第五百二十一話 絶望の先
「どれだけ待たせれば気が済むのかしら。たかが罪人を死刑にするだけで、手間取り過ぎじゃない?」
エレニア=ディフォンが皮肉交じりに言い放ったのは、ガンディア情報部の諜報員たちが彼女の前に姿を表したのが数日ぶりだったからだ。
この国にとって極刑に値する罪を犯したという事実を認識していて、生きていることの意味を見失っている彼女にとって、希望があるとすれば、自分の命が終わることだけだった。最愛のひとを奪った復讐のために刃を刺したところで、彼女の心は救われなかった。喜びが生まれることもなければ、魂は、ただただ暗く沈んでいった。憎悪と復讐心は薄れたが、精神状態は、事件以前よりも悪いといえるだろう。
死ぬことだけを考えるようになった。
生きていても、なんの意味もない。
たとえ生き延び、再び復讐の機会に恵まれたとして、やはりエレニアの心は救われないのだろう。短剣が少年の脇腹に突き刺さった瞬間の感触は、いまも覚えている。初めて敵を斬り殺したときよりも鮮明な記憶。殺せる確信は、しかし、彼女になんの感慨ももたらさなかったのだ。
ミース=サイレンとふたりの男は、室内に入ってくるなり、渋い顔をしていた。いや、室内に入る前から、そのような表情をしていたに違いない。なにが不満なのかはわからないが、エレニアにはどうでもいいことだった。彼女はただ、刑の執行を待ち侘びているのだ。
(死を待つ身になるなんてね)
考えたこともなかったが、最愛のひとがこの世にいない以上、復讐に意味がない以上、生きていても仕方がないという結論に至るのは、当然だろう。
だからこそ、この数日、極刑を待ち侘びた。
「こちらにも事情があるのよ」
「王宮も大変ね。新しく任命されたばかりの領伯が暗殺されかけて。警備体制に問題があったんじゃないかしら」
「セツナ様を殺そうとしたのはあなたでしょ」
「そうね。でも、それは内部にわたしの協力者がいたからでしょう」
「その協力者がだれなのか、吐けといっているんだがな」
情報部の男のひとりがいった。厳しい顔つきの、いかにも修羅場をくぐり抜けてきたといった風情の人物で、エレニアにはグラード=クライドを想起させた。赤騎士グラードは、年の離れたウェインを見下したりはせず、同僚として、誠実かつ対等に付き合っており、エレニアとしても好ましい人物だった。そのグラードは、ガンディアの軍団長として働いているが、だからといって彼を恨むようなことはない。同じように、アスタルを恨んだりもしない。
彼女が憎んだのはウェインを殺したセツナであり、戦後、身の振り方ばかり考えていたテウロス家、ディフォン家の人間たちだ。仕方がないことだというのはわかっている。それでも、ウェインの死を悼むよりも、家のことばかりに意識を向ける連中に対して、敵意に近い感情を抱いてしまった。
「知らないわよ。いったでしょ。わたしは、計画書通りに行動しただけよ」
晩餐会の警備体制がログナー解放同盟に筒抜けだったというのは間の抜けた話だが、それもこれも、ガンディアの中枢に関わる人物が解放同盟に協力しているということだろう。ミース=サイレンたちの尋問は、解放同盟の背後にガンディアの貴族、あるいは軍人が関わっているのではないか、ということで終始した。
彼女たちは、今回の領伯暗殺未遂事件の背後関係を調べあげることに躍起になっていた。ログナー解放同盟、ログナー家以外のなにものかが関与しているのは間違いない、とミースたちは見ている。エレニアも同意見だが、だからといって彼女たちに協力する道理もなければ、協力するための情報を持ってもいなかった。
エレニアは、解放同盟の連絡員であり、ログナー家の使用人でもあったマーク=ウォロンの指示に従っただけのことだ。
結果として、キリル=ログナーには悪いことをしてしまった。キリルには落ち度はなかったのに、彼は死なざるを得なかった。ログナー家を護るためだ。家の名誉のために死んだ。彼の死によってログナー家は護られたという話をミースから聞かされた時、さすがのエレニアも衝撃を受けたものだ。かつて主君と仰いだ人物だ。かつて見たキリルの雄姿には、英傑の風貌があった。ザルワーンに敗れてからの姿は見るも無残なものだったが、それでも、英雄の面影が完全に失われることはなかった。
キリルは、ガンディアとの戦争に敗れたあと、家族ともどもガンディアの貴族となっていた。憑き物が落ちたかのような清々しさは、エレニアに殺意を抱かせたものの。彼自身に特別な恨みはなかった。もっとも、彼の死を悼む気持ちは微塵も生まれなかったのだが。
精神が硬直していけば、当然のように感情が死んでいく。
エレニアは、自分というものが壊死していくのを実感として認識していた。日に三度、提供される食事にも手を付ける気にもなれない。案外、死刑が執行されるよりも早く死ねるのではないか。そんな気さえする。
「……あなたは所詮、使い捨ての駒でしかなかったということね」
「そうね」
ミースはエレニアを罵ったつもりだったようだが、彼女はなんら痛痒を覚えなかった。捨て駒として利用されているのは織り込み済みのことだ。セツナに報復する事以外、なにも考えなかった。背後にだれがいようと構いはしなかった。ウェインを殺した男を殺す。ただそれだけのために、エレニアは刃を握った。
「……で、執行の日程は決まったのかしら?」
「決まったわよ。エレニア=ディフォン。あなたの刑がね」
「刑もなにも、極刑でしょ?」
エレニアは、ミースの言い方が気にかかった。領伯暗殺未遂事件の実行犯である以上、即刻死罪とするべきだろう。むしろ、情報を引き出すためとはいえ、今日まで生かされていることは驚きに値した。驚くほどの気力さえないのだが。
「……セツナ・ラーズ=エンジュール様は無事に目覚められた上、後遺症も確認されなかったわ。そして、これが重要なのだけれど、セツナ様は、あなたを許すと仰られたそうよ」
「は?」
「解放同盟とあなたが仕出かしたことは許されることではないし、その罪は問い続けることになる。けれど、セツナ様があなたを許した以上、あなたを極刑に処すのは不可能に近い。もちろん、セツナ様ひとりの判断だけで、あなたの刑が決まったわけではないけれど」
「……ちょっと待って。意味がわからないわ。どうしてわたしが許されるの? そもそも、許すってなによ。わたしは許されたくなんてないわ」
「死を望むあなたには、これ以上の罰はなさそうね」
ミースは皮肉っぽく口を歪めた。その彼女の言動が、いままでで一番堪えたのは、エレニアにとって図星だったからに違いない。そして、ミースは更に皮肉を続けてきた。
「あなたには追放刑が言い渡されるわ。追放先はエンジュール。良かったわね、故郷のログナーで罪を償うことができるなんて」
「エンジュール……」
エレニアは、呆然としながら、その地名を口にした。直後、絶望的な感情が湧き上がり、洪水となって意識を席巻していく。絶望。絶望しかないだろう。エンジュールはログナーの都市バッハリア南部の地名だが、同時に、セツナが領地として与えられた土地だった。セツナ・ラーズ=エンジュールとはエンジュール領伯セツナという意味であり、エンジュールに追放されるということは、セツナの領地で生きていかなければならないということだ。
死刑よりも残酷な刑罰だと思わざるを得ず、エレニアはミースを睨んだ。ミースは勝ち誇ったような顔でこちらを見ていたが、それもすぐに消えた。
「わたしたちには不服の残る結果だけど、あなたのそんな顔が見ることができたのだから満足しておくとするわ。それに、あなたを死刑にすれば、ログナーが騒がしくなるのは間違いないものね」
「わたしひとり死んだくらいで、どうなるというのよ……」
「ログナー解放同盟が、あなたの死を利用するでしょう。キリル=ログナーの死すら利用する彼らには、あなたの死に様を有効活用するくらい簡単なことよ」
「利用価値なんてあるわけない……」
「あなたが処刑されていた場合、ログナー解放同盟の殉教者として大いに喧伝されたでしょうね」
「そんなこと……」
「そんなことありえないなんていえるほど、解放同盟のことを知っているのかしら?」
ミース=サイレンの顔がこれほどまでに憎々しげに見えたのは、今日が初めてだった。
「せっかくもらえた命、大切にすることね。いうまでもないけれど、追放先では常に監視下にあるわよ。わたしや、わたしの仲間たちがあなたのことを見張っているということを忘れないことね」
「……どうしてよ。どうして、死なせてくれないのよ!」
「死にたければ、追放先で勝手に死ねばいいわ」
「……!」
はっと、顔を上げる。その手があった、と思ったのも束の間、ミースのまなざしがいつになく真剣なことに気づいた。いや、彼女はどんな時だって真剣そのものだったのだが、その真剣さの度合いが違った。
「でも、その場合、あなたのお腹の中に宿る命はどうなるのかしら」
「え……?」
「気づいていなかったの?」
「なにをいって……」
「あなた、妊娠しているのよ。三ヶ月くらいだそうよ。だからちゃんと食事を取りなさいっていっていたのに……まさか、知らなかったなんてね」
「嘘……よ」
そういうのが精一杯だった。
自分が妊娠しているだなんて、考えもしなかったことだ。ここのところの体調不良の原因が妊娠だとすれば、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしたくもなる。混乱があった。ミース=サイレンが自分を弄んでいるのではないかとも思ったが、そんなことをするような人物とも思い難い。罵倒や皮肉をいうことはあっても、彼女が嘘をいったことはなかった。そもそも、妊娠しているなどという突拍子もない嘘をいう道理がない。
エレニアは我知らずお腹に手を当てていた。確かに、微妙に膨らんでいる。いや、微妙どころではなく、自分で気づかないのがおかしいくらいに体型が変化していた。ウェインを失ってから自分のことまでもおざなりにしてきた結果がこれなのだろう。
「嘘じゃないわよ。あなたの身体検査をしたのは、ガンディアでも指折りの名医よ。まあ、軍医としては、という意味で、だけど」
「妊娠……」
エレニアは、ミ―スの言葉を聞き流しながら、自分のお腹を見下ろした。多少膨らんだお腹は、元騎士であり、鍛え上げた肉体の持ち主のものとは思えなかった。なぜ、いままで気づきもしなかったのか。目に入っていたけれど、無意識に気づかない振りをしていたのだろうか。気づいてしまえば、命を宿していることがわかってしまえば、この中に彼との想いの結晶が生まれているのだと知ってしまえば、復讐の決意が鈍ってしまうから。報復の刃を握れなくなってしまうから。死ぬことができなくなってしまうから。
エレニアは、目頭が熱を帯び、なにかが頬を伝っていくのを感じた。
「あれ……?」
止めどなくこぼれ落ちるのは、紛れも無く涙だった。絶望の先に希望があって、彼女はどうしたらいいのかわからなくなっていた。死ねなかったことを悲しめばいいのか、生かされたことを喜べばいいのか。
彼の子を宿していたことを素直に受け止めればいいのか。
「子供のことを思うのなら、生きることね」
ミース=サイレンの言葉に強い想いが込められていることに気づいたのは、彼女たちが部屋を出て行ってからのことだった。ミースの家族を失ったという話を思い出して、エレニアは自分の体を抱きしめた。自分の胎内に宿る命を抱きしめるように、優しく、強く。
「生きていて、いいのかな」
だれとはなしに問う。答えなどあるはずもない。だれもいないのだ。虚空に浮かんだ音は、意味もなく広がり、消えて失せる。そんなことはわかっている。それでも問わずにはいられない事情が、彼女にはあった。
死ぬことばかりを考えていた彼女にとって、生きなければならない理由があったことは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。自分の体の中に新たな生命が生まれていて、その命が最愛のひととの愛の証明だったのだ。
「ウェイン……」
エレニアは、ただひとり愛した男の名を言葉にして、瞼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは彼との想い出であり、彼と生きた日々の記憶だ。幸福に満ちた時間は止まってしまったけれど、終わったわけではなかった。彼の生きた証が、愛の証明が、この体の中に息づいている。
『自分の子供につけるとすれば、どんな名前か考えたことはある?』
『将来の話? いつだって気が早いね、君は』
ずっと昔、それこそ子供の頃、そんな話をしたことを覚えている。ウェインは、エレニアのことをせっかちだなんだと笑っていたが、エレニアにしてみれば、ただウェインと少しでも言葉を交わしたくて話題を作っていたに過ぎない。
『でも、そうだな。自分の子供に名前をつけるとすれば、レイン、かな』
『レイン?』
『そう。レイン。男でも女でも通用するだろう?』
『それだけの理由なの? なんか子供がかわいそうよ』
エレニアが不服をのべると、彼は慌てたように釈明してきたものだ。
『レインは、テウロス家にとっては重要な名前なんだよ。レイン=テウロスは、テウロス家の基礎を築いた人物だからね』
あとで調べてみたところ、彼の説明に間違いはなかった。レイン=テウロスは、ログナー建国に尽力した人物であり、初代ログナー国王が騎士に任命したただひとりの人物だったという。それほどの人物の名を知らなかったのは、エレニアがまだまだ子供だったからでもあるが、ディフォン家の家風として、女子に家の歴史を教えたりはしなかったことも大きいのだろう。
エレニアがその名を覚えていたのは、その話があってから、テウロス家やディフォン家の歴史に興味を持ったからだ。レイン=テウロスは、テウロス家の分家であるディフォン家の基礎をも築いた人物でもあった。つまり、彼女にとっても偉大な名前だった。
(レイン……あなたは生まれたいわよね?)
エレニアは、自分のお腹に手を当てながら、心の中で問いかけた。自分の中に息づく命だ。
言葉に出すよりも、心に思い浮かべるほうが届くような気がした。