一般市民が、である。セツナがマルダールといって思い出すのは、武装した兵士たちが殺気を撒き散らしながら巡回している光景であり、街を闊歩する市民の姿などは見た記憶がなかった。バルサー要塞に出陣する間際のことだ。それも仕方がなかったのかもしれない。
当然、重装備の兵士の姿は見当たらなくなっていた。あの戦いが、ガンディア側の大勝に終わり、無事に要塞を奪還することができたのだ。戦いに動員された兵士の多くは王都に帰還し、残りは、ログナーへの牽制としてバルサー要塞に入るものと、マルダールに留まるものとで分けられたという。戦線が遠のいたことで、マルダールにはわずかな兵力を残しただけに過ぎないようではあったが。
ふと見れば、日が沈みかけていた。城壁の向こうへ。西の空は燃えるように紅く染まり、反対に東の方には闇が迫りつつあった。彼の生まれ育ったあの青い星と同じように、時は流れ、空の表情も変化している。それは以前からわかっていたことではある。きわめてよく似た世界だった。なにもかもすべてが似通っている。人も動物も空も大地も、とても異なる世界には思えなかった。
しかし、ここが地球ではないのは事実だった。大陸図を見ればわかる。数多の国の名が記された広大な大陸は、地球上には存在し得ないものだった。いや、地図を見ずともわかるものだった。感覚が、そう告げている。
ここは、セツナの本来在るべき世界ではない、と。
セツナは、頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではないのだ。気を取り直して、彼は、すぐ目の前を歩く男に問いかけた。
「どこに向かっているんですか?」
「合流地点だ」
考えればわかるだろう、とでも言いたげなにべのなさに、セツナは、苦笑するしかなかった。彼がラクサスに尋ねたのは、その合流地点のことなのだ。もちろん、場所を教えてもらったところで、セツナには把握できないのかもしれないが。
セツナは、静かにため息を浮かべると、夕闇が迫る路地を進むラクサスを追いかけた。
「遅い到着でしたね、ラクサス殿」
突如として路地の暗がりから飛んできたのは、女の声だった。低めに抑えられた感のある声音ではあったが、別段聞き取り難いわけでもなく、むしろ心地のいい音色であったのかもしれない。
夜の帳が下ろされようとする時間帯。王都ほどではないにせよ複雑に入り組んだ路地には、冷ややかな影が悠然と横たわっている。閑散としているのは時間帯のせいなのか、それとも中心から離れているからなのか。しかし、周囲には人家も多い。人気がないとは言え、ひとがいないというわけでもなさそうだった。
故に、女が低い声で話しかけてきたのは正しい判断だったのかもしれない。人目につきたくないからこそ、こんな場所で落ち合うことに決めたに違いないのだ。でなければ、どこで合流しようと構わないはずだ。
「……同行者か?」
ラクサスが、声のした方へと視線を投げかけるのと同じくらいに、セツナもそちらを見遣った。細い十字路の左の通り。黄昏に生まれる淡い闇が揺らめいたかと想うと、喪服のような黒装束を身に付けたいかにも妖しげな女が、進み出てきた。
「いえいえ。わたしはただの付き添いですよ。あなた方とともに死地に赴くなど、真っ平御免ですね」
低い声音で軽口を叩くのは、見た目に二十代前半の女性だった。比較的平均的な体型だろう。長身でもなければ、痩せ気味ということもない。長い黒髪は影に溶けるかのようであり、能面のような――そんな形容詞の似合う表情を浮かべていた。軽妙な口振りとは裏腹に、眼は笑ってさえいない。肌は病的なまでに白く、身に纏う黒衣は、前述の通り喪服のようであり、そんな格好で出歩けば嫌でも目立つに違いなかった。
ひょっとすると、こんな時間にこんな場所で落ち合うことになったのは、彼女の衣装のせいなのかもしれない。だとすれば、あまりにもくだらない理由であり、セツナは、もしそれが事実なら、呆れて物も言えなくなるだろうと想った。
「……」
「そう怖い顔なさらなくてもいいじゃないですか。事実、そうでしょう? たった三人で敵国に潜入するなど、正気の沙汰とは想えません。ましてや、特別な訓練を受けたわけでもないおふたりが適任だとは到底――」
おどけたように軽く笑う女に対して、ラクサスの反応は厳しいものだった。当然の対応ではあったが。
「わたしは君の与太話を聞きに来たわけではない。主命によって、ここにきた。もうひとりの同行者と合流するためにだ。これ以上くだらない話を続けるのはやめてもらいたいのだが?」
「すみませんね。久しぶりに外の空気を吸ったものですから、ついついはしゃいでしまって」
「……君は何者だ?」
ラクサスが、呆れたように問いかけた。実際、彼女の饒舌ぶりに呆れているのだろう。それにはセツナも全力で同意したいところだった。なにより、目的を果たすのが先決であり、こんなところで長々とおしゃべりしている場合ではない。
「これは失礼。申し遅れましたが、わたくしはウル。レオンガンド陛下に付き従う影がひとり。そして彼が――」
ウルが背後を振り返るのに合わせて視線を移すと、さっきまでだれも居なかったはずの空間に、いつの間にかひとりの男が突っ立っていた。気配も感じさせなければ、物音も立てなかったのだろう。空気の変化さえも認められなかった。一瞬にして、というわけでもなさそうであり、その事実がより一層、その男が只者ではないことを示していた。
「!」
そう、只者ではなかった。
セツナは、その長身痩躯の男の顔を一目見た瞬間、今までにない衝撃を受けたのだ。閃光が、目まぐるしく脳裏を巡る。焼きつくような痛みとともに、むせ返るような熱気がセツナの意識を席巻した。
「おふたりとともに死出の旅路につくものです。名は――」
ウルの声は、セツナの耳には届いていなかった。その男の顔だけが、セツナの瞳に映りこんでいた。夕闇の中でもはっきりと見えるのは、距離が近いからという理由だけではない。見覚えがあるからだ。一度、眼にしたことがあるからだ。網膜に焼き付けるほど印象深い相手だったからだ。
あの男だ。
「ランカイン=ビューネル!」
セツナは、我知らず怒声を張り上げていた。ウルなどという女が、驚きのあまり両手で耳を塞いだようだったが、構ってなどいられなかった。いまのセツナに、他人に気を配っていられるほどの余裕はなかった。
カランの炎の幻影が、彼の全身を焼いていた。
「は! あの少年か! 正義の味方の!」
男の顔に、狂ったような笑みが刻まれた。黒髪は長く、風に揺れる様は幽鬼さながらだった。吊り上った双眸に浮かぶのは、純然たる狂気である。わずかな正気さえも見出せないほどの狂気は、むしろ清々しいほどだといえるのか。頬はこけ、以前よりも痩せて見えるのは気のせいではないのだろう。
ランカインの狂気染みた声は、セツナにとっては耳障り以外のなにものでもなく、皇魔の気配などよりも遥かに神経を逆撫でにするものだった。そして、暴走する感情を抑えられない。
「なんでだ!? なんで、てめえがここにいるんだよ!?」
セツナには、叫び声を上げることでしか、心の中で荒れ狂う感情を吐き出す術も見つからなかった。体中を駆け巡るのは、止めどない激情だけではない。全身を焼き尽くさんとした炎の記憶が、皮膚の下で疼くように揺らめいていた。
彼の脳裏を過ぎったのは、紅蓮の猛火に包まれたカランの街の光景であり、エリナの泣き顔であり、ランカインの哄笑だった。猛然と舞い上がる真紅の炎が、彼の戦いの原点だったのかもしれない。初戦ではない。それもわかっている。しかし、セツナがみずからの意志で武器を手に取ったのは、ランカインに対峙したときが最初だったのだ。
「君らの陛下の御命令以外にどんな理由があるというのだね?」
「……!」
ランカインの冷笑に対して返す言葉もなく、セツナは歯噛みした。ラクサスを振り返る。騎士は、こちらの様子に驚いていたのだろう。セツナが眼を向けると、一瞬戸惑ったようだった。
「その男が同行者なのか?」
「はい。彼は、カイン=ヴィーヴル。もぐりの武装召喚師ですが、実力は十分。なんなら、保証書でもつけましょうか?」
「カイン=ヴィーヴル……?」
セツナは、男を一瞥してから、ウルを見遣った。顔面に張り付いたような笑みは、不気味なまでに崩れていない。
「ランカイン=ビューネルなどという人物は、どうやらこの世には存在しないようなので、新しい名前を付けてあげたのですよ。いい名前でしょう?」
「どういうことなんだよ! そいつは――!」
「セツナ、少し黙ってくれないか」
「……」
セツナは、はっとラクサスを仰いだが、彼の射るような視線の前では口を閉ざさざるを得なかった。鋭利な視線だった。さっきはなかったものの、まるで刃物でも突きつけられたかのような錯覚に陥るほどのものだった。それほどまでに、ラクサスにとってはセツナの言動が煩わしかったのかもしれない。反省する。が、セツナの意識は即座にランカインへと映った。
カランを焼き尽くした男が、未だに生きていることが不思議でならなかった。何百人という人間を殺戮した男なのだ。極刑に処されてもおかしくはない。むしろ、死罪は妥当であり、それ以外の罰など考えられなかった。ランカインはそれほどのことをしたのだ。街ひとつ壊滅させた――。
「失礼。彼は今回初めての任務ということで興奮しているらしい。大目に見てやってくれ」
「いえいえ。騎士殿が気にするほどのことでもないでしょう」
「それもそうだがな。……で、彼はランカイン=ビューネルなのか?」
セツナは、ラクサスの言葉に耳をそばだてた。カランを焼き払った武装召喚師の存在は、ラクサスも知っていて当然だった。知らないほうがおかしいとさえいえる。未曾有の大事件である。たったひとりの武装召喚師に、小さいとはいえ街をひとつ焼き尽くされたのだ。騎士ともあろう人物の耳に届かないはずがなかった。
「はい。彼があのランカインで間違いありませんが、それがどうかしましたか?」
「いや、聞いただけだ」
「そうですか」
あっさりとしたラクサスの態度に呆気に取られたのは、ウルだけではない。
セツナは、茫然とした。そこは問い詰めるべきところではないのか、と思いながらも口には出せなかった。ラクサスに対して意見できるような立場にはなかったし、なにより、ラクサス自身が納得しているのなら仕方のないことなのだ。
もっとも、セツナはこれっぽっちも納得できていなかったし、ランカインの存在を認めることなど到底できそうにもなかったが。
「では、カイン=ヴィーヴル」
「なんだ?」
「よろしくお願いしますね。騎士ラクサス=バルガザール殿の命令に従い、任務に取り組んでください。下らぬ問題など起こさぬように」
「わかっている」
「すべては陛下のために」
「……すべては陛下のために」
と、ランカインが、ウルの最後の言葉を異口同音に繰り返したとき、彼の双眸から一瞬だけ狂気が消え失せ、別のなにかが顔を覗かせたのをセツナは見逃さなかった。それは理性とでもいうべきものとはまったく異なる色彩を帯びた表情であり、ランカインの狂気とは別種の不安をセツナに抱かせるものだった。
(すべては陛下のために……か)
その言葉は理解できる。口にすることで再確認したのもなんとなくわかる。しかし、セツナには、とても信じられなかった。あれほどの殺戮を行った人間を、どうしてこのような極秘任務に同行させるのだろう。そもそもランカインは敵国の人間だ。ガンディアの国民を虐殺した大罪人であるはずなのだ。
セツナの脳裏で燃え盛る炎の記憶が、ランカインを許し難いものにしていた。
と、こちらの様子が気になったのか、ラクサスが声をかけてきた。
「セツナ。今は深く考えなくていい。任務に支障をきたすわけにはいかないだろう」
声音は穏やかそのものだったが、その事実が、逆に彼の心情を理解し難いものにしていたようだった。
セツナは、ラクサスと視線を交わすと、眼力に負けそうになりながらもその青い瞳を見つめ続けた。ここで目を逸らすわけにはいかない。セツナにだって、譲れないものはある。
「でも、俺には納得できません。あいつは、ランカインは、カランの街を焼いた奴なんですよ? 罪もないひとたちを虐殺した……!」
胸の内に燻る激情が猛火となって噴き出すのではないかという怖れが、セツナの口を閉ざさせた。これ以上、感情を言葉にすることはできない。胸中で狂おしく渦巻くのは、黒い炎だった。研ぎ澄まされた敵意であり、すべてを焼き尽くすほどの殺意だった。そんなものに身を委ねてはならない。みずからを見失ってはならない。それは恐ろしいことなのだと自覚することで、セツナは、冷静さを取り戻していた。
もっとも、頭を冷やしたところで、ランカインへの敵意も殺意も消え失せたりはしなかったが。
紅蓮の炎の記憶が、セツナの眼の奥で消えることなく揺れていた。
「わかっている。だが、これは陛下がお決めになったことだ。わたしたちの口出しすべきことではない」
「ラクサスさんは納得できるんですか?」
「騎士は主命に従うだけさ」
「……」
セツナは、ラクサスの答えに憮然とした。当たり障りのない、模範的な回答だろう。これ以上ないくらいの答えだったのかもしれない。そう返されれば、セツナはなにも言えなくなる。事実、騎士は主君の命令に従うしかないのだ。いや、それは騎士だけではない。いまやレオンガンドの臣下にあるセツナも同じなのだ。
レオンガンドの命令は絶対であり、拒絶することは許されない。
(だからって、なんで……おまえなんだよ)
セツナは、ウルと言葉を交わすランカインの横顔を見据えながら、胸中で唾棄するようにつぶやいた。