第五百二十二話 ナーレスの思惑
バッハリア。
かつてはログナーにおける大都市のひとつとして数えられていた都市は、いまではガンディアの地方都市のひとつとして機能している。
最近になって脚光を浴びているのは、近郊に温泉が湧いたからだ。
ワーグラーン大陸の中でも、温泉地として有名なのはザイオン帝国のハルン温泉郷と、ヴァシュタリアのメノーヴ辺りだろう。どちらも数百年の長きに渡って開かれている温泉地であり、湯治客でごった返していることはよく知られている。特にメノーヴに至っては、ヴァシュタラ教徒の巡礼地ということもあり、知らないものはいないほど有名だった。
地の底から湧き出る温水に浸かるだけで疲れが取れ、美容や健康にもいいという話は、バッハリアを一躍観光都市へと変貌させてしまうのだから恐ろしい。
バッハリアが観光地と化したのは、ガンディア・ログナー戦争よりも随分前のことだ。
ザルワーンによるログナーの支配が本格化したのが四年前。そのころはまだ、ログナーの一都市に過ぎなかったのだが、ザルワーンの介入が強まり、都市開発が進んだことで温泉が発見された。温泉が見つかったとなれば、それを利用しない手はない。バッハリアは都市を上げて温泉の宣伝を行った。そうすると、ログナー各地から温泉目当ての観光客が訪れるようになった。客は、ログナー国内からだけではない。ベレルやジベルから訪れる人々もいて、バッハリアは観光地として盛大に賑わうようになった。
ガンディア・ログナー戦争中も湯治客で賑わっていたというのだから、温泉ほど業の深い存在もあるまい。
岩場に湧いた熱湯の中に身を沈めながら、ナーレスはそんなことを考えていた。
視界を流れる湯気の彼方に揺蕩うのは、夜空だ。バッハリアの温泉は、ほとんど例外なく露天温泉であるという。雨の日のことも考えて屋根を取り付けているところもあるらしいのだが、ナーレスたちが宿泊している宿の温泉には、屋根はなかった。雨が降れば、露天温泉は諦めるしかない。が、彼がこの宿に滞在している間、天候が怪しくなることはあっても、雨が降ったことは一度もなかった。
天候に恵まれているのだ。
『旦那様の生還を喜んでいるのですわ』
メリルの無邪気な言葉が、ナーレスの疲れきった心を癒してくれるのは、いつものことではあったが。
バッハリアを訪れてからというもの、ナーレスはメリルとの日常を満喫できていた。夫婦水入らずとはこのことで、ナーレスが望みさえしなければ、外部からの邪魔は一切入らなかった。レオンガンドがふたりの護衛に、と、つけてくれた兵士たちの教育がよく行き届いている証拠だろう。彼らは、ナーレスたちの視界にさえ入らないように気をつけているようですらあった。その気の使いようは、ナーレスをして苦笑させるほどだ。
ガンディア人の兵士たちだ。
ナーレス=ラグナホルンの名を知っているということも、大きいのかもしれない。ナーレスは、自分がガンディア国内でどのような扱いをされているのか、レオンガンドから聞いて知っている。将来を嘱望された天才的な軍師として知られ、ついで最大の裏切り者として有名だった。ガンディアを見限った人物といえば、ナーレス以外にも何人かいるが、ナーレスが取り沙汰されるのは、彼がザルワーンに渡ったからに違いなかった。ザルワーンほど、ガンディアが目の敵にする国はなかったからだ。ザルワーンは大国でもあった。
その大国を降し、ログナーさえも飲みこんだガンディアは、超大国といえるのか、どうか。
(それはないな)
彼は、冷静に分析する。
大陸小国家群においては大国といってもいい勢力となったのは、間違いない。ガンディア、ログナー、ザルワーン三国分の国土を有し、国力、兵力において、並ぶものは数えるほどしかいないだろう。しかし、それで大陸小国家群の趨勢が決まるはずもない。小国家群には、未だに無数の国々が存在しているのだ。弱小国に見えて、ガンディアに匹敵する戦力を有する国があったとしても不思議ではないし、クルセルクのような不気味さを持つ国もある。警戒を怠ってはならない。
頭の中には、いままでに得た情報によって小国家群の勢力図が描き出されている。そこに兵士たちに命じて掻き集めさせた昨今の情勢を重ね合わせることで、現在の小国家群がどうなっているかがよくわかった。
中でも、ガンディアがザルワーン戦争に熱中している間、近隣諸国に起こった変化には注目するべきであろう。
まず、ジベルだ。ザルワーン戦争のどさくさに紛れて、ザルワーン領土の四分の一を自国領にしてしまったのが、ジベルという国である。ガンディア軍が制圧した都市に攻撃を仕掛けてこなかったところを見ると、いまのところ、ガンディアに敵対する意志はないということなのだろうが。ハーマイン=セクトル将軍と死神部隊と呼ばれる戦闘集団には注意するべきであろう。
ちなみに、残りのザルワーン領は、ほぼすべてガンディアのものとなっている。最後まで放置されていたルベンも、皇魔の襲撃後、ガンディアに帰属した。ルベンの防衛は、旧第二龍鱗軍に任される手筈になっていたが、翼将ビュウ=ゴレット以下数名は職を辞し、ガンディアを去っている。メレドへ向かったということであり、ルベンの防衛に尽力したメレド軍に感銘でも受けたのか、それとも士官のあてができたのか。
東の隣国ジベルのつぎに注目するべきは、西の隣国であるメレドとイシカだ。ザルワーン戦争の最中、メレドはザルワーンがガンディアとの戦いに集中していることを好機と見、北進を開始。途上にあるイシカ領土へと攻め込み、イシカの喉元に刃を突きつけるところまでいったものの、イシカの刃がメレドの首筋に触れるという事態になり、膠着状態に陥ったという。つまりは痛みわけであり、メレド軍がザルワーンに介入してきたのは、そういう事情もあったのだろう。イシカとの戦いでなにも得られないのならば、ルベンを得ようとでも思ったのかもしれない。しかし、ガンディア軍がルベンに部隊を派遣したことで、彼らはルベンの制圧を諦めた。皇魔との戦闘で消耗した以上、ガンディア軍と戦闘を行うのは、喜ばしいことではないとでも判断したに違いない。
ともかく、メレドとイシカは痛み分けのまま、戦闘状態が続いているようだった。
隣国といえば、ガンディアの西隣のアザークはワラルに攻めこまれ、国土の五分の一を失ったという。ガンディアへの攻撃ばかりを企んでいるから、足元を掬われたのかもしれない。
ミオンとルシオンは現状維持だが、主戦力をガンディアに貸し出していたのだ。当然の結果だろう。ザルワーン戦争での借りは、いずれ返さなければならない。ルシオンもミオンも、ガンディアの属国ではない。三国同盟は、三国同列の同盟なのだ。ガンディアを盟主と見る向きもないではないが、必ずしもそうではなかった。軍事力を借りたならば、軍事力で返さなければならないだろう。もっとも、両国がそれを望めば、の話だが。
ログナーの東隣の国ベレルも、国土に変化はない。が、ザルワーン戦争後、ガンディアに接近する素振りを見せている。ガンディアとよしみを通じることで、ガンディアの侵攻対象から外れようと目論んでいるのかもしれない。そしてそれは悪い判断ではない。ガンディアにとっても喜ばしいことだ。戦闘もなく、味方が増えることほど嬉しい事はない。なにがなんでも侵攻し、力づくで奪い去ればいいというものではない。
戦争は、勝ったからといって疲弊しないわけではないのだ。
金もかかれば、ひとも死ぬ。資源もまた、無限にあるわけではない。
できれば、戦争などしないことに越したことはない。戦争を起こすのならば、勝利が確定する状況を作ってからでなければならない。ログナー戦争やザルワーン戦争のような戦い方は、本来ならばするべきではないのだ。結果的に勝てたからよかったものの、負ける可能性もなかったわけではない。
(セツナさまさま……だな)
セツナ・ゼノン=カミヤ。あるいは、セツナ・ラーズ=エンジュール。バッハリア近郊の温泉街エンジュールの領伯に任じられたばかりの彼が殺されかけたという報告が飛び込んできたのは、つい昨日のことだ。
今日は十月十五日。
暗殺未遂事件が起きたのは、八日のことであり、事件から七日が過ぎている。衝撃的な事件は、ログナー方面をも騒然とさせていた。なによりもまず、ログナーと因縁のあるセツナがエンジュールの領伯に任じられたことが世間を騒がせたが、その直後に届いた暗殺未遂事件の報せは、ログナー人に様々な感情を抱かせたようだ。
ざまあみろというものもいれば、今後のログナー人の扱いが悪くなるのではないかと心配する声も聞かれた。
ナーレスは、素性を偽って、宿に泊まっている。旅館で働くログナー人の素直な気持ちを聞くことができたのは、そういうこともあった。
(随分嫌われたものだ)
彼は温泉につかりながら、あの少年のことを想った。
ナーレスは、バッハリアに向かう直前にセツナと対面している。セツナ・ゼノン=カミヤという少年がレオンガンドの評価通りの人物だということがわかって、レオンガンドの人物眼の確かさにうなると同時に、セツナ少年に危うさを抱いたものだ。
彼は、少年なのだ。
少年が、ガンディアの興亡の命運を握っている。
にわかには信じられない話だが、事実は事実として認めざるを得まい。
ナーレスは、レオンガンドから彼を使ってみるという話を聞いたとき、武装召喚師ならば戦力にはなるだろうという程度の認識だった。武装召喚師の存在が戦術を変えるというのは以前から認識していたことではあったが、セツナほど、戦局を左右する武装召喚師がいるとは想像もできなかったのは、ナーレスの見識不足なのだろう。
セツナは、たったひとりで戦局を左右するだけの活躍をしている。バルサー平原の戦いに始まり、ログナー戦争、ザルワーン戦争においても、そうだ。彼に比肩する戦果を上げたものなど皆無であり、彼が領伯に任じられるのも必然だった。
そして、それだけ目立てば、当然、敵意も集まりやすいものだ。彼はガンディア躍進の象徴であり、ガンディアによって攻め滅ぼされたログナーとザルワーンの人々が、憎悪の対象とするのも、ある意味では当然であろう。もっとも、人々の憎悪や呪詛がどれだけ膨れ上がったところで、セツナ自身になんら危害が及ぶことはない。
なんらかの意志が働き、具体的な行動に及ばない限りは。
(だれが策を弄したのか)
ナーレスが気になるのは、そこだった。
ガンディア国内の派閥問題は、彼にとっても悩みの種だった。レオンガンド派と反レオンガンド派の対立は、ずっと昔から続いている。ナーレスがガンディアにいたころよりも深刻化しているのは、暗殺未遂事件を見れば明らかだ。
つまり、ナーレスは、セツナの暗殺を目論んだのは、反レオンガンド派の人間だと確信しているのだ。
ログナー解放同盟などという程度の知れた組織だけでは、これほどの事件を起こすことはできないと見ている。解放同盟のこれまでの活動内容を見てみればわかるというものだ。彼らが表立って活動したことなど、レコンダールでの街宣活動くらいしかないのだ。求心力もなければ、影響力も少ない。ログナー人の多くは、ガンディアによる政治に満足しているのだから、そうなるのも仕方のないことだ。
ログナー解放同盟の活動は、空転しているといってもよかった。
そんな中、彼らの存在感を示す事件が起きたわけであり、ログナー各地で解放同盟の行動が活発化したのはいうまでもない。ログナー人の中には、ガンディアへの反発心を隠していたものも少なくはなく、今回の事件をきっかけに解放同盟へと身を投じるものがでてきているというのだ。ログナー解放同盟の規模はまだまだ小さい。都市ひとつ制圧するほどの力もないのだ。恐れるには値しないほど微弱な勢力だ。しかし、これらの情勢を見れば、ログナー人の中の反ガンディア感情がいかに根強いものかがわかるだろう。火が付けば、どうなるものか。
ログナー解放同盟の規模が膨れ上がる前に対処する必要がある。
当然、ガンディアもそれを認識していて、ログナー方面軍第三軍団を動員している。
ログナー方面軍第三軍団の軍団長エイン=ラジャールは、ナーレスが注目する人物のひとりだ。若干十六歳という若さで軍団長に任命された実力もさることながら、ザルワーン戦争で彼が立案したという作戦の数々は、戦後、ナーレスの頭脳を大いに楽しませた。残念ながら、彼と会う機会には恵まれていないのだが、もし会うことができれば、そのときには軍談に花を咲かせたいものだと彼は想っている。
そんなときが来るのだろうか。
ふと、彼は天を仰いだ。
夜の空、満天の星が彼の疲れを吸い上げるように瞬いている。
(あと何度、この星空を見られるのだろうか)
彼は、自分の命の時間があまり残されていないことを知っていた。
毒を、飲んだ。
投獄中、生きるために食らった餌の中に毒が含まれていたのだが、彼は、それをわかった上で食らった。ザルワーンお得意の外法の毒だ。解毒薬など存在しないだろう。
仕方のないことだ、と彼は思っている。
彼自身、ザルワーンという国を終わらせる毒だったのだ。
ザルワーンが滅びたのならば、つぎに滅びるのがナーレスというのは皮肉がきいているのかもしれない。
(だが、もうしばらくは持つ)
少なくとも、レオンガンドになにかを残すことはできよう。
ログナーを降し、ザルワーンを倒した彼を真の王者にするためには、ナーレスが残りの人生のすべてを捧げる覚悟が必要だろう。
レオンガンドは、そんなものになどなりたくないのかもしれないが。
(君には覇王になって頂く)
ミレルバス=ライバーンを倒した男には、そうなってもらうよりほかはなかった。