第五百二十八話 湯煙る郷に在りて(四)
セツナたちの宿所として用意された館は、二階建ての木造建築物で部屋数も多く、《獅子の尾》のたった六人の隊員と、王都からエンジュールまでの長旅を御者として同行してくれたマドック=ウォーレーン、荷物の管理を任せていたシュリース=シバール、合計八人と一匹が過ごすには十分過ぎる広さがあった。細々としたことは館の使用人や役人に申し付けておけばよく、セツナたちには、なにも考えず休暇を満喫できそうな環境が用意されていたのだ。
それもこれもレオンガンドの気遣いであり、司政官ゴードン=フェネックの心配りなのだろう。セツナたちがエンジュールに赴くことが決まったのはかなり前のことではあったが、王都とエンジュールは距離もあり、情報の交換だけでも時間がかかる。そのため、王都側とエンジュール側の摺り合わせはある程度のところで留まっていたと見るべきだろう。ほとんどのことは、現地のゴードンに一任していたとしても不思議ではない。
ゴードンいわく、司政官に就任して最初の大仕事だったという。実際、その通りだろう。セツナは、自覚こそ薄いものの、このエンジュールを領地とする領伯であり、ゴードンはその領伯の代官に過ぎないのだ。セツナに粗相があってはならないと緊張するのは、普通に考えれば、当然のことだった。
とはいえ、セツナは、ゴードン=フェネックという気の弱さと人の良さだけで成り立っているような人物に好感を抱かざるを得なかった。彼はザルワーン戦争で地位も名誉も失ったが、そのことを恨みに思っているような素振りは微塵も見せず、それどころか、司政官に任命されたことが嬉しくてたまらないといった様子だった。もちろん、セツナたちの手前、そういっているだけという可能性も捨てきれないが、文官出身の彼にとっては戦場に出るよりも、領伯の代官としてでも政務に携わるほうが好みに合うのかもしれない。
セツナは、そんなことを考えながら、ゴードン=フェネックの背中を見送ったものだった。彼は司政官である。エンジュールの行政の頂点に立っており、セツナたちを出迎える時間ですら惜しいくらいに仕事があるらしい。エンジュールがバッハリアの管轄から切り離されて間もないのだ。新設された役所にとっていまが一番忙しい時期だろう。
「それでは皆様、こちらへ」
そういってセツナたちを先導し、館の中を進むのは、ゴードンに代わってセツナたちの世話を任された人物で、名はジョン=ランカーム。普段はゴードンの秘書を務めているという、切れ長な目が特徴的な痩せぎすの男だ。
彼に案内されるまま館の中を進むと、広間に辿り着いた。広間にはいくつもの椅子やソファがあり、暖炉や大きなテーブルなどもあった。古めかしい調度品が館の雰囲気に合っている。
「それにしても、疲れたわねー」
ミリュウは部屋の中に配置されたソファに飛び込むと、独占を主張するかのように寝転がった。彼女のだらしのない姿にマリアとエミルが呆れる傍らで、ルウファが物珍しそうに室内の観察を始める。そんな中、ファリアは、相変わらずぼーっとしていて、そのことが気がかりだった。
セツナは、ミリュウの様子を見やりながら伸びをした。確かに疲れが出ている。王都からエンジュールまで一直線に向かってきたのが原因だろう。道中、マルスールにこそ立ち寄ったものの、それ以外はほとんど馬車の中で過ごしていた。よく野盗や山賊に出くわさなかったものだが、遭遇したとして、被害を受けるのは賊のほうだ。
「では、夕食はしばしの休憩の後、ということで手配いたしましょうか?」
ジョン=ラーカムの提案に、セツナは皆の顔を見回した。だれもが一様に頷いている。
「うん、それがいいかも」
「かしこまりました。そうそう、この館の温泉はいつ入浴してもいいように準備されていますので、お気軽に声をかけてください。温泉までの案内が必要ならば、わたくしでもいいですし、使用人に案内させても構いません。まあ、迷うほど広い館でもないんですが」
ジョンはそういったが、それは暗に役所は迷うほど広い建物だといっているようにも聞こえた。確かにあの屋敷は迷宮になりそうなほどに大きい。
「えー! いますぐはいるわよ! 汗を流したいもの!」
「あ、それ賛成です!」
「そうだね、まずは汗を流して、それからゆっくり休むとしようじゃないか」
「ほほう……」
女性陣がジョンの話に歓声を上げる中、ルウファが顎に手を当てて、目を光らせる。まるで悪巧みをする小悪党のような振る舞いに、セツナは苦笑する。
「なに考えてんだか」
「別になにも。しかしまあ、まずは温泉というのはアリですね」
「異論はないよ」
湯治も、このエンジュール旅行の目的のひとつである。傷口は塞がっているが、だからといって温泉に浸かって心身の回復に務めるのは悪いことではない。
「ファリアもいくわよね?」
「ええ、もちろん」
ミリュウの呼びかけにファリアが即座に応じたことに、セツナはほっとした。ぼんやりとしていながらも、周囲の話は耳に入っているようだ。
「ファリアのことが気になるのね?」
ミリュウが耳打ちしてきたのは、浴場に向かう途中のことだった。ジョンに案内されてはしゃぐ一行において、ただひとり、ファリアだけが奇妙な静寂に包まれていて、セツナはそんな彼女の後ろ姿に心を痛めるしかなかった。話しかけるべきか、それとも、彼女が話してくるまで待つべきか。そんな葛藤をしている最中のことで、セツナは、ミリュウが心でも読めるのではないかと思ってしまった。
「……ああ。そりゃあね」
「そうよね……ここのところ、ずっとあんな感じだし」
「なにか……あったのかな」
セツナがつぶやくと、ミリュウが口先をとがらせる。
「あったでしょ。セツナが刺されたりさ」
「それだけかな?」
セツナは、とてもあの事件が原因とは思えなかった。事件後もファリアは普通に話していたし、いまのような状態ではなかった。ミリュウとふたりではしゃいだり、騒いだりしていたのがファリアなのだ。温泉を目前にしてはしゃがないファリアなど、普通ではないように思えた。
「さあ? あたしはファリアじゃないもの。わからないわ」
「そうだよなあ」
「でも、まあ、それとなく探ってみるわね」
「ありがとう」
「お礼なんていらないわよ。あたしにとってもファリアは大切なひとだから」
ミリュウはそういって、前列に戻ると、エミルの腕からニーウェを取り上げた。ニーウェはミリュウに対してしっぽを振り回し、エミルに不満の声を上げさせる。ルウファが笑い、マリアもつられて笑う。そんな光景に入り込まないファリアの様子は、いつになく静かで、いつになくおそろしい。
セツナは、そんなファリアを見たことがなかった。
「温泉……か。人の気も知らないで、暢気なものだ」
エンジュールの山林に身を潜めたまま、彼は、目を細めた。
エンジュール西部の山の中腹に、彼は潜伏している。山林に生息する野生動物すらも、彼の存在に気づかないか、気づいても警戒すらしなかった。彼は自然に溶けこむことに成功していたのだ。呼吸ひとつとっても自然そのものと同化している。
修行の末に身につけた技術、などではない。
そもそも、そんなことが人間にできるとは思えない。人間の能力を過信することもなければ、卑下することもないのが彼という人物だった。
彼は、ただ、召喚武装の能力を引き出しているに過ぎない。レイヴンズフェザー。背中から生えた一対の黒翼は、それだけではただの装飾品にも劣る代物だ。しかし、彼が能力を引き出しさえすれば、いくつかの機能を発揮した。
そのひとつが自然との同化であり、それは翼系召喚武装の基本機能であり、翼系に分類される召喚武装のほとんどが有する能力だった。剣系召喚武装が切断能力を保持するように、盾系召喚武装が防壁展開能力を保有するように、兜系召喚武装が感覚の超強化能力を持っているように。
召喚武装の分類は多岐に渡るが、翼系召喚武装は異質であり、確認された数も多くはない。彼の知る限りでも、自分を含めて三つしか確認できていなかった。ひとつが彼のレイヴンズフェザーであり、もうひとつはルウファ・ゼノン=バルガザールのシルフィードフェザーだ。シルフィードフェザーは外套に変化する能力も持っており、その点でレイヴンズフェザーとは大きく異なっている。
「しかしまあ、君が幸福を謳歌することはなんら間違いではない」
山の中から見下ろす先には、ひとつの館がある。エンジュール領伯御一行が宿所として利用することになったらしく、館の周囲には厳重な警備が張り巡らされていた。もっとも、どれだけ強靭な肉体を持つ兵士が手配されていたとしても、彼の前では無意味だ。
「小ファリア。君は、幸せになる義務がある」
クオール=イーゼンは、静かにつぶやくと、翼を展開した。