第五百二十三話 魔王の事情
ユベルは、眼下に広がる魔都の町並みに目を細めた。
クルセルクの首都クルセールは、彼がクルセルクで落とした唯一の都市といっていい。それは、ほかの都市で大規模な戦闘が起きなかったという意味だ。だれもが皇魔の軍勢に恐怖した。城壁の中という絶対的な安心感が、城壁をものともしない軍勢の前に音を立てて崩れ去り、恐怖と絶望がクルセルクの都市群を襲った。都市の防衛に割かれた戦力では、到底勝ち目がない。ユベルの軍勢と相対した都市のほとんどは、戦闘の結果を待たずして降伏した。
ユベルは、そういった人間の弱さや醜さ、そして潔さには苦笑せざるを得ない。もちろん、皇魔になど従えるか、と最後まで抵抗してきたものもいたが、そういったものたちはユベル配下の皇魔たちによって惨殺された。虚しくも神の名を叫び、天に救いを求めたものたちの最期ほどくだらないものはなかった。
だが、それでこそ人間なのだ、とも思う。
勝てるはずのない軍勢を前にして、絶望的な状況にありながらもなお希望の名を叫び、刀槍の海へと挑むものたちの魂は、いうまでもなく気高く、美しい。たとえ最期に神の名に縋ろうとも、それまでは美しく燃えていた。
そういう人間は、決して嫌いではない。
「矛盾だな」
ユベルがつぶやくと、リュスカが小首を傾げたようだった。リュスカは、人間の女に酷似した姿形をした種族の皇魔リュウディースである。青白い肌と藍色の髪、紅い目を持ち、一対の角が人間との違いを明確にしている。本来ならばその目も、他の皇魔と同様に異形であるはずなのだが、彼女はユベルと同じ人間に少しでも近づこうと努力しているらしく、眼球が形成されていた。それは皇魔だからこそ出来る芸当であろう。人間には、自分の肉体を自分の意志で変形させることなどできない。
だからといって、ユベルは彼女を嫌ったりはしない。むしろ、人間よりも皇魔といるほうが心が落ち着くのがユベルという存在だった。体は人間、心は魔性。それが魔王ユベルという存在らしい。
彼は、自分のことを評する言葉を思い出して、苦笑した。
クルセールは、魔都と呼ばれている。
そう呼ばれるようになったのは、魔王ユベルによって制圧されてからだが、ただ魔王が都というわけではない。魔王がクルセールに入ったということは、彼の配下の皇魔たちも都に入ってきたということであり、皇魔の巣窟と化してもいたからだ。
王城の天守から望むクルセールの町並みほど奇妙な美しさを誇る都市を、彼は知らなかった。少なくともガンディオンよりよほど美しく、そして奇怪な景色であろう。元は人間の設計した都市だった。クルセルク王国の首都に相応しい景観だったはずだ。しかし、魔王率いる皇魔の軍勢が入植したことで、その外観に亀裂が入った。皇魔たちがみずからの巣としての建造物を作っていったのだ。粘土細工のような歪な塔や、空中に浮かぶ構造体などがそれだ。
クルセールの人口は増大したが、それは皇魔の大群が住み着いてしまったからであり、皇魔を人口と数えていいならば、の話だ。無論、ユベルは皇魔も人口に数えていたし、人間も無視してはいない。とはいえ、皇魔の流入は、人間の流出も意味する。皇魔の住み着く都になどいたくない、といってクルセールから逃げ出す人間は少なくはなかった。とはいえ、すべての人間が自分の住処を自由に決められるはずもなく、クルセール生まれ、クルセール育ちの多くの一般市民は、皇魔が入ってきてからも同じように生活している。
以前と同じように、だ。
クルセールが、クルセルク王家によって支配されていた頃と、ほとんどなにも変わらない生活を送ることができているはずだ。
少なくとも、ユベル配下の皇魔がクルセール市民、クルセルク国民を襲ったという事例は報告されていない。皇魔による被害が報告されたとしても、それは彼の管轄外の皇魔がやったことであり、彼の与り知らぬことだった。だからといって捨て置けば、魔王の仕業になるのはわかりきっている。それによって魔王の悪名を響かせるのも悪くはないが、クルセルクの統治に悪影響が出るのはよくなかった。彼は手勢を以って当該皇魔の巣を殲滅し、クルセルク国民に無関係であると発表せざるを得なかった。
魔王は、為政者である。しかも善政を敷いている。
『余興だよ』
宰相のクラン=ウェザーレにはそのようにいったが、言い訳に聞こえたかもしれない。
そういう事情もあってか、首都クルセールの市民の中には、皇魔を恐れないものも現れ始めている。クルセール市街地や王城に現れる皇魔が人型のものだけ、というのも大きいのかもしれない。ユベルは、人外異形の皇魔は、市街地には入らないように指示していた。恐怖で支配するのも悪くはないのだろうが、そんなことはだれでもできることだ。
力と恐怖による支配への反発が、彼にはある。
そのうち、クルセール市民と一部の皇魔が触れ合う様子が見受けられるようになった。奇妙なことだ。言葉も理解し合えなければ、意思疎通もできないはずの両者が、ユベルという仲介者が存在するだけで、ときに手を取り合い、ときに笑い合ったりするのだから。
もちろん、すべての皇魔が人間に対して優しく振る舞うわけではない。むしろほとんどの皇魔が、人間への敵意を隠せないまま、ユベルに付き従っている。クルセールの市街を闊歩するのは、人間への敵対心が薄い、わずかばかりだった。だからこそ、人間と皇魔の共存という異常現象が垣間見ることができるのだろう。
「サラ将軍はまだ悔しがっているそうだな」
ふと、リュスカに尋ねると、彼女は困ったような顔をした。
「サラ、怒ってる」
「怒っている、か」
さもありなん、と彼は思った。きっと、自分への怒りだろう。ルベンへの攻撃は、サラ将軍にとって久々の戦闘だったのだ。その結果があの有り様では、悔いが残るというものだ。
サラ将軍とは、皇魔軍覇極衆の将軍のひとりだ。レスベルの群れを統率する武将であり、ユベルが最初に支配した皇魔だった。レスベルでありながら漆黒の肉体を持つ異質さは、彼の能力の高さを表している。
ガ・サラ・ギという名は、レスベルの言葉でガ氏族の戦士サラという意味らしい。
彼は、ルベン攻撃において、多くのザルワーン兵を倒したものの、メレド軍の兵と思しきものに手こずったというのだが、彼ほどの剛の者と対等に戦える人間がいるのが信じられなかった。相手が武装召喚師というのならばわからなくはない。ザルワーンに出現したドラゴンを打ち倒した武装召喚師の実在は、世間に武装召喚師の凄まじさを植え付けている。
が、どうやら、サラ将軍と交戦したのは武装召喚師ではないらしいのだ。
「再戦、望む、と」
「……無理だな」
にべもなく告げて、彼は、朝日に照らされた町並みに背を向けた。朝議の時間が迫っている。いつまでも朝日を浴びていることはできない。
「どうして?」
「メレドと戦う予定がない」
ユベルは、リュスカの疑問に即答すると、脳裏にクルセルク近郊の地図を描き出した。メレドとクルセルクの間には、いまやガンディアの領土となったザルワーンが横たわっている。メレドと戦を交えるには、ガンディアを下す必要があるのだ。ガンディアを無視するならば、北回りに侵攻し、アバード、シルビナ、イシカを制圧していかなければならないが、アバードを落とすということは北進を続けるガンディアの進路を塞ぐということであり、メレドとの戦闘よりもガンディアとの衝突のほうが先になるのは間違いない。であるならば、最初からザルワーン方面に侵攻し、ガンディアを下したほうが早いということになる。
もっとも、将軍のためにメレドと剣を交える必要はないし、戦略を変える必要もない。
「まずは反魔王連合の突き崩しにかからなければならない」
ユベルは、その仰々しい名称に苦笑さえ浮かべながら、一方でまじめにつぶやいた。
ユベル率いるクルセルクは、隣国にして大国・強国であったザルワーンがガンディアとの戦争に興じている間、クルセルクの東に位置するノックスに侵攻、領土の半数の制圧に成功していた。ノックス侵攻時、ユベルはリュスカとともにザルワーンを訪れることが多く、戦闘に関しては宰相と軍の連中に任せていた。
数と力に物を言わせた闘いは、戦術も戦略もあったものではなかったようだが、勝ったのならば問題はない。
あるとすれば、クルセルクがノックスに与えた衝撃によって、ノックス、ニウェール、リジウル、ハスカの四国に反魔王同盟を結ばせたことくらいだろう。
「魔王を滅ぼすためならば、啀み合っていた国とも手を取り合う……実に人間らしい判断だと思わないか?」
「人間、らしい?」
リュスカが小首を傾げるのを横目で見て、進路に視線を戻す。彼女が話すたどたどしい人間の言葉は、彼の精神を落ち着かせるのに一役も二役もかった。
「絶体絶命の窮地に陥れば、どんな相手とだって手を組むのが人間というものだ。俺もそうだった」
「ユベルも?」
「ああ」
ユベルは、素直にうなずくと、苦笑した。
くだらない想い出が、彼を感傷に誘おうとしたのだ。