第五百二十七話 湯煙る郷に在りて(三)
ゴードン=フェネック。
ザルワーン軍第三龍鱗軍翼将としてナグラシアの主将を務めていた彼は、ザルワーン戦争においてはそこそこの活躍を見せている。ナグラシアではセツナたちとログナー方面軍に一方的にやられているものの、ロンギ川会戦においては、ガンディア方面軍に多大な打撃を与えたことで、彼の指揮官としての評価はそれなりに高かったらしい。
しかしながら、ゴードン=フェネックの本質は戦闘向きではない。元々、文官出身である彼が翼将に任命されたのも、ナーレス=ラグナホルンのザルワーン弱体工作の一環であり、戦後、ガンディア軍に帰属した彼は、軍人としての栄達は望みたくもないといい、職を辞したという。実戦の恐ろしさを知ったから、というだけではなく、ザルワーンよりも人材の多いガンディア軍の中では、自分の指揮能力など下も下だと認識したからでもあるようだ。
軍を辞めたゴードンは、ザルワーンの故郷に戻り、家族と慎ましやかな生活を送ろうと決意したようだったが、ガンディア政府がそれを許さなかった。敵とはいえ、翼将として前線で戦い抜いたゴードンになんの栄誉も与えぬでは、ガンディアの名が廃る、ということらしく、彼はエンジュールの司政官に任命された。
「エンジュールは温泉しか取り柄のない小さな街で、司政官を派遣する必要もなかったらしいのですが……」
セツナたちを先導するゴードンが、困り果てたようにいった。エンジュールが元々バッハリアの司政官が管轄する地域だったという話は、セツナも聞いて知っている。エンジュールをセツナの領地としたために、バッハリアの管轄から外されたという話も聞き及んでいた。
「セツナの領地になったから、急遽必要になったってわけね」
「そのようで。なぜわたくしが選ばれたのか、定かではありませんが……」
「そうよねえ……とても辣腕って感じには見えないわ」
「ま、まあ、否定はできませんが」
ミリュウの正直な感想にゴードンは冷や汗をかいたようだった。実際問題、ゴードンの外見というのは贔屓目に見ても、ひとの良さがにじみ出ているだけであり、そこに気の弱さが加味されているのだから、司政官に必要な能力が揃っているようには見えない。もちろん、ひとを外見で判断してはいけないし、それを一番良く知っているのが、武装召喚師であるセツナたちなのだが。
セツナは一見すれば非力な少年に過ぎないし、ミリュウやファリアだって、衣服を着込んでいれば、鍛えあげられた肉体を持っているようには見えない。しかし、一度召喚武装を呼び出せば、セツナもファリアもミリュウもルウファも、鬼のような力を発揮するのだ。
案外、ゴードンも実務能力は高いのかもしれないし、そういった面を評価してのエンジュール司政官任命だったりする可能性も低くはない。
「まったく、失礼なことをいうもんじゃないよ」
マリアが嘆息すると、隣のエミルが思い出したようにミリュウにいった。
「あれ? 言動に気をつけるって話は?」
「あ、あら、わたくし、なにかいいました?」
「……はあ」
「ため息などをつかれましては、運気が逃げてしまわれますわよ」
「……なんていうか、無理しなくていいよ、ミリュウ」
「む、無理などしていませんわよ。これがわたくしの地なのですから!」
胸に手を当てて、自信満々に告げる彼女の姿も美しくはあったのだが。
「俺はいつものミリュウが好きだな」
「へっ!?」
ミリュウが瞬時に凍りついた理由はわからなかったし、凍りつきながら赤面するという不可思議さにはセツナは首をひねらざるをえない。と。
(出た……)
(なるほどこれが)
(さすがは竜殺しですね)
(魔龍窟の魔竜もお手の物ですな)
「おまえらなあ……」
セツナは、後ろの三人を睨みつけたが、彼らは素知らぬ顔だった。そんなときも、ファリアだけが違う景色を見ているかのようであり、気もそぞろな彼女のことが引っかかって仕方がなかった。
この長期休暇中、彼女の力になることができればいいのだが。
「ここが、セツナ様方の宿所となります」
ゴードン=フェネックに案内されたのは、馬車の到着地点の屋敷ではなかった。
あの屋敷は、元々エンジュール一帯で権勢を誇っていたログナーの貴族の持ち家だったらしく、エンジュールを司政官の管理下に置くために買い取ったのだという。いまでは司政官を頂点とする役人集団が役所として活用しているようだ。
エンジュールを一望できる場所に役所を置いたのは、正解だろう。
セツナたちが連れて来られたのは、役所のすぐ後方の建物だった。役所より一回りも二回りも小さい建物だが、役所に近いことを考えると、貴族の家の離れ家だったのかもしれない。小さくとも立派な建物で、仮に一般的な家族が暮らすにしても十分過ぎる広さがあるように見えた。
役所と同じく、山の中腹の多少切り開かれた場所に佇む館。自然に溶け込むような色彩感覚で作られており、派手さはないが、だからこそ過ごしやすそうではあった。館の出入口には、数人の役人がセツナたちを出迎えるために出張っていた。
「ここが宿? 温泉はー?」
「温泉は、エンジュールの各地に湧いておりますが、温泉宿に泊まっていただくよりも、ここを拠点として頂くほうが、様々な面でありがたいのです。なにせ、領伯様は先日危うい目に遭われたばかり。我々としても、目の届く場所にいていただきたく」
「それなら仕方がないな」
セツナはゴードンの説明には、反論する気にもなれなかった。そもそも、温泉宿を期待してエンジュールに来たわけではない。王命であり、自身の領地を一度見てみたかったというのが大きい。もちろん、休暇を満喫するという理由もあるのだが。宿がどのようなものでも、彼としては特に問題はなかった。
「長期休暇だっていうし、温泉宿に泊まりたいっていうんなら、いつでも行けるんじゃないかい?」
「なるほど、それもそうね!」
「ちなみに、この建物の裏庭にも温泉が湧いておりまして、今夜はその温泉を利用して頂くつもりで、用意していたのですが」
「お! さすがゴードン司政官! 気が利くわね!」
「辣腕だなあ」
「ですねえ」
「……えーと」
目にもあざやかな手の平返しを見せるミリュウたちの様子に、ゴードンはついていけないようだった。どう返していいのか迷っている彼に、セツナは声をかけた。
「気にしないでくれ。こういう連中だから」
「はあ……領伯様も大変ですね」
ゴードンは、心底同情してくれたようだが。
「ん? 俺もあれの仲間だから」
「え?」
「わたしは一緒にしないでいただきたいのですがねえ」
「先生も仲間でしょー」
「いつからわたしはそこまで堕ちたのよ」
「ふふふ……あたしは魔竜よ。あたしに関わったものは、地の獄まで堕ちるしかないのよ」
ミリュウがなにやら勝ち誇ると、マリアが多少悔しそうな顔をした。マリアが既に毒されているのが不思議だったが、セツナが眠っている間にそういう関係性が築かれていたのかもしれない。
「こんな地の獄なら歓迎なんですけどね」
「あら、そうなの? 男はセツナ以外扱き使われるだけよ?」
「ダメです! ルウファさんはわたしが守ります!」
「地獄の中で勢力争いかい? 他所でやっとくれよ」
「まあ、常にこんな感じなんで、気にしないでください」
「は、はあ」
不承不承といった様子のゴードンに、セツナは笑いかけた。