第五百二十話 オーギュストの策
「後宮がサンシアン家に抑えられた……だと!?」
ラインス=アンスリウスが、優雅な午後のひとときを打ち切らざるを得なくなったのは、アンスリウス家の私兵団の団長が屋敷に飛び込んできたからであり、彼の部下たちが続々と戻ってきたからだ。それもどうやらアンスリウス家の私兵団だけの問題ではないらしいということは、団長の報告からわかっている。おそらく、ゼイン=マルディーンの私兵たちも、ラファエル=クロウの私兵も、後宮から退去を命ぜられ、そそくさとそれぞれの屋敷に戻ったに違いない。
「は、はい! つい先程、オーギュスト様の私兵団《獅子の髭》が大挙して後宮に押し入ってきたのです」
「それでおめおめと帰ってきたというのか!」
ラインスが怒声を発したのは、ここのところ、太后派が現王派に押され気味だったことが遠因としてあるのだろう。セツナの暗殺が失敗に終わっただけでなく、ログナー家を処分することさえも失敗した。ログナーの情勢は荒れているようだが、それもすぐに収束するだろうことは目に見えている。レオンガンドの勢力を削ぐどころか、結束を固めただけに過ぎないのではないか。特に民心はレオンガンドに傾く一方だという。混乱に乗じて後宮に兵を入れた太后派を批判する声さえ上がっているというのだ。このままでは、ラインスの夢が形になる前に終わってしまうのではないか。
ラインスが、中年の団長を睨み据えたのも、無理からぬことだった。
「それだけではないのです! 《獅子の髭》は、太后殿下の御命令により、我々を後宮から排除すると宣言し、これに従わない場合は国家への反逆とみなす、と……!」
「グレイシアの命令だと……? そんな馬鹿な……!」
ラインスは、私兵団の団長の顔を見やりながら、体の震えを抑えられなかった。衝撃が全身を駆け抜けている。それも、オーギュストの裏切りよりも余程強烈な衝撃だった。グレイシアに見限られたというのか。
太后殿下、つまりグレイシア・レア=ガンディアは、ラインスの実の妹である。ラインスとグレイシアは、子供の頃から周囲に疑われるほど仲が良く、彼女がシウスクラウドに見初められ、妃となってからも、その親密さに変化はなかった。ラインスのことをだれよりも尊重してくれたのがグレイシアであり、だからこそ、彼はグレイシアをもってガンディアを纏め上げようとしたのだ。
彼の率いる反レオンガンド派が太后派となったのはある意味では必然だった。
そして、太后派に祭り上げられているグレイシアは、まんざらでもないような態度をとっていたように思えるのだが。
「ラインス様、我々はどうすれば……」
「どうするもこうするもなかろう」
「その通り。太后殿下の御命令とあらば、後宮はサンシアン家に任せるよりほかはありませぬな」
聞き知った声に目を向けると、アンスリウス家の使用人に先導されて、ひとりの紳士が現れた。ゼイン=マルディーン。ゼフィルとよく似た外見の男は、自分のところの私兵団長を引き連れて来ていた。彼の家の私兵団も退去させられたという報告にきたのだろうが。
「ゼインか」
「まったく、殿下のお心変わりにも困ったものです。これでは、我々の大義が揺らぎかねません」
「心変わり……だと」
「そうとしか考えられませんよ。太后派に構うのも飽いたのでしょう」
ゼイン=マルディーンは、皮肉めいた口調でいってきたが、ラインスは彼特有の口調なのだと聞き流した。ゼインにはそういうところがある。それが彼と彼の実弟ゼフィルが仲違いする原因となったのだから、どうしようもない。
「どちらへ?」
「……後宮へ行く」
ラインスは、グレイシアに問いただす必要があると思った。
「いって、どうにかなるものでもありますまいに」
ゼフィルの言葉が嫌に辛辣に聞こえたのは、自身の精神状態が正常ではないからだと結論づけて、彼は後宮へ急いだ。
アンスリウス家の屋敷は、ほかの貴族と同様、ガンディオンの中枢部である王宮区画にある。王宮区画の北側城壁付近の大邸宅がアンスリウス家の屋敷であり、それほどの敷地と建物を有しているのは、ガンディアの貴族においてもアンスリウス家をおいてほかにはなかった。もっとも、王宮区画最大の建造物は、いわずとしれた王宮そのものであり、ガンディア王家にはなにものも敵わないという印象を植え付けるにはうってつけだった。
後宮ですら、並み居る貴族の屋敷よりも巨大だった。ガンディア王家がいかに権威的なのかは、これでよくわかるというものだが、王侯貴族とは概してそのようなものであり、ラインスはそのこと自体を否定する気にはなれない。むしろ、肯定する側の人間である。
後宮は、いまやグレイシアのためだけの宮殿として機能している。太后殿下の御屋敷と呼ばれ、尊ばれている。政治的有利を得るためとはいえ、私兵団を入れることを最後まで悩んだのがラインスのラインスたる所以だったのかもしれない。
後宮を政争に巻き込みたくないというラインスの考えは、なにも彼個人の哲学によるものではない。後宮を巻き込むということは、太后殿下そのひとを政争に巻き込むということにほかならず、太后派と名乗りながら太后グレイシアを矢面に立たせなかったことに大義を見出していたものたちには、信念が揺るぎかねない出来事なのだ。
実際、後宮に私兵を入れたことを批判するものは、少なくはなかった。
レオンガンド派が様々な思惑を持ったものたちの集まりであるのと同じように、太后派も必ずしも一枚岩ではない。レオンガンド憎しの一念で集まった貴族たちによって結成されたのが太后派である以上、レオンガンドを追い落とすだけが共通の正義だった。
ラインスの一党などと呼ばれることもあるが、実体としてそのようなものは存在しないといってもいい。無論、ラインスの考えに共感し、彼と同じ行動理念を持つものもいる。が、それはラファエルやゼインといった少数であり、太后派の大多数を占めるのは、先王シウスクラウドの信奉者なのだ。
シウスクラウド信者にしてみれば、ラインスによるガンディアの支配など、妄言であり戯言なのだ。ラインスもそれはわかっている。わかった上で、彼らシウスクラウド信者の反レオンガンド派を集め、一大勢力としたのだ。そうでもしなければ、“うつけ”の王子を絶対的な君主として仰がねばならなくなるからだ。ガンディアを二分する勢力を形成することができれば、いかな“うつけ”であっても絶対者として君臨することはできまい――。
(レオンガンドめ……!)
ラインスは、従者を連れて後宮へ急ぎながら、胸中で政敵の名を叫んだ。彼のことを明確に敵だと考えるようになったのは、いつだったのか。振り返っても思い出せないくらい遠い記憶だ。レオンガンドが生まれ落ちた時から、敵として認識していたのかもしれない。グレイシアの愛情を全身で受ける赤子に嫉妬を覚えたのは、彼が妹に歪んだ愛情を抱いていたからなのは間違いなかったが。
レオンガンドさえいなければ、と、彼は何度思っただろうか。
レオンガンドさえ生まれなければ。
どれだけ思ったところで、彼が生まれ、王位を継承した事実を消すことはできない。“うつけ”の仮面を拭い去ったかのように、英雄の再臨かのように振舞っている現実も、否定することはできない。レオンガンドは獅子王と呼ばれ始めている。シウスクラウドの子に恥じぬ名声を得始めている。だからこそ、ラインスは行動を起こさなければならなかった。いまでなければ、レオンガンドを地に引きずり下ろすことはできない。
『陛下が増長した暁には、我々の存在など意にも介さなくなりましょうな』
ゼイン=マルディーンの囁きが、彼の背中を押した。
レオンガンドの権威を失墜させるための方法を考えに考え抜いた。ひとつは、英雄を殺すことだった。ガンディアの領土を回復させ、ログナー平定に多大な功績を残したセツナは、救国の英雄と謳われている。その彼を殺せば、彼を護れなかったレオンガンドの人望は地に落ちるのではないか。それだけではない。セツナがいなくなるということは、ガンディアの戦力が激減するということだ。レオンガンドの権力の背景には、黒き矛のセツナを筆頭とする純然たる戦力があった。その戦力の大部分をたったひとりで担っているのがセツナという人間だった。彼を殺せば、レオンガンドの戦力は激減し、権力も低下する。レオンガンドの立場は弱体化する。
そう考えた。
だが、現実はどうだ。
暗殺計画は失敗に終わり、予備の策も不発に終わった。ログナー家は、キリルの死によって救われただけでなく、レオンガンド派は、この一件で結束を強くしたという。特にエリウス=ログナーはレオンガンドの側近に加えられたことで、ガンディアの国政に参加する可能性を見せている。ログナー人がガンディアの政治を司るなど、あるべきではない。
怒りが、彼の思考回路を止めどなく旋回させる。今日までの出来事が無数に浮かんでは消えた。それらの事物が今日という日に繋がっていく。
しかし、後宮前に辿り着いたころ、ラインスは冷静さを取り戻していた。怒りも度が過ぎると、熱するよりもむしろ冷えていくものらしく、平常心を得た彼は、後宮前に整列した兵士たちに向かって進んだ。兵士は、サンシアン家の紋章を身につけていることから、サンシアン家の私兵団《獅子の髭》であることが窺える。鎧兜を身に纏い、武器まで携帯しているという物々しさが、王宮の現状を物語っていた。それもこれも、ラインスが招いた事態なのだが。
《獅子の髭》は、前述の通り、サンシアン家お抱えの私兵集団であり、貴族でもなければ、軍人でもなかった。ラインスの私兵団ように軍から招聘した人物も混ざっているのかもしれないが、大半が素性の定からぬ連中であるのは間違いない。そんな連中を後宮に入れるなど以ての外なのだが、いまはそんなことをいっている場合ではなかった。
ラインスは、いつものように悠然と後宮の入口に向かって進んだ。すると、《獅子の髭》団員たちが彼の進路を塞いだ。従者が叫ぶ。
「なにをしている! ラインス=アンスリウス様ぞ!」
「それがどうかされましたか?」
ラインスたちの前に立っているのは、筋肉の塊のような大男だった。従者が息を呑むのもわからなくはない。軍人にも、これほどまで鍛えあげられた肉体を持つものは少ないのではないかと思えるほどだった。《獅子の髭》の団長を務めている男で、サイラス・ザム=シオールという名前だったはずだ。《獅子の髭》の中で、彼だけは素性の明らかな人物といっていいだろう。シオール家は、サンシアン家とともにガンディアに流れ着いてきた家で、サンシアン王国では聖騎士を輩出した名門だったという。サンシアン家が落魄してもなお付き従い続けたシオール家こそ、騎士の鑑と呼ぶものも多い。ラインス自身、ガンディアの騎士はシオール家を見習うべきだと発言したことがある。
オーギュストが最初から敵であったとしても、その考えは変わらなかっただろう。敵であったとしても、敬意を払うべきものには払うべきなのだ。
「ラインス様は後宮に向かわれるのだ。道を塞ぐのはなにごとか!」
「太后殿下の御命令により、現在、後宮にはなにものも入れるわけには参りません」
「ラインス様は、太后殿下にお目通りする権利を持っておられるのだぞ!」
「ですから、太后殿下は、なにものにもお会いになされぬ、と仰られておられるのです。それがたとえ、ラインス=アンスリウス様であっても」
「馬鹿な!」
「もう、よい」
「ラインス様!」
「後宮の御前で犬のように喚くものではない。殿下の御命令とあらば、従うよりほかはなかろう」
ラインスは、従者の赤ら顔を一瞥すると、胸中で嘆息した。彼がここまで血気盛んだとは露も知らなかった。彼を連れて来るべきではなかったのかもしれない、とも思ったが、彼がいなければ、恥をかいたのはラインス自身かもしれない。彼が吠えたからこそ、ラインスは冷静さを失わずに済んだという面がある。
「サイラス殿、後宮の警護、任せましたぞ」
「はっ」
ラインスの立場をわきまえたのか、サイラスは敬礼して見せた。その姿は凛としていて、さすがは古くから続く騎士の家系の人間だと、ラインスも感心するほどだった。だが、それは同時に彼に惨めな気分を味わわせるのだ。
ラインスは、ガンディアにおいては最高峰のアンスリウス家の当主であり、太后の兄にして王の伯父である。これ以上ないほどの地位にありながら、なぜ、こうも敗北感に打ちのめされなければならないのか。
彼は、後宮を後にしながら、臍を噛んだ。
(いまは退くしかあるまい……いまは……)
脳裏には、レオンガンドの勝ち誇った顔が浮かんだ。
「これで、よかったのですね?」
「はい。これが、ガンディアの現状にとって最良の判断となりましょう」
オーギュストは、グレイシアの悲しみに満ちた顔から目を背けた。情の深すぎる彼女には、この決断がいかに辛いものだったのかが窺える。しかし、太后派の増長を許したのは、太后グレイシアの優柔不断が原因でもあるのだ。八方美人といってもいい。
だれに対しても深い愛を以って応対する彼女が国民からも貴族や軍人からも支持されるのは、わからなくはない。だが、そのために太后派がのさばり、国政が著しく停滞するのは考えものであろう。しかも、彼女は太后である。彼女に忠告するなど、恐れ多いことだった。レオンガンドすら、彼女にはなにもいえないようなのだ。
(愛の深い一族なのだろう)
オーギュストは、そう考えている。
シウスクラウド以前の王についてはよくは知らないが、サンシアン家に対して限りない愛を注いでくれたのはガンディアの王家だけであり、サンシアン家がガンディアのために人生を捧げるという家風になったのも、ガンディア王家が愛の深い一族だったからに違いなかった。シウスクラウドも、グレイシアへの愛情の深さで有名であったし、レオンガンドも、親族への愛が彼の野心を縛り付けている。グレイシアはアンスリウス家の人間だったが、シウスクラウドに感化されたと思えば、納得できる考え方ではなかろうか。
(だが、それは業の深さでもある)
どくん。
自身の心音が聞こえたのは、後宮の謁見の間が静寂に包まれていたからであり、昨日のことを思い出してしまったからでもある。レオンガンドの告白は、オーギュストに多大な衝撃を与えていた。そして、彼がレオンガンドのためになにをなすべきなのかを考えさせられた瞬間でもあった。
もちろん、レオンガンドだけのためではない。
ガンディアのためだ。
落ちぶれたサンシアン家を拾い上げ、貴族の一員に迎え入れてくれたガンディア王家の恩に報いる――それだけが、オーギュスト=サンシアンの人生なのだ。
(良かったのでしょう? レオンガンド様)
オーギュストが脳裏に浮かべたのは、苦渋の決断に迫られた若き王の姿だった。太后派の兵を後宮から一掃するという策を提案したとき、レオンガンドはなにを思ったのだろうか。ラインスの心中を察したのだろうか。それとも、その先を見ていたのだろうか。ラインスがこのまま引き下がるとは思えない。レオンガンドの寵愛するセツナを暗殺しようとした男だ。このような仕打ちに遭って、ただで済ませようとはしないだろう。
レオンガンドが最悪の可能性を憂慮するのも無理はなかったし、オーギュストもそうなることを予期している。
だが、それは好機でもあるのだ。
ラインスの一党が、この状況を打開するために起こすような行動は、だいそれたものにならざるを得まい。それも、領伯暗殺未遂よりも余程重大な事件でも起こさない限り、太后派が台頭することなどできまい。
そのときこそ、ラインス=アンスリウス及びその一派を根絶するのだ。そうなればレオンガンド政権は盤石となり、ガンディアの政情も安定するだろう。