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第五百二十五話 湯煙る郷に在りて(一)

 十月二十三日。

 季節は秋。

 木々は紅く色づき始め、大地は黄色く染まろうとしていて、この大陸には四季があるのだということを再確認させた。

 晴れた空は滲んだような青さと、真っ白な雲の陰影が美しく、ただただ眺めているだけでも良かった。楽しい、というのとは違う。心が晴れていく、というべきかもしれない。隊舎の自室にこもっているだけでは、心も沈んでいくものだ。

 もちろん、軍医のマリア=スコールを初め、エミル=リジルにファリア、ルウファ、ミリュウといった面々も気を使ってくれるし、それはそれでありがたいことなのだが、自由に動いてはならないというのは、セツナのような人間には辛いものがあった。

 そんな時期、しばしばエリナが遊びに来てくれたのが嬉しかった。この世界で最初に知り合った少女が元気な様子を見せてくれるのは、セツナとしても戦い抜いてきた甲斐があるというものだろう。カランの警備隊員だったサリス=エリオンは、セツナが領伯になったことを心底驚いていたが、それはセツナの反応だった。

 サリスは、エリナとエリナの母親と一緒に王都で暮らしているというのだ。もっとも、カラン大火で父親を失ったエリナだが、サリスのことは父親というよりも、兄のように慕っているようだった。とはいえ、彼女はサリスと母親の微妙な関係が進展することを祈っているらしく、ファリアやミリュウに相談を持ちかけていた。苛烈な人生を歩んできたふたりが、恋愛相談に適切な答えを出せるはずもなかったが。

 やっと自由行動が許されたのが、五日前のことだ。だが、十日もの間ベッドの上で生活していたせいなのか、やたら体が重く感じられた。ただ隊舎の中を移動するだけでも疲労を覚えたのには、危機感を抱かざるを得なかった。これでは、まともに戦うこともままならないのではないか。

 もっとも、黒き矛の使い手であるセツナにとって、身体的な不調など、杞憂に過ぎない。カオスブリンガーはセツナの肉体を限界まで酷使し、実際以上の身体能力を発揮する。その結果、戦闘後に意識を失ってしまうのだろうが、それについては肉体を鍛えるか、力の使い方を考えるようにすればいいだけのことだ。そのためにルクスに師事し、それなりの成果は上がってきていた。そんな時期に体力が低下するのは頂けないが、レオンガンドがしばらくは戦争を起こすつもりがないというのならば、それまでにしっかりと鍛え直せばいいだけのことだろう。

 体を鍛え直すには、まず心を癒やす必要がある、とはルウファの言葉だが、それは別として、セツナたち《獅子の尾》は、長期休暇を与えられていた。しっかりと体を休め、心を労れというレオンガンドの命令であり、王立親衛隊《獅子の尾》の面々が背くことなど許されなかった。もちろん、レオンガンドなりの心遣いなのだろうし、セツナは休暇を満喫することで、レオンガンドへの感謝を表すことにした。

 暗殺未遂事件から十五日が過ぎた。エレニアに刺された傷口は完全に塞がっているが、傷痕はしっかりと残っている。痛々しいものだが、あのとき、痛みは殆ど感じなかったのはなぜなのだろうか。記憶が曖昧になっているせいもあるが、凶器の短剣に塗られた毒のせいかもしれないという。毒の成分には未知の部分があり、それが痛覚を鈍らせたのではないか、というのがマリアの推測だった。その毒が意識まで弛緩させ、意識不明の状態が長引いたという可能性もあるらしい。セツナにはわからないことだし、エレニアの証言からも明らかになっていない部分だ。

 エレニアは、情報部の尋問に対して知っている限りのことは洗いざらい話したというのだが、彼女の知っていることというのは、事件の表層的なことでしかなく、決定的なことはなにもなかった。ログナー家を追い詰める材料こと出揃ったが、それだけらしい。彼女は、ログナー解放同盟の計画通りに動いただけだというのだ。

 報復のためだ。同盟に深く関わるつもりなどなかったのだろう。

 セツナは、彼女のことを考えると、脇腹の傷が疼く気がした。そんなことはありえないように思えるのだが。

 エレニアを思い浮かべると、ウェイン・ベルセイン=テウロスとの最後の戦いが脳裏を過るのだ。黒き矛と漆黒の槍の激突、そして、黒の融合。まるでカオスブリンガーが用意した茶番のような戦闘だった。

 黒い化け物と成り果てたウェインの姿は、セツナの未来なのかもしれない。

 ふと、そんなことを思って、彼は頭を振った。そんなことばかり考えているから、暗く沈んでいくのではないか。

 特別に誂えられた幌馬車の中に視線を戻せば、《獅子の尾》の面々が顔を揃えている。副長のルウファ・ゼノン=バルガザールに、隊長補佐のファリア・ベルファリア=アスラリア。それに正式に入隊したばかりのミリュウ=リバイエンと愛犬のニーウェ、《獅子の尾》専属の軍医マリア=スコールと助手のエミル=リジルである。たった三人の部隊から六人となり、倍増したといってもいいのだが、《獅子の尾》に期待されるのは戦果であり、望まれるのは戦闘員の増加だった。そういう観点から見れば、ひとりしか増えていないともいえる。とはいえ、ミリュウの武装召喚師としての実力は折り紙つきといってよく、百人力、千人力といってもいいのだが。

 新生《獅子の尾》はいま、ログナー地方のエンジュールへと向かっていた。王命である休暇を実行するためでもあれば、温泉で心身を癒やすためでもあり、また、領伯として自分の領地を見て回るためでもあった。領伯の仕事などというものは司政官に任せておけばいい、というのはレオンガンド直々の言葉だが、セツナは元よりそのつもりだった。自分になにができるはずもない。領伯に任じられたからと張り切ったところで、セツナにできることは敵を倒すことしかないのだ。領地の運営や管理など、国が派遣した司政官に一任してしまえばいいのだ。

 そういう意味では、気楽なものだった。立場は重々しいし、周囲の扱いも激変してしまったが、セツナ自身に変化はない。変化しようがない、というべきだろうか。驕り高ぶるほどの実感が湧いてこない、ともいう。

「秋に温泉なんて、まるで元の世界にいるみたいだよ」

 セツナがだれとはなしにつぶやくと、五人と一匹の視線が彼に集中した。さっきまで外の景色を眺めていたせいかもしれない。隣のミリュウが尋ねてくる。

「ニッポン、でしたっけ」

「ニッポン? なんですかそれ」

 ルウファが変な顔をした。そういえば、ルウファには話したことがなかったかもしれない。一方でミリュウが得意げなのがおかしくて、セツナは笑いを噛み殺した。

「セツナ様の生まれ育った国のことですよ、副長殿」

「……そういえば、領伯隊長は異世界人でしたね」

 ミリュウとルウファがさらっといったが、マリアとエミルが驚いていないところを見ると、ふたりにも知らされていたようだった。セツナが異世界から召喚されたという事実は、ガンディアでも一部の人間しか知り得ない機密情報なのだが、《獅子の尾》に所属するものには、隠しておくことなど不可能に近い。すぐには判明しないとしても、いつかはわかることだ。それに、機密事項として隠しておくほどのことでもない。

「そうなんですよね。セツナ様の記憶の中には、理解のできない言葉が散乱していて、まるで悪い夢を見ているようでした」

「なんだか気持ち悪いねえ」

 マリアが肩を竦めたのは、ミリュウの猫をかぶったような言葉遣いに対してだろう。セツナも、妙なこそばゆさを感じずにはいられなかった。晩餐会でもそのように振舞っていたし、似合わないではないのだが、いつものミリュウとは大きく異なる言動や態度には、すぐにはなれないものだ。

 ミリュウがにこやかに微笑む。

「軍医殿、発言には気をつけてくださいね」

「……いったいどうしたんだい?」

「さあ?」

 ルウファが頭を振ると、ミリュウは自分の胸に手を当て、静かに告げてきた。

「わたくし、心を入れ替えましたのよ。ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》の隊士として生きていくのですから、言葉遣いにも、立ち居振る舞いにも気をつけなければならないと想いましたの」

「……そうかい。そいつは、いい心がけじゃないか」

「隊士ひとりの振る舞いが隊の評判に関わるでしょう? ですから、わたくしは常日頃から言動には気をつけようと。隊長補佐もそう想いません?」

「え?」

 話をふられて、ファリアがきょとんとした。常に周囲に気を使っている彼女にしては、めずらしいことだと思ったが、そういうこともあるだろうとセツナは気にもとめなかった。

「……えーと、たぶん、そうね」

「たぶん、ってなによー」

 ミリュウは、ファリアの反応が気に入らなかったのか、頬を膨らませた。ファリアは、そんな彼女の態度に困ったように笑っていたが、その表情は芳しくなかった。心ここにあらずとしか形容しようのないまなざしは、セツナの意識に引っかかった。

 深く考え事をしていて、周りが見えていないようなのだ。はっきりいえば、ファリアらしくなかった。何か悩み事でもあるのだろうか。だとすれば、相談に乗ってあげたいと思うのだが、こちらから話を振るのも気が引けた。ファリアは、セツナよりも余程物事を知っているし、考えてもいる。相談する必要が生じれば、彼女から話しかけてくるに違いないのだ。

 セツナがそんなことを考えていると、

「皆様方、エンジュールの街が見えてまいりましたぞ」

 御者台からの声に、六人は顔を見合わせた。ほとんど一斉に御者台へと殺到し、馬車の進行方向に広がる景色に様々な声を上げた。ファリアですら感嘆の声を漏らしたのは、山麓の町並みが異様なまでに美しく、神秘的だったからだ。

 街の名もエンジュールといった。

 自然と調和した景観は、セツナたちが休暇を楽しむにはぴったりだった。

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